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アジュナシアさん作品紹介part2



今日は、昨日に引き続き、文芸サークルアジュナシアさんからの紹介作品 「夢の中で僕は白いサルと種を蒔く(山査子さん)」の続きをお送りするね!


さてさて、なかなか学校になじめない主人公。夢の中で出会うサルの言うとおり、自分の存在を必要とする人に出会うことができるのでしょうか!



☆  ☆  ☆



(現実2)


朝、クラスの自分の席に着いてから、放課後まで、僕は貝になる。固い殻にこもり、外部の情報をシャットダウンする。時々、授業もろくに聞かないときがある。僕はひたすら空想の世界にふけって、物語を書いたり、図書館から借りてきた本を読んでいたりする。


「おい、早く机下げろよ。」


こんがりと日焼けした肌の野球部所属の丸坊主が大げさに舌打ちして言った。


気がつくと、放課後のホームルームはとうに終わっていて、周囲は当に掃除を始めていた。僕の列だけが椅子を机の上にさかさまに上げ、帰る準備万全に僕が机を下げるのをいらだたしそうに待っていた。


「ご、ごめん。」


 話し慣れていないせいか、咄嗟に声が出ない。相手に聞こえるか聞こえないかの声で言った。


慌てて教科書やノートを鞄にしまおうとしたせいで、机の上の筆箱を落としてしまった。明らかに周りの表情が一変した。丸坊主は僕を無視して机を下げ始めた。そして彼の机を下げ始めた音を合図にさらに前の席の人たちも机を引きずる。僕は落ちた筆記用具を拾えず、野球部の押しに負けて、椅子も上げずに机をロッカーの手前まで下げた。


 派手に落ちた、安価な透明のプラスチック製の筆箱を拾おうと屈んだ時、誰かの足がちょうど筆箱の上に降りてきて、バキっと、いい音がした。「トロトロすんじゃねぇよ。」


顔を上げなくてもわかった。丸坊主がのろまな僕に罰を与えたのだ。


幸い、それ以上何かをされることはなく、彼はさっさと教室を出て行った。一部始終を見ていた女子同士がひそひそ話しながら掃除を再開した。


 ひび割れたプラスチックの箱、周りのざわめき。荷物も持たずに僕は逃げたくなった。僕はいったい何をしに学校へ来ているのか。


「タカハシくん。」


 肩をたたかれて、ビックリした。まだ何か文句を言われるのかと思って振り向くと、サイトウさんが立っていた。


「これ、落ちてたよ。」


グリップの部分がジェル上になっているシャーペンと、消しゴム。


 「あ、ありがとう。」


お礼を言うと、サイトウさんは微笑んだ。


 サイトウさんは色の白くて、小動物のように可愛い子だった。体育の時間の更衣室の中ではいつも「サイトウめっちゃ可愛いよな。」「俺、ああいうやつとヤりたい。」などと年頃らしい会話が飛交うほど、クラスの男子の間では密かに人気が高い。


しかし、誰も積極的に彼女に話しかけることはない。メールアドレスを聞くことさえもしない。なぜなら、彼女は他と交わろうとしないからだ。


昼休み、彼女は弁当を一人で食べる。一人で弁当を食べるのは、クラスの中では僕と彼女の二人くらいだ。移動教室も一人で行く。休み時間は窓の外を眺めていたり、寝ていたりする。彼女の単独行動には、クラスのことにほとんど無頓着な担任さえもが、気が付き「誰かにいじめられているのか。」と個別に面談をするほど心配したらしい。


担任は孤立=「いじめ」と思っているのかもしれないが、それは違う。僕もサイトウさんも、いじめに遭っているわけではない。サイトウさんを同じくくりにしていいのかはいささか疑問符のつくところだが、クラスの大多数の人たちが当たり前のようにこなしている、あの表面的なやりとりに加われず、僕は(多分サイトウさんも)自分から孤立しているのだ。


