2024.11.20
令和6年度第7回講義:髙橋 真史さん(H15卒)「国際観光都市『OTARU』の可能性と課題」
講義概要(11月20日)
○講師:髙橋 真史 氏(2003年商学部社会情報学科卒/WHITETREE代表)
○題目:「国際観光都市『OTARU』の可能性と課題」
○内容:
3年生を終えた時点で私は2年間休学して、広い世界を見る旅に出た。そこから、多くの学友とは違う自分のキャリアが始まったと言える。アジアを横断して、卒業後はエジプトでダイビングガイドや旅行代理店の仕事を経験した。30代ではマレーシアのリゾート地でショッピングモールの立ち上げにも関わった。そんな自分の経験や旅から練られた考え方を、進路選択のヒントとして提供してみたい。
海外に出て気づいた、OTARUの可能性
髙橋 真史 氏(2003年商学部社会情報学科卒/WHITETREE代表)
新しい世界の入口を見せてくれたニセコのバイト
僕は小樽商科大学3年生を終えてから2年間休学して、ひとりでアジア横断の旅をしました。4年生で復学したその時点で、大企業に入ってビジネスの世界でがんばる、といった多くの商大生の生き方とは少しちがう、アウトロー的な道が定まったと思います。海外でいろんな経験をしたのち、46歳のいまは、「ホワイトツリー」という屋号で、小樽に根ざして開業して、英語でのアウトドアガイドや地域コーディネーターの仕事をしています。今日は、大企業に入らなくてもこんな生き方もあるんだ、と思えるようなヒントを皆さんにお話ししたいと思います。
僕は1978年生まれで、手稲育ちです。子どものころからスキーが好きで、中学から本格的にモーグルを始めました。北海道の強化指定選手にもなりました。高校は札幌西高校で、冬はスキー部、夏は体づくりを兼ねてバドミントン部。
商大の社会情報学科に入学して、部活はモーグルのトレーニングにもなるトランポリン部に入りました。そしてM-PAL(商大のテニスサークル「BE-PAL」をもじって)というモーグルサークルを立ち上げました。
でも1年生のときに熱中したのは、実は麻雀でした。地獄坂にある雀荘で役満を2回出して名前が張り出されて、ちょっと誇らしかったです(笑)。
2年生になってようやく勉強にも力が入ります。そして夏休みのアルバイトが、その後の人生を定めるきっかけになりました。尻別川でのラフティングなどで知られるNACニセコアドベンチャーセンターでひと月間、住み込みで働いたのです。そこの寮にはインドネシア人とニュージーランド人、そして日本人が3人いました。NACで働いている人の中にも外国人がいるし、ワーキングホリデーでオーストラリアやニュージーランドで働いてきた日本人がいて、当時は苦手だった英語がふつうに交わされる環境です。自分の知らなかった新しい世界が一気に見えてきて、海外の暮らしや文化に興味が向きました。
それで勢いがついてしまい、バイトが終わるとそのままニセコから大阪まで、ヒッチハイクでひとり旅をしました。目的は達しましたがもっとゆっくり旅をしたくて、次の年、3年生の夏は3週間かけて、札幌から鹿児島、種子島までヒッチハイクをしました。良い人、変な人、とにかくいろんな人と出会い、語り合い、充実した日々を楽しみました。
この年受講したプロジェクト管理基礎という授業では、学内の課題解決をするプロジェクトを企画しました。ゴミを6つに分別して、さらにアルミ缶は換金する取り組みを行ったのです(当時はまだ、「燃えるゴミ」と「燃やせないゴミ」の二分別しかなかったのです)。
休学してアジアの旅へ!
