今日から前期定期試験が始まるよ!
今までの勉強の成果が試されるね
雨だけど・・・みんな頑張ろう!
さて、そんな今日は小樽高商の初代校長の紹介だよ!
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渡邊龍聖は、1911(明治44)年に着任し、1921(大正10)年11月までの11年半、小樽高商の初代校長を務めた。
渡邊は着任する以前、ドイツに留学していたのだが、その留学の直前に、当時(1910年頃)の文部次官であった岡田良平から、「帰国後どこかの学校の校長をやってみる気はないか」と言われ、冗談半分に「もし誰も行き手のない厄介な学校があったら腕試しにやってみてもよい」と答えていた。
このことが、渡邊が校長を担うきっかけとなった。
渡邊の教育方針は、「実務教育中心主義」であった。
それは商業・商人の国家的位置ということから導きだされたものであり、単なる実務教育を施すにとどまらず、実業人としての倫理を形成するという意味を含んでいた。
渡邊の専攻は倫理学であったため、倫理教育というものを意識していたと思われる。
実務教育重視の小樽高商には商業実践、企業実践、商品実験の三つの学科が置かれた。
これらは小樽高商独特のものであった。
渡邊は、「商人の道徳は商人の実践のなかではじめて形成される」と考えていたのである。
小樽高商を開校するにあたって、優秀な教官を集めることが一つの課題であり、渡邊は苦心したという。
結局、開校当時の教師の人数は、渡邊自身を含めて18名にすぎなかったが、開校後は、二代目校長を務めた伴房次郎などが就任するなど、徐々に人材が増えていった。
また、開校当時から外国語教育に力を入れるべく、外国人講師を招聘していた。
さらに、渡邊は卒業生を適職につけるべく、高商からの就職先を開拓した。
会社の重役に面会を申し入れたりしたようだが、これについても非常に苦心したようである。
高商は新設学校だったため、このようなことが必要だったのだ。
開校してから8ヶ月ほど経った1911(明治44年)12月、学生が中心となって校友会が発足し、校友会の会長には渡邊が就いた。
初めは学芸部、武道部、運動部の三つの部が設けられており、活発に活動していたようだ。
中でも、運動部の中にスキー部があったのが特徴的だったといえる。
ちなみに、渡邊は体育の一環としてもスキーを取り入れたが、これは全国的に初めてのことだったようだ。
1928(大正7)年12月に大学令が制定され、小樽高商の大学昇格が提唱されるようになったことがあった(当時の小樽高商は専門学校の扱いだった)。
しかし、渡邊はこれに反対した。
彼が反対した理由は、大学は学術の理論及び応用を教授する所、すなわち大学の本分は理論を主として応用を兼ねることであり、専門学校は高等の学術を教授する所、すなわち専門学校の職分は応用を主として理論を兼ねることにある、といったことである。
渡邊は、大学に昇格するよりも、まずは内容を充実することに重きを置いていたのであった。
1921(大正10)年11月、渡邊は校長を退任し、次は名古屋高商の初代校長になることとなった。
渡邊が転出するにあたり、教官・学生の間では留任運動が起こっていたようである。
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色々な変遷をたどって今の商大があるんだね
これからも校長や学長をいっぱい紹介できるといいな!
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