鞄の中に、筆箱を入れ、僕が帰ろうとした時、誰かの手が僕の肩を叩いた。さっさとこの場から立ち去ってしまいたいのに今日は全くついてないな、と不愉快な思いで振り向くと、先ほどペンを拾ってくれたサイトウさんがまだ立っていた。


「ちょっとだけ、いいかな。」


教壇の前に並んで掃除の反省をし終わった当番の人たちが帰宅準備をして教室を出て行く。何人かがこちらをちら見して通り過ぎていった。


「えーと、用事済んだら鍵かけて、職員室まで持ってきて。」


担任が、サイトウさんに「1-B」とシールの貼ってある鍵を渡す。


「わかりました。」とサイトウさんが鍵を受け取った。


担任がいなくなると、教室には二人しかいなくなった。サイトウさんはある清涼飲料水のコマーシャルに出ている清純派女優に似ているとクラスの男子の間では評判だった。なるほど、その点は、あながち間違いではないかもしれない。


「今日、暇?」


サイトウさんが僕に尋ねた。


友達のいない、僕に放課後の予定は家に帰るか、せいぜい近所の図書館で本を借りるくらいしかない。


「どうして?」


すぐに「暇だよ」と答えて、下心があるように思われても嫌だったので、その理由を聞いた。


「一緒にライブに行って欲しいんだ。」


「ライブ?」


僕が聞き返すと、サイトウさんは頷いた。


「本当は姉さんと二人で行く予定していたんだけど、肝心の姉さんが風邪でダウンしちゃって。チケット二枚あるし、良かったらどうかな。」


僕らは今まで言葉を交わしたことがなかった。「おはよう。」も「お疲れ様。」すらなかった。それなのに今日一緒にいきなりライブに行くなんて。先ほどから状況を飲み込めないまま、あまりにもバタバタと展開が変わっていく。…ひょっとしたら僕はドッキリカメラにでもはめられているのかもしれない。


「どう?」


「…なんで僕なの?」


ライブに行く、行かないと言う返事の前にどうして僕なのだろう。僕と行かなければならない理由でもあるのだろうか。例えば、男女のペアでライブに行けば何かもらえるとか。


サイトウさんの言葉を待ちながら、掌はじっとり汗ばんでいた。平静を装いながらさりげなくズボンで汗を拭いた。女の子と向かい合って話すなんて高校に入ってから一度もなかった。中学校時代にはあったかといえば、定かではないけれど。


「タカハシくんが必要だから、かな。」


「それって、上手く答えになっているようでなってないよ。」


知りたかったのはなぜ僕を必要としているのかという、もう一段先の理由だったのに。でも、誰かから自分が必要だと言われるのは、悪い気はしなかった。率直に、嬉しかった。


「…一緒に行ってくれない?」


多分このお願いを聞き入れるべきだと僕は直感的に思った。この人は本当に僕を必要としてくれているのがなんとなく伝わってきたし、それは誰からも必要とされていない、家と学校を往復するだけの暗くじめじめした僕の青春に差し込んだ一筋の明るい希望のように思えたからだ。


「別に…いいよ。」


考えてみれば、僕にサイトウさんの誘いを断る理由は特にないのだ。サイトウさんの表情がふっと和やかになった。


開けっ放しの窓から、心地よい風がサイトウさんの髪を揺らした。グラウンドからはホイッスルの音と地面バタバタ走る音が聞こえる。廊下からは吹奏楽部の音出し練習が始まっていた。それに比べたら僕たちはとても静かだった。今いる場所が昼間はごたごたしていて、騒々しく動物園のような教室と同じ場所とは思えなかった。どちらかが喋らないと教室は無音となってしまう。こんなにも音に溢れた世界にいるのに、その大多数の音とは無縁の空間。


「ありがとう。タカハシくん。」


サイトウさんが微笑んだ。彼女は最初から僕をそのライブに誘いたかったのかもしれない。お姉さんが風邪でライブに行けなくなってしまったというのが、もし事実なら余りにもそれは都合が良すぎた。加えて、一度も話したことすらない人間といきなりライブに二人で行くのはどう考えても不自然だ。コース料理で前菜も出ていないのに突然メインディッシュが出てこないのと同じように。


