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2024.12.11

令和6年度第10回講義:湯浅 幸洋さん(S61卒)「IT技術進化がもたらすもうひとつの変革」

講義概要(12月11日)

 

○講師:湯浅 幸洋 氏(1986年商学部経済学科卒/元・日本電気株式会社)

 

○題目:「IT技術進化がもたらすもうひとつの変革」

 

○内容:

私は、現代に直結するIT社会の黎明期に、日本電気(株)の営業職となった。しかし就職後数年で視力を失うことになる。働き続けたい自分を、ITの進化と仲間が支えてくれた。1980年代後半から今日にいたるIT社会の劇的な進展を、中途失明者のキャリア形成の観点をまじえて解説しながら、後輩たちに進路選択のヒントを提供してみたい。

 

 

 

ITの進化が、社会、そして私の人生を変えた

 

湯浅 幸洋氏(1986年商学部経済学科卒/元・日本電気株式会社)

 

 

 

 

IT社会の黎明期に日本電気(株)に就職

 

私は昭和の終盤、1986(昭和61)年に小樽商科大学を卒業しました。就職したのは、日本電気株式会社という大きな電機メーカーです。パソコンが普及して、やがてインターネットが一気に広がっていった時代から、近年劇的に進展する生成AIの時代まで、この会社で38年間働いて、昨年定年を迎えました。
そして今日の話のもうひとつの軸になりますが、私は20代の最後のころに視力を失いました。しかし日進月歩で進むIT技術のおかげで、幸い働き続けることができました。今日は、80年代からのIT業界の大きな動向をごく大づかみになぞりながら、もう一方で視覚障害者としての私のキャリア形成についても話してみたいと思います。

 

大きく10年単位で、それぞれの時代のキーワードやトピックスを入口にしてみます。
さてまず1980年代から。
初期のパソコンやインターネットが現れたこの時代のキーワードは、文字通りの「黎明期」。
現在の情報環境の根がこの時代にできました。つまりさまざまなクラウドサービスがあり、スマホでそこにつながっていろいろなことができて、セキュリティにも不安がないこと。さらにリモートワークの環境やVR(仮想現実)、AR(拡張現実)が日常のものになっている、といった社会の基盤は、この時代にまでさかのぼります。

 

トピックスとしては、1985年に「電電公社の民営化」、いわゆる「通信事業の自由化」が始まったことが特筆されます。現在のNTTグループの前身である電電公社、と言っても皆さんはわからないでしょうが、それまでは電話もファックスもすべては、公企業である電電公社製でした。自由化によって一気にいろんなメーカーが電話器を開発、発売するようになったのです。
電電公社の方は日本電信電話株式会社(NTT)として民営化されて、さまざまなサービスを新たに始めます。携帯電話の原型である、自動車の中でも使える、肩に下げる大きな箱のような可搬型電話もそのひとつです。
個人がコンピュータを持つ時代が始まっていましたが、現在のウィンドウズのようなグラフィカルなインターフェイスをもつOSはまだ出ていなくて、キーボードからコマンドラインを入力するものでした。マウスもありません。だからふつうの人には敷居が高すぎました。
またモデムを通して一般加入回線に繋がったパソコン同士が、ホストコンピュータを介してコミュニケーションができる、パソコン通信が人気を博しました。

 

私は80年代末に視力が不安定になり、もしかしたら見えなくなってしまうかもしれない、と不安が募りました。一方でそのころパソコンの音声認識が登場していました。キーボードで打つとそれを読み上げてくれる装置です。その装置を視覚障害者用に取り入れた音声装置付AOKワープロというものが出ました。最悪の状況に陥っても、自分はパソコンで文章を書くことくらいはできて、それでなんとか仕事を続けられるかな、と思いました。録音テープから議事録を起こしたり、データ入力といった作業はできるだろう、と。
このころには文字の画像データをテキストに認識するOCR(光学的文字認識)や、マークシートを正確に読み取るOMR(光学式マーク読み取り装置)なども出ています。

 

 

1990年代。インターネット時代の幕開け

 

1990年代に入ります。
黎明期につづくこの時代のキーワードは、「普及/統合(連携)」です。
大きなトピックスとしては、1993年に国内でのインターネットの商業利用が解禁されました(当初は国際通信の認可が下りず接続先は国内のみ。翌年海外にも繋がる)。それまでのパソコン通信はゲートウェイを通してネットに繫がることになり、ネットに吸収されていきます。いよいよここから、インターネットの時代が始まったのです。

