2022.12.14
令和4年度第9回講義:土方 直子さん(S63卒)「思いがけない道の先にまっていたもの—偶然をチャンスに変える生き方—」
講義概要(12月14日)
○講師:土方 直子氏(昭和63年商学部商学科卒/兵庫大学現代ビジネス学部現代ビジネス学科講師)
○題目:「思いがけない道の先にまっていたもの—偶然をチャンスに変える生き方—」
○内容:
私が北海道銀行に入行して秘書室に配属されたのは、四大卒の女子がはじめて秘書となった年。私のキャリア形成で鍵を握ったのは、いくつもの思いがけないできごとだった。振り返ってみるとそこからは、偶然をチャンスに変えることができた、私の志向や幸運が見えてくる。これからの時代のキャリアのために、「目標を立てて計画的に行動する」ことと、「偶然の出来事を受け入れてチャンスに変える」ことのふたつの組み合わせを、提案したい。
偶然の巡り合わせを、キャリア形成のチャンスにしよう
土方 直子氏(昭和63年商学部商学科卒/兵庫大学現代ビジネス学部現代ビジネス学科講師)
雪の小樽に青春がよみがえる
今日は神戸から参りました。雪の小樽はほんとうに久しぶりで、小樽駅に降り立った瞬間に青春時代の時間や空気感が一気によみがえってきました。
今の私は、商大で学んでいたときの私が到底考えられなかった私です。しかしこうなったいきさつの芯には、とても自分らしい自分が居続けているとも思っています。いくつもの縁や偶然が連なった、「思いがけない道の先」にいまの私がいます。今日はあえてそんな自分を題材にして、キャリアについて考えてみましょう。
私は兵庫県加古川市にある兵庫大学でビジネス実務の授業をもち、学生のキャリア支援をしています。しかしふだんの授業で、私自身のことを赤裸々に題材にすることはありません。私にとって今日の講義はすべて、後輩の皆さんへだからこそ語れる内容です。
今日のポイントは、この3つです。
1.偶然をチャンスに変える方法
2.これからの時代のキャリア開発の考え方
3.自分の使命を知る
まず自己紹介から始めます。
生まれは根室で、父が道庁職員だったので稚内や釧路などで子ども時代をおくりましたが、主に育ったのは札幌です。札幌西高校から小樽商大へ。
商大を卒業すると、北海道銀行に入行しました。1988年です。秘書室に配属され、頭取の秘書も務めました。
それから「ジョブカフェ北海道」という、北海道が設置している就職支援施設で、キャリアカウンセラーの仕事をしました。
2007年からは札幌大学女子短期大学部で特別任用教員。9年間短大の学生たちにビジネス実務を教えて、2016年からは兵庫県加古川市にある兵庫大学で、同じくビジネス実務などを教えています。秘書士、上級ビジネス実務士といった資格を取る科目の教員です。二人の子育てが終わったいまは、10歳のチワワと二人で暮らしていて、趣味は韓国ドラマを見ることです(笑)。
人の役に立つ実学が好きなんだ、と気づく
「おもいがけない道の先」の話。始まりは、小樽商大の受験でした。
大学受験の第1志望は北海道大学の文学部でした。共通1次試験の最後の年。受験の日の朝、札幌はものすごい大雪で、JR(国鉄からJRになって2年目です)も桑園で止まってしまいました。友だち4人でなんとかタクシーを捕まえて会場に走り込みました。するとすぐ開始のチャイム。カバンから筆箱や受験票を取り出す手が震えていたことを覚えています。しかも最初の科目は、苦手の数学。難しくて、20分くらい一問もとけず、パニックです。この年は傾向が変わって、特に難しい数学だった、と後で知りました。その調子で2日目も挽回できませんでした。親からは、大学は北海道の国公立しか行かせられないよ、と言われていたので、次は教育大か小樽商大しかありません。当時の私は、人に何かを教えるという自分がまったく想像できませんでした(そのくせいま大学教員をしているわけですが)。ですから選択肢は商大しかありません。でも数学が心配です。
しかし高校の先生のアドバイスを受けて調べてみると、英語と小論文で受けられる枠があります。これだ!と思って代々木ゼミナールで小論文の講座を受けて、試験に臨みました。すると、なんということでしょうか。問題が、代ゼミで一度やった問題とかなり近かったのです。私は晴れて商大生になることができました。
私はまず北大を志望したのですが、北大で何を学びたいとか、何をしたい、という具体的な目標があったわけではありません。テストの結果でやむなく北大から商大に進路を変更したわけですが、いま思えば商大くらい私に合っていた大学はない、と自信を持って言えます。商大の教育の理念は、皆さんご存知のように「実学・語学・品格」です。私は、社会や人に役立つ実学が好きなんだ、と商大で気づきました。そして今も、実学を教えています。
