2023.01.11
令和4年度第11回講義:福井 慎二さん(S55卒)「職業としての『NHKアナウンサー』」
講義概要(1月11日)
○講師:福井 慎二氏(昭和55年商学部商業学科卒/元・NHKアナウンサー。現・NHK札幌放送局キャスター。NHK文化センター講師)
○題目:「職業としての『NHKアナウンサー』」
○内容:
日本の放送史は、2025年で100年の節目を迎える。その中で、私はNHKアナウンサーとして40年あまり放送現場で仕事を続けて来た。DX化が進む一方で、大地震発生の可能性が高まり、温暖化による異常気象が頻発する現代は、誰もが自然災害の危険とともにある。そうした時代に放送メデイアが担うこととは何か、日本の放送メディアが今どんな状況にあるのかを、私が体験してきたことを軸に「NHKアナウンサー」という目線から伝える。
放送百年を間近に、アナウンサーという仕事を考える
福井 慎二氏(昭和55年商学部商業学科卒/元・NHKアナウンサー。現・NHK札幌放送局キャスター。NHK文化センター講師)
商大時代の興味は、マーケティング、そして自動車
私よりもインターネットから情報をたくさん集めて使いこなすことに長けている皆さんに、今日は日本の放送メディアがいまどんな状況にあるのかを、私が体験してきたことを軸に、「NHKアナウンサー」という目線からお話しします。
端的に言って、いま日本の放送メディアは大きな過渡期にあり、NHKや民間放送局をはじめ、さまざまな当事者たちが危機感を共有しています。
その前にまず私のキャリアを説明しましょう。
私は、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した1956(昭和31)年、札幌に生まれました。気がつけばもう66歳になりました。65歳になった2021年に満期定年で、以降はNHK職員ではなく、業務委託を受けるキャスターというポストで同じようにアナウンサーの仕事をしています。NHKのアナウンサーを40年あまり続けてきました。
札幌東高校から小樽商科大学に入ったのは、1976年のことでした。
ゼミは、斉藤要先生の「商品学」。いまでいうマーケティングで、商品のブランディングについて興味がありました。例えば2000円のTシャツが、おなじものでもカッコ良いロゴが入っただけで5000円でも売れる。人がブランドに見いたす価値や魅力ってなんだろうと思い、卒業論文で論考したのです。
私の学年の人数は285人で、そのうち女子が10%くらい。道外から来た学生も15%くらいいたと思います。
部活は、いまはありませんが、自動車部。正門を入って左手に三角屋根のガレージがあって、部の車が2台ありました。ボディには「小樽商科大学体育会自動車部」という文字が入っています。これでラリーやフィギュアという競技の大会に出ていたのです。
私は札幌の実家から通っていましたが、何人かの友だちの、小樽の下宿先に泊まったりもよくしていました。札幌から出たことのなかった私ですが、学生生活で出会った道内や本州方面からの友人たちが、私により大きな世界を新しく見せてくれました。
社会人デビューは1980年。これはちなみに松田聖子さんがデビューした年です(笑)。
当時の就活は4年生の6月ころから始まります。自宅にどっさり送られてくるリクルート社などの就職情報誌から希望の会社を選んで、付録の資料請求はがきを出してアプローチしていきます。OBから連絡が来て札幌や小樽で会うこともありました。正式な企業面接の始まりは10月1日。内定が出るのは11月1日から、というものでした。
小樽商大は伝統として、銀行や保険、証券といった金融に進む人が多く、商社やメーカー、流通も人気がありました。いずれにしても今も、小樽商大は就職に強い大学だと思います。私は、メディアへの志向もあったのですが、ゼミなどで学んだことに直結するように、まず商社や商船会社に行きたいと考えていました。理由の原点には、幕末の志士坂本龍馬が大好きだったということがありました(龍馬は海援隊という、のちの時代の貿易商社のような組織を作っていました)。しかしそれがメディア志望に変わっていきます。
当時の就職人気企業をリクルート社などのデータ(文系総合ランキング)から拾ってみましょう。
1978年、79年、80年の3年間で見ると、1位から3位はなんと同じです。上から、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、三井物産、3位が三菱商事。NHK(日本放送協会)も3年とも5位以内です。やはり社会が安定していたのでしょう。
興味深いのは、NHKはじめ「日本」という名前を持つ企業が、ベスト10内にいくつもあることです。日本交通公社(JTB)、日本航空、日本生命など。意味合いから考えれば、まさに親方日の丸、寄らば大樹の陰。この時代は、大きく安定した組織に人気があったのです。