 

通信系のデバイスとしては、現在のサイズに近い携帯電話が出現して広く普及していきます。
パソコンでは基本ソフトのウィンドウズ95が発売されました。これにはネットに繋がる機能がもとから入っていましたから、一気にインターネットブームが起こりました。ウェブ上にECサイトが登場したり、誰もが検索サービスが利用でき、初期のオンラインバンキングも始まります。企業や学会、行政の分野などでインターネットをメディアに、広く情報提供が開始されました。
しかし、いまつねにインターネットに繋がっている皆さんは想像しにくいでしょうが、電話回線を利用したネットワークですから、インターネットに繋がるたびに、その都度時間単位で課金されました。さらに、通信速度は現在の百分の一以下、64Kbps~128Kbps程度です。手軽に動画を楽しめるような環境には、ほど遠いものがありました。

 

企業が社員間の通信費を便利にカットするために生まれたデバイスが、(皆さんは知らないでしょうが)ポケットベル(ポケベル)です。用があるから電話を入れろ、とベルで知らせて、受け取った社員は近くの電話から連絡を入れるものでした(駅や公共施設にはたくさんの公衆電話がありました)。ポケベルには、最大16文字程度の文字メッセージサービスも登場しました。文字制限を最大限に活用するために、アケオメ(あけましておめでとう)、コトヨロ(今年もよろしく)といった略語が流行りました。

 

ずっしり重い初期のノートパソコンや、電子手帳など、それまでまったくなかった種類のデバイスが登場してきたのもこの時代です。指紋認証のシステムも、このころには民生用にまで展開されていました。

 

私の視力はいよいよ危なくなりました。
網膜色素変性症という病気によって26歳で視力が急激に衰えた私は、その後3年あまりで失明しました。本来なら10年以上にわたってゆっくり視力が衰えていくといいますが、私の場合はあまりにも急でした。
当時は東京勤務でしたが、休職して実家に戻り、白杖で歩くことや点字など、視覚障害者が受けるひととおりの訓練を一年あまり続けました。まずは一人で目的地に行けるようになることが目標です。言うまでもなく辛い日々でしたがこれをなんとかクリアして、札幌の北海道支社に復職することができました。

 

しかし1992年当時、障害者にとってはいまよりも生きづらい社会が待っていました。支社の上司たちも、視力を失ったこの人間に何をやらせれば良いんだ、と困惑していました。一部からは、無理だから退職した方が良い、という声も聞こえます。
いまの自分にできることは何か—。私は必死に考えました。
ひとりで出社・通勤はできる。画面読み上げソフト(ウィンドウズ対応のスクリーンリーダーソフト)でなんとかネットは使える。同様に、画面読み上げソフトを使えばワープロも打てる。ネットから必要な情報を拾いながらそれを整理して、メールなどを使って発信やフィードバックができるのです。つまり、時間はかかってもいわゆるホウレンソウ(報告・連絡・相談)はできます。

 

そこで私は、指示を待つまでもなく、帝国データバンクがまとめている企業情報をもとに、勤務時間のあいだひたすら電話で営業をすることにしました。電話器を交換しませんか、社内のコンピュータやインターネットをめぐるご希望や問題はありませんか、と。
この種の営業は「数打ちゃ当たる」の世界ですから、少しずつ手応えが出て、成約が増えると、自分なりの顧客が生まれます。もっと具体的に話が聞きたい、となればそのエリアの販売店さんに連絡を入れて対応してもらいます。販売店さんも、居ながらにして優良見込み客が提供されるのですからメリットは大きく、私を好遇してくれるようになります。
この流れが認められて、やがて私は販売店サポートの部署に配属されたのです。これでなんとか、社内に自分の居場所を作ることができました。ああ仕事が続けられるんだ、と安堵しました。思い出深い時代です。

 

 

インターネットとともにある日常へ

 

2000年代に入ります。
キーワードは、「融合・淘汰(1)」です。インターネットを軸にしたつながりはさらに広く深く社会に浸透していきました。
この時代のトピックスとしては、NTTが2001年にBフレッツという、定額制の光回線のサービスを始めました。これによって家庭でも手軽に光ファイバを使用してインターネットに繋がることができるようになったのです。インターネットで音楽や動画、映画を楽しむ日常が始まります。皆さんが生まれるちょっと前くらいから、インターネットは現在に近い姿になったのです。
デバイスとしては、携帯電話がインターネットに繋がりました(NTTドコモのiモードなど)。そして携帯電話にカメラが載ったり、キャッシュレス時代の幕を開けたおサイフケータイが登場しました。携帯電話の多機能化です。
またこの時代にはバッグに入れて気軽に持ち運べるノートパソコンも普及して、さらに、デスクトップパソコンの機能も大幅に向上しました。
データ回線を使って音声通信を行うことができるVoIP(ボイプ)という技術が普及して、この機能を載せた電話サービス(IP電話)が始まりました。音声通信と情報通信が融合して、それまであったデバイスの機能もどんどん統合、淘汰されていったわけです。通信と放送の垣根がなくなる、という言い方もされました。