つまり、僕とそのライブに行くことで、彼女に何らかの意味がもたらされるのではないか。そう考えるのが一番道理に合っている。もちろん、そんな気がしただけだ。



サイトウさんが好きなロックバンド“スカーレット”は、関西出身のバンドで、三年前にメジャーデビューを果たし、東京を中心とした関東地方ではそこそこ有名のようだ。


ただ、北海道のファンはまだまだ少なく、サイトウさんも、“スカーレット”を知ったきっかけというのも、たまたまレンタルショップの中古CD売り場で、100円で売られていたから“冒険”してみただけだったらしい。


「それがまさかこんなにはまるなんて思ってもいなかったんだけど…。歌詞がね、本当に心に染みるの。お気に入りはね、『a day in our life』っていう曲。これはねシングルなんだけど、もう毎日狂ったように聴いてて。この曲には本当に支えられているんだ。」


会場のライブハウスの前に並び始めること15分。列に並んでいる人は全部で60人、70人いるか、いないかだった。ファン層としては、二十代と思われる女性が多いようで、辺りを見回しても制服姿でライブハウスに来ている人は僕らの他にはいなかった。


「へぇ、聴いてみたいな。」


「本当?じゃあ、今度CD貸してあげるね。いい曲がいっぱい入ってる、お気に入りのアルバムも一緒に貸すよ。」


クラスでは頬杖着きながら窓の外ばかり見ているイメージしかなかったサイトウさんが、僕にはとてもはしゃいでいるように見えた。


「ああ、うん。忘れなかったら、でいいよ。」


「うん。じゃあ、明日持って行くね。」


約束が果たされなくても、それはそれで仕方ないけれど。



開場時間となり、整理番号で並ばされた順番にライブハウスへ入場していく。僕はライブハウスへ来るのは初めてだったから、ワンドリンクオーダー制の意味がわからずに、そのまま通り過ぎようした。


「ドリンク代のお支払いをお願いします。」


紫のフレームの眼鏡をかけた背の高い受付の人に言われ、僕が鞄の中から財布を取り出そうすると、横から千円札が出てきた。


「今日は私が誘ったから。」


そう言って、サイトウさんはお金と引き換えに二人分のドリンクチケットを受け取った。


 「お姉ちゃんが言っていたんだけど、ライブ終わってからドリンク頼んだ方が良いみたい。それよりも、早く場所取らなくちゃ。」


 良い場所でライブを見たい、その一心からだろう。「早く。」サイトウさんは咄嗟に僕の右手をとった。細くて、冷たい、サイトウさんの手の感触。この時僕の心拍数はものすごい上がっていたと思う。


 ステージ最前列はすでにファンがその特等席を占拠していて、僕たちは二列目の中央よりの左側に立った。まだ、静かなステージの上。


周りは皆、真っ赤な色に筆記体でプリントされた"Scarlet"のロゴ入りTシャツを着ていた。制服姿の僕らは見知らぬ土地に来た迷子みたいに手を繋いでいた。恋人でもないのにそれができたのは周囲に誰一人として知っている顔はなかったからだ。


サイトウさんの手はビックリするほど冷たかった。外は確かに寒かったけれど、まさに氷を握っているような感覚だった。僕の体温を少し分けてあげたいくらいだった。


 話題も特になく、黙ってステージ上の機材を見ていた。当たり障りのない、ありふれた会話はライブハウスに来るまでの道のりと、会場が開かれるまでの時間で済ませてしまっていた。僕らは同じクラスということ以外お互いを結び付ける共通の話題をほとんど持っていない。だから、よく会話がここまでもったなというべきだった。