3年を終えると1年間休学することにしました(休学するとその年の学費は免除されます)。アジア横断の旅をしようと決めたのです。
そこに至った動機はいくつかあります。まずトランポリンの練習中に腰を痛めて、モーグルの選手としてはもう無理だな、という事態がありました。さらに、まわりの学友たちはスーツを着て就職活動を熱心にスタートさせていました。でも自分はどうしてもそういう気持ちにはなれません。もともと在学中に海外を旅したいと思っていましたが、それにはもう時間が足りないかもしれない…。そんなもやもやがありました。
さらに前年の夏に日本列島の南をめざしてヒッチハイクをしたとき、乗せてくれた何人もの人から、「君は猿岩石みたいだね、アジア横断もするの?」と聞かれました。当時のテレビ番組で、猿岩石というコンビが大陸を陸路ヒッチハイクで旅をする企画が人気を呼んでいたのです。そのときは「いやいや、僕は日本だけです」などと答えていたのですが、旅を終えて札幌に戻ると、なんだか自分はアジア横断をしなければいけないのかな、と洗脳されていました。だからアジアに旅立つことにしたのです。
資金を稼ぐためにまず、雪深い立山(富山県)で住み込みのアルバイトをしました。標高2,000メートルのリゾート施設で、夕方にバスが終わると下に降りる手段もなく、お金を使わないのでたっぷり貯金ができるのです。半年働いてあとの半年で旅しようと思っていました。
そのアルバイト先で相部屋になったのが、大企業を辞めて3年間アジアを旅した経験のある京大卒の人で、いろんな話を聞きました。そして僕に、「アジアを半年で旅するなんて、絶対時間が足りない。最低でも1年間は必要だよ」と言います。さすがに2年休学することには勇気が要りましたが、受験で2浪したと思えばいいか、と気持ちを切り替えて(笑)、休学を延長しました。春から11月までバイトをして、12月にいよいよ旅立ちです。
韓国からスタート。ユーラシアーラシア大陸を横断して、目的地はイスラエルです。
24年前は、これからは中国の時代だ、と世間では思われていました。イスラエルには、複雑な歴史と戦争の渦の中で、それでもしたたかに営まれている国の姿を生で見たいという気持ちを抱きました。作家落合信彦さんの著作の影響もありました(現在はさらに情勢は複雑で危険になっていることは皆さんも知っているでしょう)。大学の単位は、あとはゼミと英語Ⅱを残すだけで、弱かった英語でのコミュニケーション力を旅で鍛えたいという思いもありました。
韓国までは空路を使って、そこからスタートすれば良いのでしょうが、僕は札幌からヒッチハイクで行かねばならない、と勝手に思い込んでいて、それを実行しました。路上に立ち続けるヒッチハイカーにとって12月は、本州でもとても寒かったことが忘れられません。
北朝鮮には入れないので、韓国からフェリーで中国の大連に渡り、そこからひたすら西を目指します。ここでは詳しくは話せませんが、韓国、中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、マレーシア、シンガポール、ニュージーランド、インド、パキスタン、イラン、トルコと、13カ国を旅しました。ニュージーランドは別枠ですが、途上での出会いがもとでそこにしばらく滞在することになったのでした。
旅の途中、この年2001年の9月11日。皆さんが生まれるちょっと前ですが、アメリカ同時多発テロ事件がありました。ニューヨークでは、犯人に乗っ取られた旅客機がふたつの超高層ビルに突っ込んでビルを崩壊させた、途方もない事件です。この影響で、僕のイスラエル行きはかなわず、トルコまでで終わりました。
アジアの国々の歴史文化を知り、世界各国のバックパッカーたちと出会いながら、英会話のスキルもかなり鍛えられたなど、この旅で得たことは数え切れないほどあります。商大で学んだP.ドラッカーの言う「ポスト資本主義社会への転換」について、自分なりの入口やヒントが見えてきたような気もしました。人が幸せになる方法は、従来の産業社会が進歩していく先のほかにもあるんだ、という気づきです。
エジプトでダイビングガイドに
2002年の春、4年生として復学しました。