 

セキュリティの分野では、指紋認証に加えて顔認証が一般化します。当時は極秘事項でしたが、アメリカの同時多発テロ(2001.09.11)を受けて、日本でも空港にテロリストの入国をチェックする顔認証システムが機能し始めました。

 

私の立場では、スクリーンを読み上げてくれるソフトがいろいろ充実してきて、エクセルやワードもそれなりに使えるようになりました。音声操作の案内やテキストの読み上げ機能がついたOCRスキャナも登場して、印刷物からの情報収集もある程度は可能になります。私は、情報弱者から少しずつ脱却できるようになりました。条件が許せばクライアントのところに一人で赴いて複雑な商談することもできて、活動域が大きく広がりました。コンピュータ屋の営業マンらしくなってきたのです。

 

また社会の動きとして、「ノーマライゼーション」(社会的マイノリティを健常者と同等の存在と捉える考え方)、「バリアフリー」、「UI(ユーザーインターフェース)」、「アクセシビリティ」(利用しやすさ)といった言葉がメディアに載るようになり、障害者をめぐる制度や環境に変化が出てきました。
視覚障害者の職場復帰の事例として、私は当事者として福祉の催しで講演することもありました。

 

 

 

 

2010年代。情報端末と通信端末の融合

 

そして2010年代に入ります。
キーワードは、「融合・淘汰(2)」です。情報と通信の境界がさらにあいまいになり、この少し前に登場していたスマホに代表されるように、情報端末と通信端末の区別がなくなっていきます。さらにiPadに始まるタブレット端末が続きます。スマホやタブレット端末には、キーボードではなくタッチパネルによるインターフェイスが使われ、ウィンドウズ8にもタッチパネル機能がつきました。タッチパネルによる操作は、パソコンにまで広がったのです。

 

ネットワークの分野ではIP電話が大きな広がりを見せます。かつて電話は、ひとつの交換機を介してたくさんの電話と繋がっていたわけですが、交換機をインターネットに取り込んでしまうと、国境を越えて膨大な数の電話が繫がり合うようなりました。IP電話は従来の国際電話よりも大幅にコストがかかりませんから、急速に広がっていきました。
またwebでの会議やオンラインセミナーのシステムが開発され、活用が始まります。その後コロナ禍で一気に広がることになる、リモートワークの時代の扉が開きました。
また教室に通って講師と対面するのではなくインターネットを利用して学ぶ、いわゆるeラーニングも注目を集めます。

 

私にとっては、eラーニングによって社内のいろいろな研修が受けられるようになりました。情報弱者から抜け出せたのです。そしてweb会議のシステムは、私の最大の弱点だった客先に出向くことの難しさを解消してくれました。これらによって私は、ネット環境があればだいたいふつうの営業マンとして仕事をこなせるようになりました。ITをベースにした視覚障害者の仕事の、ひとつの完成形と言ってもよいでしょう。
一方で、スマホをはじめウェブ上でもタッチ操作を前提としたものが増えたために、操作ができない種類のデバイスも増えてきました。私は今に至ってもまだスマホを使いこなせていません。

 

 

2020年代。AIの時代が始まる

 

ご存知のように2020年代はコロナ禍とともに幕を開けました。
キーワードは、「定着・さらなる発展」。
トピックスとしてはなんといっても生成AI、「ChatGPT」が2020年に公開されたこと。ITの世界がさらにひとつ上の次元に上ったのです。
生成AIを使えば、希望の文章が容易に作り出せます。そしてカスタマーサポートが代表的ですが、こちらの問いかけに合わせてAIが返事をしてくれるチャットボットなどが、ユーザーをケアしてくれます。スマートスピーカーは、ふつうの人の自然言語によって機能します。声をインターフェイスとする、ひと昔前では考えられなかった便利さです。

 