これが2021年からの3年間でみると、人の移動が制限されるコロナ禍前のデータである2021年の1位2位は、日本交通公社(JTB)と全日本空輸(ANA)で、5位にオリエンタルランドがあります。そして2022年、23年の1位は東京海上日動火災保険で、両年とも、社名に日本がつくのは2023年の日本生命しかありません。変化がある中で、北海道企業であるニトリが上位にあることは、道産子としてうれしいですね。
NHKアナウンサーを志望したいきさつ
私がNHKのアナウンサーになりたいと思ったことには、まず2本のアメリカ映画の影響があります。
1本は、「いちご白書」(1970年)。世界中で、為政者たちにNOをぶつける学生たちの運動が盛んな時代で、この映画はニューヨークのコロンビア大学の紛争をテーマにしていました。メディアが、大学側と学生たちの双方を取材してそれぞれの考えを追っていることに興味を惹かれました。
実は私の実家は北大のすぐ近くで、首都圏や関西などの大学と同じように北大でも70年安保をめぐる学生運動が盛んでした。ですから小学 5、6年生のころからキャンパスの騒動を間近に見ていました。子どもながらに学生たちにシンパシーを抱いていたものですが、この映画は、学生と大学側、両方の視点を意識して作られていると感じました。
もう1本は、これもアメリカの、民主党本部に共和党の組織が盗聴器を仕掛けようとしたことをめぐる「ウォーターゲート事件」をもとにした、「大統領の陰謀」(1976年)。
やがてニクソン大統領が辞任に追い込まれることになる大事件ですが、それを動かしたのは、ワシントンポスト紙の調査報道でした。その事実をもとにした映画です。
ふたつの映画から、メディアの役割を知らされ、その仕事はかっこいいな、と単純に憧れました。
そして、卒論を書くときに斉藤要先生から薦められた文献の一冊もきっかけとなりました。それは、「企業イメージ 消費者から見た一流会社」(日本経済新聞社企画調査部編 1977年) という本です。月日が経って少し赤茶けた実物を、今日は本棚から引っ張り出してきました。
これは1968年から日本企業2000社を対象に、1社につき400世帯に調査を重ねたもので、22の調査項目があります(同様の調査は現在も続いています)。
一般の人々に、この企業について「伝統があると思うか?」、「技術が優れていると思うか?」、「規模が大きいと思うか?」、「安定性があると思うか?」、「信頼性があると思うか?」、「安定性があると思うか?」、「清潔感があると思うか?」などと問うた結果がまとまっているのです。
私が手にした1977年版では、例えば伝統のある企業の第一位は歌舞伎座。清潔感のある企業の第一位はクリーニングの白洋舍というように、消費者のイメージは経済人のものよりずいぶん素朴で単純です。
NHKはどうかというと、「規模が大きい」で1位でした。日立グループとか日本電信電話公社(現NTTグループ)とか、実際ははるかに大きな企業はたくさんあるのに、消費者が毎日ふれていることからそうしたイメージが醸成されているのでしょうか。「清潔感」の項目では、メディア企業の中で最高の第4位でした。ほかNHKでは、「信頼性がある」、「社会に貢献している」、といった項目が印象的でした。
メディアへの興味が募っていた私は、行くならNHKが良いな、と思うようになりました。当時は、メディアといえばまず新聞社。戦前からの長い歴史を持つ新聞が社会に持っていた影響力がとても大きかったのですが、私は、これからはテレビの時代ではないか、と感じていました。
そして、中学高校と、私はよく深夜放送を聞きながら勉強していて、中でも亀渕昭信さんがディスクジョッキーを務める「オールナイトニッポン」という番組が大好きでした。声の番組に惹かれていたのです。そこからも、アナウンサーという仕事が目標としてできていました。
そうして私は1980(昭和55)年に、東京採用のアナウンサーとして、NHKに入局したのです。
もうじき迎える、日本の放送百年
私が入った時代は、NHKの人員がもっとも多かったころでした。全国で1万8千人くらい(以後、技術分野や中間管理職の部分で合理化が進んで、現在は1万人くらい)。同期は600人で、そのうちアナウンサーは、私を入れて15人。女性はひとりだけでした(現在は女性アナウンサーの採用の方が多いくらいです)。
まず研修センターで2カ月研修を受けました。音声表現の訓練はもちろん、自分で取材してその内容を整理しながら原稿に起こし、それを5分くらいで話すリポートの訓練もあります。アナウンサーは、報道や番組司会の専門家であり、人が書いた原稿をただ上手に読むだけの仕事ではありません。神宮球場に行って野球中継の練習もしました。これは、やがて全国の局に配属されると、各地域で高校野球の中継をするからです。