就活はせず、在学中に仲間と起業を考えたのですが、頓挫しました。でもふつうの会社勤めをする選択肢はなかったので、卒業後は旅で身についた語学力を活かして海外で働こうと思いました。この時点で僕の進路は、ふつうのレールからは外れたのです。
このとき自分が行きたいと思っていた国の候補は、3つ。中国、カナダ、そしてアジアの旅でたどり着けなかったイスラエルです。もし来年死んじゃうと想像して、行かなくていちばん後悔するのはどこだろうと考えて、イスラエルにしました。
資金は、キロロで半年間リゾートバイトして作ります。
まずエジプトまで安いチケットで飛んで、そこから旅を続けてヨルダンを通り、陸路で入ろうと計画しました。しかしイスラエルに着くと、有無をも言わさず入国を拒否されてしまいました。理由は教えてくれません。アジアの旅でイランとかパキスタンとか、イスラエルと敵対する国に行っていたことがパスポートでわかるので、たぶんそのせいだと思います。
小樽や札幌の友人たちには、しばらく海外で暮らすから帰ってこないよ、と啖呵を切った手前、おめおめとは帰国できません。
イスラエルをめざしていたとき、エジプトで恵庭出身のダイビングインストラクターの女性と会いました。その方はダイビングセンターで働いていたのです。シナイ半島の東海岸、ダハブというまちです。イスラエルを目指す前、エジプトは物価が安いので、ここでダイブマスターの資格を取ったら良いよ、と盛んに誘われていました。ダイブマスターの資格があれば、いろいろな国でプロのダイビングガイドとして働くことができます。
ダハブは世界のダイバーの憧れの地のひとつで、透明度が20メートル以上もあるすばらしい海が魅力です。砂漠気候ですから湿気が少なく夜は涼しい。ヨーロッパからたくさんのダイバーや旅行者がやってきます。イスラエルから車で2時間くらいの距離ですから、ここにいればイスラエルの人たちとも出会えるだろう。そう思って、帰国せずにエジプトのダハブに留まることを決めました。
そこで無事ダイブマスターの資格を取って、ガイドの仕事を始めました。もちろん簡単な仕事ではなく苦労もありましたが、貴重な経験が詰めました。いろんな国の人たちが来ましたが、たとえばイスラエルの若い女の子ふたり組が来て、話をすると、18歳から2年間の兵役が始まるのでその前にダイビングを楽しむために来た、と言いました。ヨーロッパに比較的近いので、フランスやスペインやドイツなど、ヨーロッパの人たちともたくさん交遊できました。僕も彼らも第2外国語である英語で話しますから、ちょうど良い感じのコミュニケーションになったと思います。日本人のバックパッカーもわずかながらいましたが、エジプトまでくると男女問わずさすがに気合いの入った人ばかりで、世界一周の途中とか、これからアフリカを縦断する、なんていう人もいます。日本にいてはなかなか想像しづらいかもしれませんが、エジプトという国はそういうところです。僕の25歳はそんな年でした。
カイロの旅行代理店で働く
ダハブでのオフシーズンに休暇を取って首都カイロに訪れたときに、カイロ在住の日本人の方と出会い、旅行代理店で働かないか、と誘われました。日本の旅行者をクライアントにして、個人旅行のもろもろの手配をする仕事です。その方に帰国しなければならない事情ができて、自分が去るとそのセクションが丸ごとなくなってしまう、と言います。
一週間くらい引き継ぎの研修があって、そのあとはひとりでエジプト人の同僚たちといっしょに働くことになりました。エジプトではものすごいセクショナリズムがあって、航空チケット担当、ホテル担当と、その仕事以外のことは全然しません。コピーを取るだけが仕事の人もいました。僕がやろうとすると怒られます。そのくせ、全然仕事をしません(笑)。僕がカウンターで日本人客に対応していて、早くチケット取って、と言ってもおしゃべりに夢中で、まぁまぁあとでね、なんていう調子。焦ります。おだてたり叱ったりオヤツを用意したり、彼らにどうやって仕事をしてもらうかに悩んで、異文化圏でのコミュニケーションスキルが厳しく鍛えられました。
