- <担当授業>国際法
張 博一准教授
Cho Hakuichi
「個人」の幸せの実現のために
私の研究分野は国際法です。2022年2月に開始されたロシアとウクライナの戦争、2023年10月から続くガザ地区でのイスラエルとパレスチナの武力衝突が主なきっかけとなり、いま国際法、とりわけ「武力紛争」という分野が世間の関心を集めています。たしかに、武力攻撃により都市が破壊され、一般市民や子どもの命が奪われる現実を目の当たりにしたとき、なぜ武力紛争がなくならないのか、侵略国に対する制裁はないのか、これほどのあからさまな国際法違反行為に対して国際法は何もできないのかなど、国際法そのものの存在意義が問われます。
しかし、現実の国際社会では、国際法という制度そのものを廃棄しようという動きは見られません。それは、誰よりも国家自身が国際法の有用性を認識しているためであり、国際法に代わる制度を設定することは考えにくいからなのです。また、国際法は、平和・安全の分野のみならず、外交関係、国際人権の保障、海洋や宇宙といった領域空間、地球環境の保護、開発支援、国際機関の活動など、様々国際問題を規律対象としています。その中で、私の研究対象である国際経済法は、企業や個人が国境を越えて自由に経済活動を行うことを促進することを通して、人々の生活水準の向上を目指す分野です。国家間の経済格差の問題や貿易と労働、環境、人権をめぐる対立、国際経済の実情や国内政策との調整の難しさを日々認識しながら、そこにおける「個人」の幸せが如何に実現されるのかについて研究を進めています。
国際法には夢がある
国際法に興味をもったのは「かっこいい」からです。国際法と国内法とを比較したとき、その大きな特徴の一つに範囲の広さがあげられます。民法は日本国内の私人の間の利害調整、刑法は日本国内で犯罪や刑罰、憲法は日本における国民の権利と国家権力の制限を規定しているのに対して、国際法が扱う対象は一国国内にとどまらず世界規模であるというスケールの大きさや、そのために世界共通言語である英語を使うところに主観的なかっこよさを感じました。
研究を進めていくと、大学生のときに思い描いていた「国際共同体」というバラ色の世界ではない場面に多く直面してきましたが、そのときに、「国際法には夢がある。国際法には夢しかないかもしれない。それでも僕はその夢を追いかけたい」という、ある国際法学者の言葉に出会い、やっぱり「かっこいい」という当初の気持ちが蘇りました。
法は万能薬ではないし、特に主権国家によって構成されている国際社会において限界があります。中央集権的な権威が存在せず、法と政治の交差する国際社会を対象としており、そのなかで「秩序」がどのように形成され、「平和」が如何にして維持されるのかを模索するところに、国際法の魅力があるのかもしれません。
当事者意識をもつこと
21世紀はグローバル化の時代です。多層化する国際社会において、世界的に広がるテロの脅威、地球温暖化などの気候変動、新型コロナウイルスの発生など、「国家」という枠組みでは捉えきれない地球的課題が山積しています。今なお世界各地で発生する地域紛争やテロ行為の背景には、文化的アイデンティティの対立があり、異なる価値体系のなかで信ずる‘正義’の衝突があります。 世界の7人に1人が栄養失調と飢餓に苦しんでいる背景には、環境破壊による自然災害、HIV/エイズの蔓延、教育の欠如という負の連鎖があります。
国際法の研究は、これらの国際問題を理論的に考察すること、また、戦争で自宅に打ち込まれるミサイルの爆音に泣き叫ぶ子供を、遠い世界の出来事としてではなく、当事者意識を持って問題解決のための方策を探ることであり、社会と深くつながっているといえるでしょう。
国際法模擬裁判への挑戦
私のゼミの重要な活動の一つに、国際模擬裁判大会への参加があります。模擬裁判は、世界中のロースクールで活用されている教育手法です。国際法模擬裁判では、架空の国の間で起こった架空の事実をもとに、原告国と被告国に分かれて、自国の行動がいかに正当な行為であるか、相手国の活動がいかに違法であるかを、国際法を解釈適用することによっての主張を行います。
正解がない模擬裁判の問題文を読み、何が論点で、どのような根拠を、どのように主張すれば説得力ある議論が展開できるかを考える過程で、教員として最も実感するのは「学生の成長」です。国際法の知識、法的思考方法、文献の収集、書面の書き方…すべてがゼロからのスタートと言っても過言ではない状態から、仲間と議論を重ね、試行錯誤を繰り返し、一歩ずつ一歩ずつしかし着実に前へ進んでいく様子を近くで見てきました。最初に提出された書面をみて「日本語が下手すぎる」と辛辣にコメントしたこと、学内予選で容赦なく質問攻めにしたこと、こんなに厳しくして良いものかと自問することもありますが、そんな私の不安を払拭したのが、内容・表現が十分に練られた最終書面、本戦で裁判官からの質問に正面から挑み対等に議論する学生の姿であり、教師冥利に尽きると感じる瞬間です。
国籍に縛られない「国際人」
私は10歳のときに来日し、小・中・高校、大学、大学院と日本で教育を受けてきました。このような経歴をもつことから、自分とは異なる社会的、言語的、文化的背景をもつ他者や他国の多様な価値観を認め合い、対等な立場でコミュニケーションをはかることの大切さを実感しています。
国際法上、「国籍」とは個人と国家を結ぶ法的紐帯とされ、海外でトラブルに巻き込まれた際には領事に援助を求め、滞在国で法的救済が得られない場合には国籍国による外交的保護権の発動など、「国籍」は重要な意味を持ちます。他方で、日常生活において、私は「国籍」自体に大きな意味を感じていません。それぞれの国が持つ文化的・社会的特長がその国の人々の思考や行動方式に影響を与えることは事実だとしても、「国籍」というフィルターを通して相手をみるほど無意味なことはないと感じています。
大学は教員が学生に一方的に知識を注ぐだけの場ではなく、学術探求を志す仲間や、多様な価値観を持つ学生との「繋がり」の場です。小樽商科大学では、異なる経験や視点をもつ教員や知人との交流を通して日本や世界についての知見を深めて、国籍に縛られない「国際人」になってほしいと願いします。
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