 「このライブ、どうしてもタカハシくんと行きたかったんだ。」


 だから、サイトウさんがそう言った時、とうとう核心に触れる時がやって来たのだと思った。


「お姉さんが風邪をひいてライブにいけなくなってしまったというのは?」


「ごめんね。嘘。そうじゃないと来てもらえない気がして。」


「どうして、そんな嘘をついてまで僕と来たかったの。」


「タカハシくんならわかってくれるような気がしたから。」


「何を?」


「適当な人付き合いができずに一人でいる寂しさ、とか。」


それからサイトウさんは、多分、彼女のありったけの力で僕の手を握った。華奢で小動物のような彼女からは考えられないほど強く、強く。一種のシグナルを送ろうとしていたように思えた。


「ねぇ、ちょっと暗くて重たい話、していいかな。タカハシくんになら言えるような気がする。」


 どんな暗くて重たい話なのか、果たして僕に受け止められるのかはわからなかったけれど、僕は「いいよ。」と言った。それからサイトウさんは肩にかけていた鞄を床に置いた。教科書などがびっしり入っているのだろう。ドスン、と重量を感じさせる音がした。ロッカーに荷物を預けてきた方がよかったかもしれない、と思った。でも、まぁいいか。鞄はサイトウさんの両足の間にちゃんと納まっているし、会場内はまだ十分なスペースがある。誰かが躓くようなことはないはずだ。


 「私の秘密。」サイトウさんは言った。「私ね、高校浪人しているんだ。」


 



サイトウさんの話によると、中学生の時サイトウさんには、三年間好きな人がいた。とりわけ格好良かったわけではないが、彼の誠実でわけ隔てなく、温厚な性格が好きだったという。片想いをしていても少女マンガのように、積極的に話しかけたり、わざとらしく偶然を装って何かを一緒にしたりすることはなかった。


中学三年生の進路を決める際にサイトウさんは彼と同じ高校に行こうと密かに決心していた。大きな目標があった方が厳しい試練も乗り越えやすい。もしも念願叶って一緒の高校に行けたら高校では今以上に仲良くなれるようにアクションを起こしてみよう――そういう明るい未来を描いていた。


彼女は懸命に努力してギリギリのボーダーラインでK高校を受験した。(偶然にもK高校といえば僕が先生に勧められたのに断ってしまった学校だった。)しかし、現実は甘くなかった。不幸にも彼だけが合格し、サイトウさんは合格点までわずか3点足りずに落ちるという結果になってしまった。


彼への想いを断ち切れず、どうしてもK高校へ行きたかったサイトウさんは高校浪人を決意した。さすがに、好きな人がいるから浪人したい、とは親にも友達にも言えず、「どうしてもK高校を受けたいので浪人させてください」と必死で懇願するしかなかった。私立への入学を勧める反対意見が圧倒的な中で、唯一、サイトウさんの父だけが浪人を認めてくれ、最終的にはサイトウさんは浪人することになった。


しかし、2度目の受験を1ヶ月後に控えていた2月の最初、サイトウさんは口に煙草をくわえ、彼女らしき人と一緒に歩いていた昔の好きな人の姿を見た。彼女は驚きを隠せなかった。なぜなら彼はすっかり別人になってしまっていた。何が原因でそうなってしまったのか見当も付かなかった。しかし、彼はひどく変わってしまった。彼の中で何かがはじけてしまったのだ。


彼もまたサイトウさんの姿に気が付くと、彼は指を差して『アイツ、行ける高校なくて浪人してんだって。高校浪人とか、ありえないよな。』と、連れの女と一緒になって笑ったらしい。


かつての好きな人のあまりにも残酷な言葉にサイトウさんは傷つき、しばらく塞ぎこみ、一年間浪人して目指していたK高校の受験をあきらめ、出身中学からの入学生が少ないA高を受けたそうだ。…


衝撃的だった。高校浪人、という言葉を僕ははじめて聞いた。僕の知り合いにも高校に落ちた人は何人かいたが、浪人はしなかった。皆私立に通っている。浪人という手段を思いつくことさえしなかっただろう。 