海外では母国語の違うもの同士が互いに言葉を教え合う「エクスチェンジ」という文化があります。僕はエジプトのある女性とアラビア語と日本語のエクスチェンジをしていました。あとになって日本での話ですが、NHKテレビのアラビア語講座を見たらその女性が講師として出ていてビックリしました。彼女はいつも一生懸命ダジャレを考えてくるのですが、会話の流れの中で活きる類いのものではなくて、つまりません。僕はいつもきついダメ出しをしていました(笑)。
マレーシアでショッピングモールの日本のテナント村の立ち上げに加わる
10カ月くらいその旅行会社で働いたあと、家の事情で帰国しました。
その後3年くらいは複数の会社で、派遣社員として東京や北海道で営業の仕事をしました。ちゃんと就職したのは30歳をすぎてからで、朝里川温泉で貸別荘やスキースクールを運営する(株)ウィンケルという会社です。
その後、札幌のビル管理の会社がマレーシアのコタキナバルという、南シナ海に面した観光地にできる大規模ショッピングモールに日本のテナント村を作る仕事を請け負い、英語が話せるスタッフを募集します。アジアで働いてみたいし、34歳の自分にとって転職するにはこれが最後の機会かな、と考えてその求人に応募したのでした。
そこではまず、その会社が直営で出すオモチャの店や共同出店するアンテナショップの運営の業務がありました(日本からの仕入れ、現地スタッフの採用、決算報告など)。そして、ファッションや化粧品など日本製品を揃えたセレクトショップや飲食店、ベーカリーなどから構成されるそのエリア全体の立ち上げに関するたくさんの仕事がありました。店舗の設営や、営業許可証の手配、労働ビザの手配などです。現地で法人を設立する際に必要な全体の業務を経験することができて、これらは単なる従業員ではなく経営者の立場で担う仕事ですから、のちに自分が起業するさいに大きな糧となりました。
ショッピングモールにはほどなくしてコンドミニアムと、マリオットという世界ブランドの高級ホテルが完成する予定だったのですが、計画は大幅に遅れてしまいます。日本のテナントが集まって、これでは商売が成り立たないからテナント料を下げてもらおうと意見をまとめ、その交渉にも加わりました。
コンドミニアムや高級ホテルが予定通りにできないこともあってこのテナント村はその後も苦戦して、撤退する店もありました。僕は2018年に札幌本社に戻りましたが、居心地の悪さもあり退社します。その年の暮れ、39歳でようやく独立して、「ホワイトツリー」を開業しました。
海外に出て気づいた、北海道、小樽の魅力
ホワイトツリーは、英語で外国人に向けて通年のアウトドアガイドをしたり、冬はスキーの指導などを行っています。自然を相手に、スキーに明け暮れた僕の青春の日々があればこそできる仕事です。例えば今年は「小樽雪あかりの路」で訪れた台湾の皆さんを、スノーシューツアーで案内したこともありました。海と山とまちがこんなに近くて、なにより生まれて初めてふれる白銀の世界に、皆さん大喜びでした。
そして小樽に根ざした地域コーディネーターの仕事や、アウトドア関連企業のコンサルティングなどにも取り組んでいます。
またボランティアとして、小樽観光協会の誘客促進委員に関わったり、小樽国際観光客誘致実行委員会のインバウンド戦略部会のメンバーも務めています。観光協会のボランティアとしては、東京や大阪で海外のエージェント(旅行業者)さんへのプロモーションを行うイベントに加わって、英語で小樽をPRしたり商談を進める、といったことも受け持っています。
また、朝里川温泉組合のアウトドア分野の事業や、ウェブでの情報発信を担当しています。
今年は、コロナ禍が明けてようやく復活した「本気(マジ)プロ」(商大生が小樽の活性化について本気で考えるプロジェクト)に参加して商大の後輩たちに、「朝里川温泉のアドベンチャーセンター立ち上げプロジェクト」を中心した最近の取り組みのお話をしたあと、いまいっしょに企画を練っています。
海外を旅したり海外で仕事をしてきた僕は、北海道や小樽を新たな目で見ることができるようになりました。