新人研修が終わると、私は旭川に配属になりました。当時は新人の配属先として北海道がいちばん多くて、全部で5人が北海道でアナウンサーの仕事をスタートしています(いまは九州が多くなっています)。赴任地では、ニュース読みやリポート制作、インタビュー、スポーツやニュース現場の実況など、実際に電波にのる仕事を通して、実務研修が行われます。番組の制作も体験していきます。
受信料制度で成り立つ公共放送であるNHKで働く人は、会社員ではなく、団体職員です。その中でアナウンサーは、音声表現者です。
さて、「規模が大きい」とか「清潔感がある」、「信頼性がある」といった一般の方がイメージするNHK像は、入局した自分からはどう見えたでしょう。
お堅い役所のような組織かな、と思っていましたが、実際にははるかに自由で、新しいことに積極的でした(民間放送局とはまた違うと思いますが)。そしてひとつのことにじっくり取り組む意識を持った組織だな、と感じました。それと、規模はそんなに大きくないのに、職員の不祥事などがあればすぐ大きく報道されてしまいます。例えば10万人以上の社員がいる大企業よりも、NHKの問題はすぐニュースになりますから、倫理観をしっかりもって働かなければ、という意識が自然に育ちます。
さらには、社会の情報インフラを担っているという気持ちがありますから、エネルギーや交通など、分野は違っても社会インフラに関わる企業への共感が自然に涌いてきます。
NHKの成り立ちを説明しましょう。
前身である(社)東京放送局が設立されたのは1924(大正13)年で、その2年後、名古屋と大阪にもできていた同様の放送局と合わせて、(社)日本放送協会が設立されました。NHK(Nippon Hoso Kyokai)という呼称が使われ出したのは1939(昭和14)年からです(1959年には定款で正式に定められました)。今日の姿である、放送法に基づいて設立された公共放送を担う特殊法人となったのは、1950(昭和25)年のことでした。
NHKは受信料制度の上に成り立っていますが、ご存知のように日本にはほかにいくつもの放送局があり、そちらは「民間放送」と総称されます。
民間放送の主な経営基盤はコマーシャルによる収入にあります。民間放送局では、高い視聴率を取る番組で流すコマーシャル料は、高く売ることができます。
言い換えれば、皆さんがふだん買う商品の価格の一部から、経営の基盤が作られていることになります。
公共放送と呼ばれる放送局は、イギリスにあるBBC(British Broadcasting Corporation・英国放送協会)が知られています。アメリカにもPBSという公共放送サービスがあります。
また、中国の中央電視台、北朝鮮の朝鮮中央放送などは国家が運営する国営放送で、基本的に政府の広報を担う放送局です。
日本の放送の始まりは、1925(大正14) 年3月22日(ちなみに世界最初の放送は、1920年アメリカのピッツバーグで始まっています)。「JOAK JOAK こちらは東京放送局であります」、という声とともに、ラジオ放送が始まりました。この記念すべき第一声を発したのは京田武男という方で、東京日日新聞の運動部の記者でした。東京放送局の職員は20人足らずで、その中でアナウンサーは4人いました。そのうちふたりが新聞記者出身で、ほかには株式の専門家と、もうひとりは公募でした。
このようにアナウンサーという職業は日本の放送が誕生したときからあった、放送業界でもっとも歴史ある職業のひとつなのです。
といっても当初は職業として長く続けるのは難しかったようで、東京放送局ではその後2年間で12人のアナウンサーが入れ替わり立ち替わりしました。開局して4カ月で、はじめて女性のアナウンサーが誕生しています。学校の先生から編集者になっていた方で、しかし半年後に退職しています。
1925年から数えてもうすぐ百年です。それぞれの産業には寿命や時代の岐路があると思います。最初の方で放送はいま変革期にあると言いましたが、放送百年はどんな節目になるのか。注目してほしいと思います。
アナウンサーの仕事
現在NHKは全国に50あまりの放送局があり(全都道府県に局があります)、社員であるアナウンサーは、合わせて500人あまり。私が入局したころは1万8千人のうち600人弱くらいで、現在は約1万人で500人ですから、合理化で人員削減がつづいている中では、歩留まりは高いといえるでしょう。
民放のアナウンサーは、その3〜4倍はいると思います。民放連(日本民間放送連盟)の加盟社は現在194社で、衛星放送は11社。そこを舞台に、正社員のほか、さまざまな雇用形態でアナウンサーが仕事をしています。