デバイスやシステムはネットを通してより強く繋がって、ネットワークというよりもクラウドという呼び方が広がっていきました。モバイル端末に使われる通信も5Gが基本になり、さらに早く、さらに自由に広く繋がるようになりました。
いまの私の弱点である、タッチパネルでのタッチやスワイプといった操作に対しては、3次元空間でのジェスチャーや指の動きから操作ができる、3次元キーボードの開発が進んでいます。これも実用的なレベルになるのは時間の問題だと思います。
人間の能力を大きく拡張してくれるAIによって、私の仕事はさらに便利に広げられる—。これからはほんとうに良い時代が来るんだ、とワクワクしていたところで、残念ながら私のキャリアは定年を迎えてしまいました。

 

視覚障害者にとっての「障害」は劇的に改善されてきました。私のキャリアは、ITの進化の恩恵を最大限に活かして作られたと思います。視覚を失っても、私は前の世代の人々では無理だったであろう仕事をすることができました。さまざまにあるインターフェイスの中でも特に、音声認識は有効でした。音声によってAIを電子秘書として使いこなせば、これからも業務はどんどん効率化されるでしょう。

 

最後に、私個人はタイムアップとなってしまいましたが、ビジネスの現場でこれからさらに期待できるテクノロジーをいくつかあげてみます。
まずは、5G通信から6G通信への進化。
10年以内に実現されるといわれる6Gなら、日本全土の100%、プラス領海の全域をカバーできます。高さは、成層圏まで。1k㎡あたり1千万ものデバイスの同時接続が可能です。もっと早く、広く、深く高くネットワークの世界が拡張されるのです。

 

次に注目したいのは、量子コンピュータ。
現在のコンピュータは0か1のいずれかの状態を最小単位(1ビット)で扱いますが、量子コンピュータでは0と1の両方を重ね合わせた状態(量子ビット)をとる量子力学の現象を応用することで、途方もない並列処理が高速で実現します。回路をひたすら微細化して集積していくというこれまでのコンピュータとは全く次元の違う世界です。これによって新薬、新素材の開発など、さまざまな分野でブレイクスルーが起こると考えられています。
量子コンピュータの実現には、エラーを防ぐための極低温環境など多くの壁がありますが、実用化に向けてのロードマップが発表されています。

 

そして、「デジタルツイン」の世界があります。
デジタルツインとは、IoTやAI、AR(拡張現実)などの技術を用いて仮想空間に現実世界の環境を再現することです。そこでさまざまなシミュレーションができますから、例えば気候変動や災害予報に代表される環境変動予測や、複雑で大規模なマーケティング予測などが可能になります。限りなく現実に近いシミュレーションを探究していく取り組みです。技術的にはその基盤はすでにできていると思います。
これらは皆さんが小樽商大を卒業して社会の第一線でいろんな挑戦を始めるころ、さらに具体的に形が見えていると思います。

 

小樽商大で山歩きやプロレスに夢中だったころ。私は目の見えない人の世界は全く知らず、視覚障害者がどんな悩みや苦しみを抱えて生きているかは、完全に想像の外にありました。しかしあっという間に視力を失うことになり、苦しみ、もがきましたが、先に言ったように、技術の進歩と良いタイミングで巡りあうことで、自分で自分をなんとかすることができました。その過程は省いて結論を述べれば、自らが覚悟を持って行動すれば、人生は割となんとかなるものだと思います。だから皆さんには、心の底では楽天的に生きよう、と言いたいのです。
そしてもうひとつ。
転職をする人が多い現代ですが、私は日本電気(株)に定年まで38年のあいだ勤めました。ひとつの組織の中でキャリアを重ねることで、できてくる仲間や、見えてくる大きな流れがあると思います。自分の可能性を信じて転職にチャレンジすることも意義のあることだと思いますが、こういう生き方もあるんだ、と知ってもらえれば良いと思います。
障害の発症から復職まで、否応なく進められた私の人生ですが、こういう先輩もいたということを、皆さんの進路選択の何かの糧にしてくれればうれしく思います。

 

 

 

 

<湯浅幸洋さんへの質問>担当教員より

 

Q 学生時代に熱中したことはどんなことでしたか?