思いがけなく商大に入ったわけですが、大学時代はとてもたのしい時間でした。
「ガクチカ」(大学時代に力を入れたこと)は、ミニコミ研究会(サークル)。季刊で小樽の情報誌を作りました。パソコンがない時代ですから、なんと手書きです。複写して一冊300円くらいで販売しましたが、いちばん売れたのは秋号の「商大ゼミ特集」。各ゼミにアンケート取材をして、その内容をまとめたもので、つねに完売です。「お役立ち情報を伝える」ことが好きだったのです。
私のゼミは、山本眞樹夫先生の会計学でした。家にもなんどもおじゃまして、奥様にもとてもかわいがっていただきました。すばらしい思い出です。
私はミニコミを作って「みんなに役立ててもらう」ことがすごく好きだったのですが、長い目で振り返ってみると私のそんな資質はいまもそのままあります。だから皆さんも、学生時代に好きなことに打ち込めば、そこから自ずと進路のヒントが浮かび上がってくると思います。
なぜか頭取秘書に
さて就活です。当時の大学に、いまのようなキャリア教育なんてありませんし、就活のスタートは4年生です。もちろんインターンシップなんてありません。自分は何をしたいのか。自分に何ができるのか。わかりませんでした。でも自分ができないことについては、見えていました。ITの世界は向いていません。そして札幌を出たくはありませんでした。さらに就職をしない、という選択肢はありません。自分の志向から、強いていえば教育の分野が向いているのかな、と思ってベネッセという会社を受けると最終面接まで進みました。そこで、東京勤務できますか?と聞かれました。私は、無理です、と辞退してしまいました。
さて次はどうしよう。私が持っていたカードはつねに1枚でした(笑)。大学で求人票を見ていたら、北海道銀行のものがありました。実は仲の良い友だちが、早々に銀行への内定をもらっていました。彼女のお父さんは銀行員だったのです。それで銀行もいいかなぁ、と思って面接を受けることにしました。
するとまたラッキーなことに、一次面接の面接官が小樽商大OBで、話が異常なくらいに盛り上がってしまいます。その方は、あなたは道銀にすごく合っていると思う。上にあげるから、考えてみてください、と言ってくださいました。そして次の日にはもう電話が来て、その後の面接もトントン拍子に進み、私は北海道銀行への就職が決まりました。
私の経験上、物事が良いタイミングで重なるときは、その流れに「Go!」です。逆に、どうも間の悪いことが続くときもあります。きっとそういう場合は、そのまま進んでも良いことはありません。進路で悩むときには、物事のタイミングをよく見定めてください。
こうして私のファーストキャリアは北海道銀行で始まりました。どの支店に配属されるかな、と楽しみに待っていましたが、送られてきた辞令には、「秘書室」とありました。
思わず二度見しました。秘書室ってなにするの? 在学中私は秘書の勉強なんてまったくしていません。不安な気持ちのまま、勤務が始まりました。
仕事は、役員フロアの受付カウンターに座って(2名)来客に対応すること。厳しい先輩から、お茶の入れ方から立ち居振る舞いまで実に細かく鍛えられました。
これが1年間続きました。四大卒の他の女性の同期は、ある人は国際部で英語をつかう仕事につき、ある人は企画部で難しいデータを扱っていました。私はただ座ってお客様ににっこりしているだけです。何してるんだろう、と悲しくなりました。
2年目になり、さらに私は、なんと頭取秘書になってしまいます。頭取秘書なんて、短大で秘書検定を取った人が、何年も常務や副頭取などの秘書を経験したあとになるものです。ミスがあっては決していけない仕事なんです。でも私は諸先輩を飛び越えて指名されてしまいました。上司になぜ私なのか、と聞くと、「大卒なんだからできるよね」、と言います。四大卒の女子を正式に採用したのは私の期が最初なのでした。その上司はまたあるときに、「今年の7人の大卒女子の中で君がいちばんメンタルが強そうだったから」、とも言いました。
先輩たちを差し置いていきなり頭取秘書になった私です。これがドラマだったなら陰湿ないじめに涙をこぼすところですが(笑)、そういうことはまったくありませんでした。それはありがたかったです。でも仕事に喜びを感じる以前に、毎日プレッシャーと戦っていました。日曜日の夜になると、また一週間が始まるんだと、明け方まで眠れないのです。6時半に鳴る目覚ましでなんとか起きて、7時半に家を出る、という生活がつづきました。