加えて、放送局と直接雇用関係にないフリーのアナウンサーがいます。この方々は、個人の方も、人材派遣会社や制作プロダクションの社員もいます。また、札幌や小樽にもあるコミュニティFMの番組では、本業をもちながらアナウンサーの仕事をしている人もいますし、長野県など、自治体の職員がアナウンサーを務める場合もあります。長野には山あいの難視聴地域があるのでケーブルテレビが発達していて、そこでは自治体の方がアナウンサー役を務めるのです。のちに私が長野放送局に赴任したとき、その方々のための研修を行う仕事がありました。
アナウンサーという公的な資格はありません。ですから誰でも、知識や技術や経験の差はあるにしても、極論すれば、私はアナウンサーですと名乗ると、アナウンサーなのです。
NHKの局でアナウンサーがいちばん多く配属されているのは東京放送センターで、100人くらい。6年前まで私もここに所属していました。NHKに40年あまりいたうち、まず入局15年くらいまでのあいだで、私は、旭川、秋田、釧路、札幌、東京と転勤を重ねました。
NHKには東京以外に拠点局と地域局があり、拠点局は、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、松山、福岡。地域局は各県庁所在地をはじめ、北九州、北海道では函館、旭川、帯広がこれにあたります。
東京放送センターでは、専門性をもった3つの分野にアナウンサーが配置されています。「報道系」、「番組系」、「スポーツ系」です。報道系には「おはよう日本」、「NEWS7」、「NEWS WATCH9」といった番組があり、番組系では「あさイチ」、「NHKのど自慢」、「歴史探偵」など。スポーツ系では、スポーツニュースのほか、大相撲なども含まれます。海外に視野を広げると、野球の大リーグ中継やサッカーW杯などは、NHKグローバルメディアサービスという子会社があり、そこに本体からスポーツ専門のアナウンサーが出向しています。
最初の東京時代、私は朝のニュースでリポーターを務め、夜7時のニュースではニュース原稿を読みました。その後管理職として金沢に行って、アナウンサーの育成とか予算の管理などを行い、2006年に夜の「ニュースウォッチ9」という番組のスタートに合わせて東京に戻ります。「ニュースウォッチ9」では、ニュース原稿を読みました。
「命を守る」ための報道を強く意識する
自分はずっと報道の現場を希望して、だいたいその願いの通り仕事ができてきたのですが、報道にこだわりたいと強く思うようになったきっかけがあります。それは、1993年7月の北海道南西沖地震です。皆さんが生まれる前で、震源に近い奥尻島では230人もの方が津波で亡くなり、地域が壊滅してしまった大地震でした。
NHKは、災害対策基本法が定める指定公共機関の中で唯一の報道機関なので、他局が入れないエリアにも入って報道をする義務があります。そこで拠って立つ理念は、「国民の生命と財産を守る」ということ。
「命を守るための報道」。
この言葉は、私の心に深く響きました。以後、自分の中でこれを軸にして仕事をしていこう、という気持ちが強くなりました。
1995年6月には、羽田から函館に向かっていた全日空機がハイジャックされる事件がありました(全日空857便ハイジャック事件)。少し前の3月、オウム真理教が東京の地下鉄でサリンをまいて多くの人が亡くなった大事件があり、ハイジャックの犯人は機内で液体の入ったビニール袋とアイスピックをかざして、要求を呑まなければサリンが入ったこの袋に穴を開けるぞ、と脅したのです。機は函館空港に着陸しましたが、犯人は乗客・乗員を人質に立てこもります。
私はその夕方から翌日の昼すぎ(犯人逮捕と人々の解放)まで、現場で実況中継をしました。機から200mくらいの場所です。警視庁の特殊部隊も東京から支援に来て、最後は道警機動隊員が機体ドアから突入しました。犯人は複数犯でNHKのテレビかラジオを聞いている、という情報が入っていました。現場はピリピリとした空気に包まれましたが、私は「乗客・乗員の命を守る」ことをすべてに優先させて仕事をしようと考えていました。
突入が迫った昼過ぎ、道警からNHKに、いまから報道を控えるように、という規制が入りました。そして突入。近くにいた他局のアナウンサーたちはいっせいに喋り始めますが、私は、これは仕方がないと腹をくくって沈黙しました。私(NHK)が喋ると、機内で無用な被害がでる危険があるのですから。
「命を守る」ことをめぐっては、1996年の12月から4カ月以上にわたった、ペルー日本大使公邸の人質事件も、私に強烈な印象を与えました。
各国の日本大使館では、天皇誕生日(このときは平成天皇12月23日)を祝賀して、誕生日が近づくと多くの要人たちを招いてレセプションが行われるのが恒例です。在ペルー日本大使公邸でも行われたのですが、このときペルーの武装ゲリラ14名が会場に乱入して、ゲストやスタッフたち合わせて72人を人質にして立てこもったのです。そのうち日本人は24人。