僕たちは冬が来れば雪が降ることが当たり前だと思っていますが、世界には、ここに来て人生はじめての雪に触れる人がたくさんいます。飲食店では、庶民のごくふつうのメニューも十分においしい。海外では、高い料理はおいしいのですが、安い料理にはびっくりするほどマズイものが少なくありません。日本食のレベルはどこを切り取っても世界有数だと思います。ストリートがきれいで治安も良いとか、まちと自然の距離が近いことも、皆さんが別に意識することもない、でも世界から見ればとても魅力的な環境です。
僕はホワイトツリーで、まさにそうした北海道や小樽の魅力をリソースにしてビジネスを展開しています。そしてこれからのさらに大きな可能性を実感しています。ホワイトツリーという会社名は、マレーシアで暮らしていたとき、北海道の真冬の白い森が恋しくてしかたがなかったことが由来のひとつになっています。
朝里川温泉の取り組み
僕は今年の春から、朝里川温泉でいろいろな取り組みを始めています。小樽青年会議所や朝里川温泉組合のイベントに、アウトドアガイドとして参加したことがきっかけでした。そこで組合に入って、アクティビティを軸にしたさまざまな観光コンテンツを販売していくメンバーのひとりになりました。拠点となるアクティビティセンターのベースとして、使われていなかった建物を活用してこの夏、自転車のレンタルとカフェを開いて、「アサリラウンジ」と名づけました。いまは冬季営業の準備中です。
小樽とネイチャーアクティビティの組み合わせは、一般にはなじみが薄いと思います。でも実は、これも魅力いっぱいの領域なのです。「本気(マジ)プロ」に参加した学生さんたちと話をすると、ほとんどが朝里川温泉に来たことがなかったり、朝里川温泉にスキー場があることを知らなかった、という現実がありました。やるべきことは山積みです。
アウトドアアクティビティを切り口とした、小樽・朝里川温泉のアドベンチャーマップの作成も計画しています。皆さんたぶん知らないと思いますが、例えば勝納川の上流に穴滝という、秘境感たっぷりの渓谷に落ちるきれいな滝があります。アクティビティの世界では人気スポットなのですが、そういう知られざる場所やコースをアピールしていきたいのです。
また小樽市に対しては、小樽国際観光客誘致実行委員会インバウンド戦略部会を通じて、
ガイド人材の育成と運営組織を作るための政策を提言して、予算づけを求めていきます。それらも、アサリラウンジをベースとして活動する予定です。
最近、ある著名なロッククライマーで山岳ガイドの方と知り合いました。マーク・シノットさんというアメリカ人で、アメリカの大手アウトドア用品メーカーであるノースフェイスのグローバルアスリートチームの元メンバーであり、エベレストに登っていたり著作もあるなど、世界を舞台に仕事をしている方です。彼を朝里川温泉と周辺の山に案内しました。マークさんは毎年ひと月くらいニセコのバックカントリーにお客さんを連れてきていて、ニセコ周辺のことをよく知っています。そこで世界への強い発信力をもつマークさんに、北海道での活動をこれからは小樽をベースにしませんか、と提案することが目的でした。
マークさんは、とくにまちと山の距離がとても近いことに感銘を受けたようです。首尾良く話は進んで、彼はいま具体的な計画を立ててくれています。マークさんは、朝里川温泉は「Undiscovered Paradise for me」(まだ世界に発見されていないすばらしいエリアである)と言ってくれました。これからいろんなコラボができそうです。
今日は僕自身の商大時代から現在までをお話ししました。最後に強調したいのはひと言、「チャレンジしよう!」—。これに尽きます。
若いときから僕はチャレンジ精神で海外でいろんな経験をして、いまはそれをベースに小樽に根ざして、国内外と繋がることを仕事にしています。
何か興味を引かれたこと、そしてどうしてもやってみたいことが見つかれば、悩んでいるひまはありません。もちろん周到な準備は必要ですが、とにかく挑戦してみましょう。皆さんの前には、大企業に入って大きなビジネスを動かすこととはまったく違う、僕のような進路もあるんだ、ということを知っていただければうれしいです。
<髙橋真史さんへの質問>担当教員より
Q 髙橋さんからの事前課題には、インバウンド市場の成長が日本の経済に与える可能性や課題を考察しましょう、とありました。ご自身の見解を聞かせていただけますか?