秘密を打ち明けた時のサイトウさんの表情はクラスにいる時と同じ、覇気のない、死んだ魚の目をした彼女だった。


「一年間浪人して入学したのがA高校だから、親はかなり落胆していて今もまだギクシャクした関係が続いているんだ。」


「そうなんだ。」


ステージ上ではスタッフがチューニングを始めていた。開演まで、あと10分あった。


「…学校ではやっぱり自分は一年年上で入学しているから、どうしても“自分はほかの皆と違う”って思ってしまうんだ。たった一年。だけど、この一年がとても大きな溝に思えて、うまくしゃべることができないの。もちろんそれを覚悟で浪人したはずなのに、…考えが甘かったな。」


上手くサイトウさんを励ます言葉が見当たらなかった。それでやっぱり「うーん。」という、淡白な受け答えしかできなかった。


「女子のね、クラスの人数知ってる?」


「17人でしょ?」


「そう。奇数なんだよね。ペアとかになったら必ず一人余るの。なんかそういうのって嫌じゃない?誰が余るとか、あっちのグループいきなよ、とか。だからね、それなら、そういうのを私が引き受けてしまえばいいんじゃないかな、って最初は思ったの。一人は孤独だけど、誰かが余ることもなくなるし、誕生日を聞かれることもない。担任が漏らさなければ自分が年上であるという秘密は隠し通せる。」


「それでクラスで孤立しているの?」


サイトウさんは首を横に振った。


「最近、一人でいたほうが私にとっても、皆にとっても都合がいいというのは、寂しさを紛らわすための自分勝手な言い訳に過ぎないんだろうなぁって気づいたの。…本当は、他の子たちと話を合わせられないだけなんだと思う。今時のファッションや芸能人のゴシップ、陰でクラスメイトの誰かの悪口言ったりとか…相手の興味の対象と自分の興味の対象がまるで違うの。だから上手く輪の中に入り込んでいけずに自分は常に円の外に飛び出していて、まるで間違った空間に足を踏み入れているような気持ちになる。タカハシくんはそう思うことある?」


「自分が間違った空間に存在しているんじゃないか、っていうのはいつも思うよ。」


なぜか丸坊主の姿が頭に浮かんだ。それから踏み潰されたペンケースのことも。新しいペンケースを買わなくては、と思った。


「クラスの笑い声に怖くなる時ってある?」


「あるよ。」


そんなの、いっつもだ。


「一人でお弁当を食べる時や教室移動の時の周りの視線は気になる?」


「教室にいる時はなるべく周囲と目を合わせない。」


目を合わせると、自分がなぜ今この瞬間この場にいるのか、ますますわからなくなってしまうから。


「誰にも必要とされていないと思う?」


「思うよ。自分がある日忽然と消えたとしても、『今日アイツいないね』の一言程度で片付けられて、いつもどおりにクラスは動いていくんだろうな。」


机とイスがあっても、あそこは僕のいるべき場所ではない。だからといって、もしもA高校ではなくK高校を受験していたら、また別の、少なくとも今よりもっとまともな高校生活になっていただろうか?そうなっていたに違いないという断言はできない。未来のことは誰にもわからない。


「そっか。同じだね。私と。」


サイトウさんがポツリと言った。会場のざわめきに危うく吸い込まれてしまうような小さな声だった。


「嬉しくない共通点だ。」


フフフ、とサイトウさんは微笑んだ。でも、それは『モナリザ』の絵のようにちょっと儚げで陰のある笑みだった。会場のBGMがフェードアウトし、フッと照明が消えた。キャーという歓声が上がる。


「ライブを楽しもうよ。」


歓声に負けないようにハッキリ、大きな声でサイトウさんに言った。僕の呼びかけに返事をする代わりに、サイトウさんはまた強く僕の手を握った。



スカーレットのメンバーはとりわけ容姿が格好いいわけでもなければ、アーティストに見られがちな独特なオーラもなかった。僕はファンではないので、次にどこかですれ違っても誰だか覚えていないだろう。


ライブの序盤は何一つとしてスカーレットの曲を知らないので、僕は周りのノリについていくのがやっとだった。ちらちらと横目見る、サイトウさんの瞳はまっすぐ、ステージに釘付けになっていた。