私は翌年2月から最後まで現場に派遣されて、大使公邸を見下ろすすぐ近くの古いビルの屋上に陣取って、毎日ラジオとテレビにレポートを送りました。アナウンサー1名、ディレクター1名、カメラ1名、記者1名、管理職1名の5人で、みな防弾チョッキとヘルメットは欠かせません。
立てこもって127日目。4月22日についにペルー軍の特殊部隊が強行突入を決行しました。遠くから公邸の下まで地下トンネルを掘り進め、公邸の下で爆薬を炸裂させたのです。
電線に止まっていた鳥たちが、驚いて一斉に飛び去った光景を今でもありありと思い出します。次の瞬間、突入がはじまり、銃声と怒号が飛び交いました。
ゲリラは機関銃とロケットランチャーを持っています。彼らが私たちのいるビルにロケット弾を発射すれば、ひとたまりもなかったでしょう。しかしもちろん、いちばんの心配は、中にいる人質たちです。2カ月以上現場にはりついて、さまざまな情報を集めていましたから、人質がどんな人たちであるのか、ひとりひとり分かっていました。実はこの中には小樽商大の先輩もいました。松下電器(現パナソニック)の現地法人の社長を務めていた方です。現場を冷静に見据えてレポートしながら、どうか無事でいてくれ!と願うばかりでした。
このとき、ゲリラは全員が射殺されました。人質からも2名、ペルー軍の兵士1名が犠牲になりました。このときも「人間の命を守る」ことと、そのために自分ができる仕事について、あらためて認識を深めました。命のあり方も、国や文化によって違います。このときペルー当局は、ゲリラを生かしてつかまえても次のテロは防げないという考えから、犯人たちを全員殺しています。
視聴者の避難行動を導く緊急報道へ
私はアナウンサーというひとつの職種に40年あまり携わってきました。報道の現場にずっと関わりたいと思ってきたからです。こういうキャリアはNHKの中では少数派です。若い時代にアナウンサーであっても、やがて管理職になって現場を離れるケースの方が多いのです。
アナウンサーで入局した15名の同期のうち、基本的にずっとアナウンサーを続けてきたのは、私を入れて5名(私も管理職として育成やプロデューサーの仕事をした時代がありますが)。そのほかの人のパターンとしては、地域局のディレクターになって番組を監督して(ディレクター)、次にチーフプロデューサーになって予算や視聴率などを含め全責任を負って番組を作ることになったり。視聴者の皆さんとコミュニケーションを取る仕事(視聴者センター)に移ってから、現在は局長になっている人もいます。
またもともと理系だった女性のアナウンサーは、チーフプロデューサーを経て科学分野の解説委員になり、いまはまた現場でディレクター務めています。あるいはスポーツ畑を進んだ同期は、チーフプロデューサーを経ていまは関連会社でディレクターをしている、といった具合です。
2002年から3年間、私は札幌放送局のアナウンス部長を務めましたが、そのときは小樽商大に毎年リクルートの目的で来ていました。
2008年から3年間、私は管理職として金沢放送局にいました。そのあとは3度目の東京アナウンス室勤務となりましたが、そこで災害報道についていろいろな取り組みに関わりました。2011年3月の東日本大震災のとき私は金沢にいたのですが、その翌月からのことです。
「命を守る」ための報道が、新たな時代を迎えていました。
それまでは事態を素早く正確に伝えることが第一に考えられていた緊急報道ですが、この時代から、人々に具体的な行動を強く促すことを志向し始めます。ではどういう呼びかけが有効なのか。議論を重ねる中で私は、「命を守るために」、「命を守る」という言葉を提案しました。どんな人も、いわゆる正常性バイアスに縛られがちです。つまり、よそは危なくなっているけどここは大丈夫、私は大丈夫、という、根拠のない思い込みです。そういう思い込みを突き破って人に行動を促すには、これくらいの言葉が必要なはずだ、と思いました。
いまでは盛んに使われているこのフレーズですが、当初は「生々しすぎる」という反対意見がありました。若い女性アナウンサーが提案した「東日本大震災を思い出してください!」という呼びかけも同様です。でもこれもよく使われる基本的な呼びかけになりました。
そして東京のNHK放送センター(渋谷)では、ほぼ毎日、深夜から緊急報道の訓練を行うようになりました。大災害が起こったとき、アナウンサーをはじめとした報道のスタッフたちは何をどう判断してどのように行動したら良いのか。それを繰り返しトレーニングするのです。アナウンサーは、「ただちに命を守る行動を取ってください」、「東日本大震災を思い出してください」と、避難の呼びかけなども訓練します。5年半ほど、私はその講師役を務めました。報道アナウンサーは、この訓練を受けなければ全国ニュースが読めない決まりになっています。
