衆・参議院議員も務めた苫米地英俊校長とは
今日は歴代校長・学長紹介シリーズ第3弾として,小樽高商時代第3代校長である苫米地英俊(とまべち ひでとし)氏(1884-1966)を紹介するよ。
前回紹介した初代校長渡邊先生はこちら。
第2代校長伴先生はこちら。
苫米地校長の任期は1935年4月から1946年3月までだけど,小樽高商に赴任してきたのは1912年なんだ。つまり,元々学内で教鞭を取っていた生え抜きの教官なんだ。実は,生え抜きの校長や学長というのは,この時代では結構珍しいことで,当時は中央の官僚等が校長として招聘されたりすることが多かったんだって。
苫米地教官が専門としていたのは「商業英語」で,授業はひじょーーに厳しく,どんなに周到に用意してきた学生の作文も原型がないほどに訂正されたほどだとか。また,ビジネスレターや電報(Correspondence)に用いられる英語はコレポンと呼ばれ,高商の英語教育を支えていたそうだよ。さらに彼が自ら作成した教科書「商業英語通信規範」は改訂を重ねながら実に半世紀近くも全国の高商系の「商業英語」の教科書として使われたんだ。この本は,何と最終的には700ページに及ぶ分厚い本になってしまったとか。700ページって凄い・・・
こちらは卒業アルバムに掲載されている苫米地教官だよ。
一方で,スキーや水泳,柔道を得意とするスポーツマンでもあったんだ。特に講道館で鍛えた柔道の腕前は,校内紅白試合で「14分間に37人を投げたる技量鮮やかにして大喝采を博する」との新聞記事もあるほどで,他にも高等教育機関で初のスキー授業を始めたり,小樽スキー倶楽部を設立するなど,小樽にスキーを伝えた人でもあるんだ。校長時代には室内温室プールの建設,健康診断の実施など学生の健康や体力向上にも熱心だったんだよ。校長就任翌年には昭和天皇の行幸があり,奏上文にも武道や身体の鍛練を奨励していると記されているぐらいだから研究一辺倒な教官じゃないことがわかるね。
前任の伴校長が大らかな感じだったのに対し,苫米地校長は「カミソリ校長」の異名が示すとおり強力なリーダーシップを発揮するタイプで,学内の機構改革を断行したり,研究基金の募集のため自ら各地の同窓会を回ったり,就職口の開拓においては,満州や朝鮮まで出向いて個々の学生に就職斡旋の配慮を行ったそうだよ。すごい行動力だなあ。
しかし,任期を見るとわかるけど時代はちょうど第2次世界大戦へ向かう真っ只中。小樽高商も例外では無く授業で軍事教練が行われたりしたんだ。1937年には日中戦争,41年には太平洋戦争が始まり学徒動員も行われ,多くの人命が失われてしまいました。現在,大学構内の奥にある慰霊塔には347名の氏名が刻まれた慰霊碑があり毎年8月15日には慰霊祭が行われているのはみんな知っているよね。
戦時中の1944年4月には小樽経済専門学校に改称され小樽高商時代は終わりを告げることになったんだ。
1946年3月,苫米地校長は,校長を辞職し,何と翌4月の総選挙に出馬,学生や卒業生の応援を得て当選を果たし,衆議院議員となった後は,小樽高商の大学昇格運動において単独昇格実現のため,GHQとの折衝に当たり見事実現させているんだ。
激動の時代を教官から校長としてこの緑丘で過ごした苫米地英俊校長のこと少しは知ってもらえたかな?
次回の校長・学長紹介は小樽商科大学初代学長「大野純一」だよ。