A 欧米から見ると日本は極東の島国ですから、かつてはアクセスが悪く旅行先としてそれほどポピュラーな土地ではありませんでした。しかしLCCやSNSの普及で事態は変わりましたね。近年の円安も強い追い風です。日本食おいしい!といった情報が世界で共有されるようになり、インバウンドが急増しているわけです。インバウンドマーケットはこれからまだ成長すると思います。
課題としては、人手不足、とくに若い働き手が足りなくてみすみす商機を逃してしまうことが懸念されています。また、小樽などはまだそこに至っていませんが、オーバーツーリズムの問題がありますね。日本観光を単なるブームに終わらせないためには、例えば旅行者の足まわりを確保するためのライドシェアなど、いろいろな規制をうまく緩めていくことも重要だと思います。
Q もうひとつ、北海道はアドベンチャートラベルの最適地と言われているが、その理由はなんですか、という高橋さんからの問いがありました。こちらの解答例はどのようなものでしょう?
A ベースとしては、なんといっても多様な自然に恵まれていることですね。そして私が強調したいのは、知床や大雪山といった有名なエリアだけではなく、まちの近くに魅力的な自然がたくさんあることです。講義でもふれましたが、小樽だってそうです。小樽観光のメニューとして自然は売り物にはなっていませんが、海と陸と山や森がこんなに近く接していて魅力的なフィールドがあることを、小樽の人もあまり知りません。世界の山を知っているマーク・シノットさんが、小樽は「undiscovered paradise」だ、とおっしゃる通りです。
Q 異文化の中に飛び込んでうまく振る舞うことは容易ではないでしょう。それは、いわゆるグローバル人材となるために不可欠な資質に関わることだとも思います。ポイントは単に英語力だけではないと思いますが、外国で元気に仕事をしたり暮らしていける人には、どんなマインドやスキルが求められているとお考えですか?
A 違う文化や価値観に対して寛容であること、柔軟であることでしょうか。自分ではとても受け入れられない慣習やふるまいに接したときにも、いきなり壁を作らずに一度は受け止めてみることが重要だと思います。「Yes, but…」の世界ですね。エジプトで僕は何人にもイスラム教への入信を勧められました。僕にそういう気持ちはまったくありませんでしたが、かたくなに壁を立てて拒否することはしませんでした。一方でそう振る舞うためには、自分なりの宗教観や哲学がちゃんとなければなりません。逆に、そういう体験を重ねることで自分なりの哲学や価値観が強く磨かれていくのかもしれません。
Q 大学で学んだことでいまの高橋さんとうまく繋がっているのは、どんなことだと言えますか?
A 1997(平成9)年に入学したとき、僕はインターネットについて勉強したいと思っていました。その少し前にウィンドウズ95が発売されて、これからいよいよ本格的なインターネットの時代がはじまる、というころです。ネットの環境はいまの学生には考えにくいでしょうが、個人がいつもネットに繋がっている日常とはほど遠いものでした。僕は時間があれば大学の情報処理センターに行ってPCの前にいました。ウィンドウズのPCにあったメッセンジャーとか、そのあとのスカイプを使っていろんな人とメッセージを送り合ったりしました。海外をひとりで歩くようになったとき、そうした体験がベースにあったことがとても役に立ちました。
<髙橋真史さんへの質問>学生より
Q 海外で遭遇した衝撃や思い出深いエピソードなどを教えていただけますか?