とりわけ東京で繰り返しこのトレーニングを行っているのには、東京が最後の砦だ、という考えがあります。大災害が起こったとき、現地局は被災して報道ができなくなります。そこで、例えば山形で大地震が起こったとしたら、仙台がバックアップで報道に当たります。しかしもし仙台までもが大きく被災してしまった場合には、東京がその役目を担うのです。
「北海道ブラックアウト」の衝撃
皆さんも記憶に新しいと思いますが、2016年4月14日には熊本地震がありました。天守閣をはじめ熊本城が大きく崩れてしまうほど大きなものでした(最大震度7)。ちょうど私はその春に東京から札幌に異動になっていて、熊本にサポートに入りました。そのとき、ようやく現地にたどり着いてまもなく、4月16日にはのちに本震とされた、さらに大きな地震に見舞われました。
NHK熊本放送局には百名くらいの職員がいましたが、基本的に彼らはまず被災者です。そのために、全国の局からこの年にのべ400名くらいの人員が熊本に入り、熊本からの放送を維持したのでした。
今日は皆さんに、「北海道ブラックアウト・どのメディアが機能したのか」、という事前課題を出しました。全道におよぶブラックアウト(停電)の原因となったのは、2018年9月6日の午前3時7分ころに発生した「北海道胆振東部地震」です。厚真町で最大震度7に達して、死者43人、負傷者782人。札幌の清田区などでは液状化現象が起こり、私たちにさまざまな教訓を残しました。
まず、日本の地震観測史上震度7以上を記録したのは4回しかありません。2004年の新潟県中越地震、2011年の東日本大震災、そしていま上げた熊本地震と、この胆振東部地震です。
最大の問題は、なんといってもほぼ全道がブラックアウト状態になってしまったことです。9月頭であったことがどれほど幸運だったことでしょう。これがもしいま(1月11日)の時期であったなら、停電によって大部分の暖房が断たれ、悲惨な事態になったことは間違いありません。
地震発生直後、私はすぐ札幌放送局と連絡を取り、最初に駆けつけるアナウンサーではなく、2番手以降のシフトにしてくれるように頼みました。なぜなら、これは長期戦になるな、と直感したからです。地震で散らかった家の整理をして、とりあえず睡眠を取りました。そして翌日午後から翌朝まで、局のテレビカメラの前で状況を伝えました。といっても札幌市内はじめ全道の多くでは停電が続き、私の家内も私がテレビで何を伝えているのかわかりません。東京にいた私の子どもたちが番組を見て、お父さんはがんばって働いてるよ、と家内にメールで伝えたようです(笑)。
このとき再認識されたのは、速報性にすぐれたラジオでした。便利なスマホも、バッテリーが切れては無用の長物で、テレビやパソコンは電気なしではまったく役に立ちませんでした。必要な情報を、必要な人にどのように伝えるか—。私たちは大きな課題を突きつけられました。
「公共放送」から「公共メディア」へ
放送業界はいま大きな過渡期にある、ということを話してきました。
現在は、災害時に限らず人々が自分で情報を取りに行く時代です。その際に気をつけなければならないのは、正確さです。例えばいま、ロシアとウクライナ双方が発信している情報は、まるで違います。どちらをどう信じたらよいでしょう? フェイクニュースもあふれています。情報はつねに、できるだけ公式な複数のリソースから入手してチェックしなければなりません。
1925年に日本のラジオ放送が始まって以来、放送はずっと、文字通り送りっぱなしのものでした。視聴者はあくまで受動的に、何時からのこの番組を見ようと、テレビのチャンネルを合わせたものです。しかし日本のテレビ放送が2011年夏に完全に地上デジタル放送に移行してから、放送は双方向のものになりました。これが決定的な転換点です。視聴者が能動的に情報を取る行動が、ますます主流になったのです。
いま後輩のアナウンサーたちの仕事を見ていると、取材をしてニュース原稿を書くということは変わらなくても、彼らは公式のHPに乗せる文章を書いたり、写真や動画を撮ったりもしています。従来の電波に限らないメディアが仕事場になっているのです。
地デジ移行の翌2012年に、私も立ち会った番組ですが、東京で「ニュース11」という番組が始まりました。ここではインターネットと番組を結んで、視聴者がいろんな意見や感想をツイッターでつぶやくことができる仕掛けを作りました。30分で1000くらいの投稿があり、それをディレクターたちが受けて整理しながら番組を進めます。いまはラジオを含めてどの番組でも、そういう手法が当たり前になっていますね。
私たちはいまNHKを、「公共放送」ではなく「公共メディア」と呼んで位置づけています。2025年度からラジオや衛星放送のチャンネルを減らすことが発表されていますが、その分のリソースを、そうした双方向の分野への番組作りに振り分けようとしています。そうしなければ既存のテレビ放送は生き残れない。そんな危機感を局内が共有しているのです。