軽快でスピード感のある曲が何曲か続いた後、ステージの照明がぱっと明るくなった。パラパラとまばらに拍手が起こる。


「え~次の曲は、僕の高校時代を思い出して作った曲なんやけど、今日のライブにも、制服姿の子おるね。」


ボーカルが喋り、なんとなく視線が僕らに集まる。ここにいる人に僕たちはカップルで来た高校生、と認識されるのだろう。


「僕は高校生の頃、」ボーカルの話はまだ続く。


「学校が嫌いで、っていうかね、本音を言えずに他人に合わせてばっかりの自分自身が嫌いだった。一人で生きていけたらとか、学校なんてなくなればええのに、とずっと思ってて。でも、今こうして駆け出しのミュージシャンのやっとるとね、時々、高校生の時の友達とかが『今日、お前の曲ラジオのリクエストでかかってたよ。』とかってメールくれたりするんよね。で、そういう時、友達ってやっぱいいよなって思うわけ。


…高校生ぐらいの時って結構長いものに巻かれて流されることも多くて、自分を見失うときもあるけれど、人ってね、絶対に誰かを必要としているし、必要とされているんだよ。


次にやる曲はそういう当時の気持ちを思い出しながらを作った曲です。なんか湿っぽい話になっちゃったな。ええと、学生さんは恋におぼれることなく、勉強頑張れよ。」


最前列からファンの「頑張ります。」という桃色の声が聞こえた。4人の中では一番背の低いベース担当が失笑する。「タカノ、そろそろ次いこうよ?」


「…いっちゃいましょうか。次までにもうちょっとMCの修行積んできます。じゃ、聴いてください『a day in our life』」


タイトル名を聞いて、ほとんど同時に僕とサイトウさんは顔を見合わせた。そしてハッとした。サイトウさんはちょっとだけ、泣いていた。



『a day in our life』以降、何かが吹っ切れた。それまでは周りに合わせて手をたたくだけにしていたが、僕もサイトウさんも一緒に飛び跳ねたり、ダンスしたり、手を振った。恥ずかしさも、人の目も何も考えなかった。久しぶりに思いっきり体を動かしたので、すぐに汗だくになった。        


汗で、ワイシャツのぴったりくっつく感じが気持ち悪かったが、心はどこか清々しかった。


二時間半のライブは2度のアンコールで最高潮に盛り上がって終わった。観客の誰もが興奮していた。今なら、本気で空を飛べるような気さえした。


本当は、もう少し余韻に浸っていたかったが、サイトウさんの家は駅からバスで10分のところにあり、その上、僕らはライブハウスから駅まで歩かなければならなかった。それで、最終のバスに間に合わせるためにすぐにライブハウスを出ることにした。


「あ、でもドリンク引き換えてこなくちゃ。」


思い出したようにサイトウさんが言った。「何がいい?」


「何があるのかわからないけど…水があれば水がいいな。」


「水はあると思う。急いで行ってくるから待っててね。」


サイトウさんはそう言ってドリンクを求める列の最後尾に並びに行った。僕はすばやく帰るまでの時間を逆算した。多分、あと10分はここにいても間に合うだろう。


待っている間、ぼんやりとCDコーナーを見ていた。そこにはカラフルなジャケットのCDが何枚も置かれていた。


「本日ならメンバーのサイン色紙入りとなっておりますよぉ。」と販売員のお姉さんが言った。


「『a day in our life』はありますか?」


「初回限定版と通常版の2種類ございますが。」


「あ、通常版でいいんですけど、1枚ください。」


衝動買いだった。自分はまだこのライブという雰囲気に酔っているのかもしれない。


「ありがとうございます。」


CDと一緒に本当にメンバーのサインが書かれたミニ色紙入っていた。僕はその色紙をちょうどペットボトル二本を抱えて戻ってきたサイトウさんにあげた。彼女は顔をほころばせて、今日という日をいつまでも忘れない、と言ってくれた。嬉しかった。


【続く】


    

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