A いろいろありすぎてひとつふたつを挙げることは無理ですが、日本で抱いていたイメージは薄っぺらなものに過ぎないんだな、と思ったことが何度もあります。例えばイスラム圏では女性が弱く、差別も激しい、というイメージがあるでしょう。でもエジプトのカイロ在住の日本人女性(エジプト人男性と結婚後イスラム教に改宗)の方は、イスラムでは男性が一生懸命働くから女は楽なんだよ、と言っていました。なるほどそういう面もあるのか、と思いました(アラブ圏に女性差別的なものは全くない、と言いたいのではありませんが)。現地に入って自分の目や心で感じることが大事なんですね。
Q ヒッチハイクがうまくいくコツを教えてください。
A 良い質問です(笑)。段ボールに行きたいまちの名前を書いて掲げている人がよくいますね。例えばニセコにいる人が、「函館」と書いていたり。でもこれだと、例えば黒松内に行く用事の車は止まってくれません。方向は同じなのに。ヒッチハイクでは、10キロでもとにかく目的地に近づくことが重要です。だから僕は、道路際で親指を立てる定番のポーズを、とびきりの笑顔といっしょに繰り返します。それだけ。こいつを乗せれば何か楽しく運転できそうだな、ということをわずかな時間でアピールするのです。そうしながら、少しでも目的地に近づくこと。経験上、これがいちばん良いとオススメできます。
Q いま勢いがあってさらに成長するであろう国はどこだと思いますか?
A 人口ピラミッドを見ればわかります。つまり日本とはちがって若者が多い国です。そして、治安が良くて独裁が敷かれていない国。東南アジア、中でもタイとかベトナムは、日本と文化も近いし、親しみやすさもあって注目したくなります。ベトナムでは、1960年代から70年代に悲惨なベトナム戦争があって、このときの若者世代が多く亡くなりました。ですからいまその世代の層が薄いわけです。また、つい先日テレビ番組で見ましたが、タイの大手企業の課長はだいたい30代だそうです。僕も今月20年ぶりくらいでタイにいったのですが、20年前に訪れたまちが3倍くらいに大きくなっていました。日本では逆にどんどんシュリンクするばかりですね。
Q 海外でいちばん怖かった体験を教えてください。
A 死を覚悟したような経験は、幸いありません。小さな危険はいろいろありますが、例えばマレーシアでこんなことがありました。海外旅行のバイブルである「地球の歩き方」には、現地の人の言語と日本語を教え合う「エクスチェンジ」で、「私の娘が日本語を勉強しているからぜひ会って教えてあげて」、なんていう人がいて、行ってみたら怖い男たちに金を巻き上げられた、という話が載っています。それは知っていたのですが、いやこの人はそんな人ではないだろう、と思う人からそう誘われました。行ってみるとはたして娘さんなんかいなくて、ごつい男たちが「まあここに座れよ」、なんて言ってきます。カード賭博です。有り金残らずすること間違いなしですから、これはマズイと思って退散しようとすると、せめてお茶でも飲んでいけ、と。ひとくちだけ飲んでタクシーに飛び乗って帰りました。車中で少し意識が薄らぎました。睡眠薬が溶けていたんですね。ともあれどこにいても、危険を未然に察知するセンスと、多少の危ないことへの耐性は、持ち合わせていなければなりません。
Q 起業しようと決めた気持ちについてもう少し教えてください。
A 3年生を終えて休学して、アジアを旅してからですね。旅の途上でいろんな日本人にも会いましたが、多くの人はサラリーマン生活のつまらなさを僕に切々と語りました(笑)。卒業して有名な大会社に入るだけが人生の目標ではないはずだと、僕自身もすっかり洗脳されてしまったのです。旅が自分を変えたことは間違いありません。講義でもふれましたが、安定した大企業で出世することをめざすのではない、いわばポスト資本主的な生き方を自分で探ってみたくなったのでした。
Q 髙橋さんの生き方に惹かれながらも、自分にはそんな勇気はないな、とも思ってしまいます。チャレンジへと一歩踏み出すためのヒントをいただけますか?
A 小さな勇気を起こすことを積み重ねて習慣化すると良いと思います。例えば僕は子どものころ、モーグルでジャンプが怖くて仕方がありませんでした。そんな気持ちがあると、飛ぶ前に腰が引けてよけいにうまくいきません。でも思い切って腰を入れてジャンプすると、うまくいくのです。そのことがわかると、少しずつ難しいジャンプに挑戦できるようになりました。なにか新しい挑戦をしなければいけない場面で怖い気持が湧いてくるときは、このモーグルジャンプのように前向きの姿勢の方がうまくいく、ということを覚えておきましよう。