そうした潮流を受けて、2020年からNHKプラスというサービスで、総合テレビとEテレの常時同時配信・見逃し番組配信が始まりました。当初民放各社はこうした動きに反対していたのですが、去年(2022年)の春からは在京キー局の5社すべてが、TVerでリアルタイム同時配信・見逃し番組配信をスタートさせています。
皆さんも利用していると思いますが、AmazonプライムやNetflixなども、既存の放送局にとってはまさに黒船の襲来でした。
また、マスコミの4媒体、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌の広告収入の中でいちばん多いテレビの広告収入(約1.7兆円)が、2019年にインターネット広告に抜かれました、さらに2021年には、この4媒体の合計をインターネット広告が上回ってしまいました。関係者にとってこれは大きな衝撃でした。
NHKも受信料を減額しましたから、合理化をさらに進めています。
「リアルパーソン」であれ
ニュースをはじめとした情報を、社会にどのように伝えるか。アナウンサーにはしゃべること以外に何ができるのか。アナウンサーが自社のウェブサイトに載せる文章を書いたり、動画を撮ることもふつうのことになってきました。画面のQRコードからウェブサイトや別の動画に視聴者を導いたり、現場ではさまざまな模索が続いています。
またひと昔前とちがって、放送局のアナウンサーはいろいろな人々、フリーアナウンサーやタレントさんなど外部の表現者たちとの競合状態にあります。近年では、ストレートニュースをAIが読むこともあります。これはNHK放送技術研究所がディープラーニングの手法で進化させているものですが、すでに全国10局で自動音声が、気象情報などを人間のアナウンサーに代わって伝えています。「おはよう日本」などでも一部使われています。
自動音声は、人員が限られているアナウンサーやニュース制作スタッフたちの負担を減らすための取り組みで、その分人間は、人間にしかできないことを深めようという狙いがあります。
では、人間にしかできないこととは何か—。
それは、現場を取材して、人の話を聞き、伝えるべきことを効果的に組み立てて、人として感情をもっていきいきと伝えることです。ニュースの対象に深く共感したり、逆に反発したり。心の深いところでそうしたことが大事になります(アナウンサーが個人的な感情を電波に載せるという意味ではありません)。
私は新人時代に、「リアルパーソンであれ」、と繰り返し教えられました。映像を取り繕うだけのアナウンサーにならないこと。知らないことを知ったふりしてしゃべるのではなく、分からないことは分かりませんといえる、「生身の人間」としてのアナウンサーです。
さまざまな変化や危機の中で、あらためて見いだすべきものは、こうした原点であると思います。これがなければ、放送の未来はないのではないか、と考えています。
そのためには、広い視野を持ちながら、自分としての基準が必要です。私は、時代を変えていくさまざまな要素をめぐる情報を把握しながら、つねに変化の流れの真ん中を意識したいと思って来ました。そのためには、広く浅くでも、自分の認識のレンジが大きく開いていることが重要です。
社会の情勢を幅広く捉えながら、その上で自分としての基準、価値観をしっかりともつこと。これは、皆さんが社会人となっても、共通する重要なことだと思います。もうすぐ百年を迎える日本の放送について、今日の私の話をきっかけに、新たな目を向けていただけたら幸いです。
<福井慎二さんへの質問>担当教員より
Q 今日の事前課題に福井さんは、変革のさなかにある放送メディアにおいて、災害報道の将来について考察することを求められました。災害時の情報ニーズにどのように応えていくべきなのか。ご自身のお考えを聞かせていただけますか。
A 災害報道は誰のためにあるのか。まず、技術や手法が変わっていっても、変わらない原則があります。それは、災害報道をいちばん必要としているのは、視聴者の皆さんの前に、被災地の方々である、ということです。
現在NHKでは、大きな災害があるとまず総合テレビとラジオ(第1)で内容を伝え、規模がさらに大きくなると、Eテレや衛星放送など全波で報道します。他の放送局が報道をやめても、NHKはやり続けます。なぜなら、報道をいちばん必要としているのは被災地の皆さんであるからです。その上で、さらに詳細な情報を伝えるHPを立ち上げて、画面QRコードからそこに導くなど、「どう伝えるか」という主題については模索を続けています。
またもうひとつ重視しているのは、外国人の皆さんへのアプローチです。例えば緊急の大津波警報が出される場合NHKは、「つなみ、にげろ!」などと、読めない人がいる漢字ではなく、ひらがなのテロップで呼びかけます。
Q 仕事へのやりがい、あるいはご苦労はどんなところに感じますか?