 

A まずは部活ですね。ワンダーフォーゲル部と、できたばかりのプロレス同好会。私は中学生のときにアマチュア無線に熱中して、高校時代の部活は電気部、新聞局、マンガ部と、一貫してインドア系でした。ですから商大では逆に、アウトドアとか体育会系の部活に入って身体を鍛えたいな、と思っていたのです。
入学して間もなく、ワンゲルに勧誘され、プロレス同会にも惹かれました。これはインドアのオタク系にありがちなことだと思いますが、私をはじめオタクの一定数は格闘技好きなのです(笑)。だから4年間、まるでスクワット踏みながら山歩きをしていたようなものです。ワンゲルでは春の大雪山縦走、冬はニセコが伝統の山行でした。あるときはニセコのバックカントリーで、死を覚悟するようなビバーク(緊急露営)も経験しました。今となっては懐かしい思い出です。
学業では、当時は理論として学んでいた為替論やマーケティング、統計学などが、企業人になって実践すると実に重要なものだったんだ、と痛感しました。限られたリソースの活用をめぐるパレート最適の考え方は、サービスと顧客の満足度をめぐる重要な論点でしたし、いまも私の思考や人生に生きています。

 

 

Q ウィンドウズというひとつのOSが世界を変えていったように、ITのめまぐるしい進化と発展の中でその業界を歩んできた湯浅さんにとって、現在にいたるまで、あらためてこれがエポックだった、ワクワクしたな、という事象をあげるとすれば、何でしょうか?

 

A 入社最初の年に配属された秋田で、流通業界向けにPOSシステム(販売時点情報管理システム)を営業したのです。そのときPOSの可能性に、衝撃を受けました。つまり小売りの現場で起こっている消費活動がリアルタイムで記録されて、膨大なデータとして蓄積され、それをコンピュータが分析、活用していくのです。世の中に無数にある店のレジが情報端末として位置づけられたことに、大きな可能性を直感しました。

 

 

Q 最後のメッセージで湯浅さんは、楽天的に生きていこうとおっしゃいました。学生諸君は、その心境に至るまでに湯浅さんが費やした時間や葛藤に想像を巡らせていると思います。この場でストレートに聞くことをお許し願いたいのですが、失明が不可避だとわかったとき、湯浅さんはそのショックをどのように受け止め、受け入れていったのでしょうか?

 

A これだけはきれい事では言えません。もう見えなくなると告げられたときは二、三日絶句したきりでした。当時は一人暮らしだったので、話し相手もなくひとりで、心の中でジタバタ騒ぎ、もがき続けました。でもまずはひとりで抱えたことが、結果的には良かったと思います。時間はかかりましたが、自分の力だけで、やがて心は落ち着きを取り戻していきました。

 

 

 

 

<湯浅幸洋さんへの質問>学生より

 

Q AIの可能性やリスクがさまざまに議論されていますが、湯浅さんのお考えを聞かせてください。人間がAIに支配されないようにするためには、どうすれば良いとお考えですか?

 

A AIは、人間がインプットするものに反応するだけで、自ら新しいことを考えるわけでもなく、善悪の判断もありません。どんなに優秀な頭脳を持っていると思えても、いままでコンピュータが発展してきた歴史の上にあるわけですから、すべては人間が制御することで始まります。だからそれに悪い使い方をして、悪い方向に進化させることも可能なわけです。我々は、AIに良い使い方を徹底して積み重ねさせて、悪い使い方が広がらないようにしなければなりません。

 

 

Q 湯浅さんが強い意志で生きて、不断の努力を重ねて仕事をしてきたことに感銘を受けました。一方で、まわりの人に頼ったり、助けを受け入れてきたこともあったと思うのですが、そうしたまわりとのやり取りについて、どのようにお考えだったでしょうか?

 

A 訓練を重ねた休職を終えて復職したとき、いろいろな声が聞こえてきました。ふつうは辞めるだろうに、という類いの。障害者をめぐる制度がとても少ない時代ですから。でも同僚たちの中には、お前はとにかく居続けろ、ガンバレ、俺たちが応援するから、と言ってくれる人たちがいました。彼らに救われたのです。
毎日いろんな人に助けられました。私は日々学んでいきましたが、萎縮して沈黙していては何も始まりません。勇気を振り絞って自己主張して、ここを助けてほしい、これをやってくれませんか、と言い続けることで、私を理解してくれる人が増えていきました。そういう人たちとの関わりが、私を職場に繋ぎとめてくれました。
もう少し具体的に言えば、復職したとき、上司たちには大きな戸惑いがありました。この男に何をさせれば良いのだ、と。だから課のミーティングにも呼ばれません。あるとき私は、課長に声を荒げてしまったことがありました。いい加減にしてください、ミーティングくらい参加させてくださいよ!と。そうした繰り返しが、状況を少しずつ変えていったのです。弱く縮こまった人間のままでは、事態は動かなかったと思います。

 

 

Q 日進月歩で進化していくITの波に乗って使いこなしていくにはご苦労もあったと思いますが、いかがでしょうか?