A 正確な情報を広く効果的に伝える、という仕事の核心がうまく形になるのが理想ですが、私の実感としては、百点を取った仕事はいままでありません。たとえニュースをひとつ読むだけでも、自分で反省してみると、もう少しこうしゃべれば良かった、こういう言葉もあったかもしれない、などと課題が見えてきて、合格点は取れても百点は取れません。でもいくつになっても、そうした課題が見えてくることが、仕事の面白さでもあると思います。
<福井慎二さんへの質問>学生より
Q 福井さんのようなベテランでも、TVカメラの前で緊張することはありますか?
A もちろん緊張します。皆さんの前で話している今だって、緊張していますよ(笑)。でもそれは必要なことだと思います。つまり、気持ちをキリッと引き締めた方が自分の能力が高まりますし、結果、相手に伝わるものが大きいと思います。
Q ペルーの日本大使公邸人質事件のエピソードが印象的でした。ご自分の命までが危険な状況で、どのような気持ちで仕事をされていたのでしょうか?
A ひとことで言えば夢中でした。私たちは5人のクルーで、公邸を見下ろす隣のビルの屋上で取材を続けていました。事件127日目。弁当を食べて少ししたころいきなり爆発音がしました。長い地下トンネルを掘っていたペルーの特殊部隊が公邸の下に爆弾を仕掛けて、爆発させたのです。たちまちあちこちから銃声が聞こえました。ゲリラたちはロケットランチャー(ロケット弾を撃つ)も持っていましたから、私たちがいるビルをそれで狙ってもおかしくありません。古いビルだったので、不安も募りました。しかしいちばん思ったのは、人質が全員助かってくれ、ということでした。我々は十分な情報をもって3カ月近くも取材していたので、人質の名前も職業もみんなわかっていました。先ほどふれたように、中には小樽商大の先輩もいたわけです。みんな無事でいてほしい!という気持ちが強かったのです。
Q 私は先日ラジオ番組に出演してマイクの前でしゃべる経験をしたのですが、うまくいきませんでした。どうすれば放送でうまく話せるでしょうか?
A あらかじめ要点を整理して、それを短い言葉でつないでいくことです。長い文章でしゃべってはダメです。言いたいことを、事前にちゃんとまとめておきましょう。要点はひとつにしぼること。その要点の頂上めがけて、いくつかのルートを上るように、短い言葉をつないでいってください。
Q お仕事のために、毎日どんな勉強や情報収集をしているのでしょうか?
A 情報や知識の前に、まず自分の心身の健康を保つことが重要ですね。半分くらいはそのことに意識を向けています。ありがたいことに、私は長いアナウンサー生活で、病欠した日が1日もないのです。
それと、情報や社会情勢の勉強ですが、ひとつの見方、考え方にとらわれず、つねに対極にある情報や意見を幅広く受け入れるようにしています。ものごとを複眼的に見る習慣ですね。自分を客観視することも重要です。仕事している自分を、少し上からもう一人の自分が冷静に見ているようなイメージです。
Q N党の主張や、NHKに対する批判的な言動などをNHKが報道することもあると思いますが、そのときはどんなお気持ちですか?
A 皆さんが「小樽商大をつぶせ!」と主張する人を目にしたらきっとそうであるように、もちろん気持ちの良いものではありません(笑)。しかし報道は報道です。政見放送では、そのままの主張が流れます。局としてフィルターをかけることはありません。