 

A 特に80年代から90年代は、現在のような直感的なインターフェイスがなくて苦労しました。パソコンでは、試行錯誤した果てに結局フリーズして動かなくなり、自分でシステムから入れ直したり。すべて繰り返しトライするのみでした。進化に合わせて、とにかく使い倒すようにいろんなデバイスと付き合ってきました。

 

 

Q これから実現してほしいデバイスやサービスは何ですか?

 

A 最後に言ったデジタルツインの世界ですね。仮想世界の中で現実世界が限りなくリアルに再現できれば、例えばあらゆる商品開発の時間とコストが大幅にカットできるでしょう。いま出始めている分野では、例えば歴史的建造物をまるごと正確に再現して、その内部を見学できるような世界がありますが、そうした技術の延長に来たるべきデジタルツインの世界があると思います。

 

 

Q 就活でNECに入社された同期や経緯はどのようなものでしたか?

 

A NECに勤めるワンゲルの先輩がリクルートで商大に来て、「お前、良い会社だから来い!」、…「ハイわかりました!」という世界です(笑)。なにしろ38年前のことですから、こういうことはよくあったのです。だから詳しい企業研究もせずに勤め始めたのですが、戸惑いや違和感はありませんでした。入る前に抱いていたイメージは、最先端を走るスマートさはないけれど、大きくて真面目でちょっとダサい会社、というところでしょうか(笑)。働いてみると、まさにそういう会社でした。

 

 

Q 私自身が問題を共有している部分があってお聞きしたいのですが、ご自分が大きな組織の中でマイノリティであることの苦しさには、どのような解決の道があるものでしょうか?

 

A いまになって特に思うのは、先ほどの繰り返しになりますが、自分の立場や要求をしっかりアピールすることが大事だ、ということです。それが自分からの一方的なものに終わってしまっては逆効果ですが、自分のアピールを続けることで少しずつ理解者を増やしていけば良いのです。うれしかったこと、傷ついたことを外に向けて出していくと、きっと何かが変わっていきます。そうすると理解者は、自分を守ってくれる存在にもなってくれます。私自身はある程度そういう環境を作ることができたので、とても恵まれていたと思います。ですからなおのこと、私のささやかな成功をいろいろなところで伝えて、境遇を共有する人たちのヒントになれば良いと思っています。

 

 

Q 湯浅さんはひとつの会社で勤め続けたわけですが、転職を考えたことはなかったのでしょうか?

 

A 実はありました。IT系の転職エージェントから電話をもらったこともあります。興味を持って説明を聞きながら、最後に、「ところで私は全盲なのですが」、というとブチッと電話は切れました(笑)。私が30代40代のころは、視覚障害者が働ける転職先は、ほとんどありませんでした。それが、私がひとつの会社で働き続けた理由のひとつでもあります。

 

 

Q 就活では企業のどういう点を探るべきだとお考えでしょうか?アドバイスをお願いします。

 

A ITのデバイスやサービスでも共通すると思いますが、似たようなスペック(会社情報)の中でひとつを選ぶ鍵は、やはりヒューマンインターフェースの問題だと思います。例えば障害者をめぐる制度の中で、街中に点字ブロックが敷き詰められさえすればそのまちは視覚障害者が暮らしやすいところかと言えば、それは違うでしょう。人をケアできるのは人ですから、障害のあるなしに関わらず、その会社にどんな人が働いているのかを見る目を持つと良いと思います。いちばん分かりやすいのは、まず面接官になりますね。

 

 

担当教員より

 

Q 学生時代にどんなことに打ち込むべきだとお考えですか?最後にエールとしてメッセージをいただきたいと思います。

 

A 私が学生時代に打ち込んだことのひとつは、山歩きでした。ワンゲルの活動には体力のほか、山や気象の知識や、テントまわりのいろいろな道具を使いこなす技術も大切です。そうしたことは興味のままに好奇心を募らせて楽しく身につけることができました。皆さんも、どんなことでも良いのですが、おもしろそうだなと思う対象があれば、そこへの好奇心をつねに膨らませて、探究心を磨いていけば良いと思います。いまならスマホひとつからでも膨大な知識が得られるでしょう。そうした志向が自然な習慣になっていけば、学生生活の過ごし方も変わってくると思います。

 

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