一方でこの時代。私は同期の人と結婚しました。同期はみな仲が良く、スキーなどグループでよく遊んでいました。
当時の銀行では、行員同士が結婚した場合、100%女性の方が退職します。私も専業主婦になりました。そして二人の子どもを産みました。
人のために全力を尽くす仕事へ
あの厳しい秘書の仕事よりもっと難しかったのが、子育てでした。
そのころの私は、小さな子どもが苦手だったのです。自分の子と他人の子ではもちろん違いますが、はじめのうちはちゃんと抱っこもできませんでした。私の母が抱くと眠るのに、私が抱くと眠ってくれないのです(笑)。
子育てはわからないことばかりでした。わからないことは学べば良いのです。どろんこ育児とかモンテッソーリ教育とか、子育ての本をたくさん読みました。シュタイナー教育の通信講座まで受けたり、ルソーの「エミール」にも挑戦しました(さすがにこれは読み切れませんでしたが…笑)。知識をもとに実践するうちに、こういう子に育ってほしい、という軸がだんだんできてきます。それがあるとブレなくなります。私は二人の子を育てましたが、7歳ころまでがほんとうに大変でした。こんなに大変な子育てでしたが、いまの自分があるのは、子どもたちがいたからなのです。
結婚で終わった、ビジネスの世界での私のファーストキャリアですが、次に、人生最大のショックな出来事が、私のセカンドキャリアを開くことになります。自分では想像もしていなかったその出来事は、離婚でした。辛くて悲しくて、3年くらいは心から笑えないような日々が続きました。でも行動しなければ二人の子を育てていけません。
また眠れないほど不安な日々が続きましたが、ほどなく私は、「キャリアカウンセラー」の資格をとって、その仕事をしようと決めました。
キャリアカウンセラーとは、90年代にアメリカから入ってきたものです。それまで転職も稀な日本の企業社会では、社員のキャリアを作って来たのは会社の人事部でした。しかし転職が珍しくなくなり人材の流動化が進んでいくなかで、日本でももっと主体的に自らキャリアを開拓していこうという動きが出てきます。そうすると、専門家の知見やアドバイスが必要です。その専門家がキャリアカウンセラーで、日本でもこの専門家を育てるための政策がとられるようになりました。私は通信講座でキャリアカウンセラーの資格を取りました。
資格をとっても、当時はまだ就職先はあまりありません。そんなとき、就職氷河期で正社員になれない若者たちが増えたことを受けて、国と道が新しい就職支援制度をスタートさせたのです。拠点は全国に7カ所。北海道では札幌にジョブカフェ北海道(北海道若年者就職支援センター)が設けられました。就職活動をしている方を対象に就職相談やセミナー、求人情報検索などのサービスが無料で受けられる施設です。私はこの運営を請け負うキャリアバンク(株)に入社して、カウンセリングの仕事に就くことができました。2004年のことです。
道銀をやめて家庭に入って10年あまりが経っていたので、パソコンやインターネットをめぐる進歩はすさまじいものだと感じました。パソコンを触ったこともなく、だから電源の入れ方も知りませんでした(笑)。浦島太郎の気分から、情報環境へ早く慣れることに必死でした。
就職先を見つけるお手伝いは、文字通り人のために尽くす仕事で、私は無我夢中で働きました。一人50分のカウンセリングを、1日6、7人。家に帰るころは疲労困憊です。リビングで服を着たまま寝落ちするようなことも珍しくありませんでした。3年間で1500人くらいの方の相談に応えたことになります。ハードでしたが、人のために一生懸命仕事をすることには、とてもやりがいを感じました。自分だけのためならこんなに頑張れなかったと思います。道銀時代に比べて、私のキャリアステージはこの時代にひとつ上がったと思います。
この就活を総括すれば、「やりたいという情熱」と「適性」があれば、人は、難しいと思われた距離も超えていける、ということになります。どちらかひとつではダメです。「情熱」と「適性」。このふたつのかけ算が成立すれば、希望はきっとかないます。
思いがけず短大の講師に
そんな激務の中で、小樽商大出身の女性の上司が、思いがけないチャンスを私の前に示してくれました。札幌大学が講師の人材を求めているのだけれど、これはあなたにピッタリではないか、というのです。求められている条件は、「秘書経験があること」「授業ができること」「学生のサポートができること」。
なるほどたしかに私にぴったりでした(笑)。実際に秘書経験があること。これがとくに重要だと感じました。道銀で、あれほど面食らって苦しんでいた秘書の仕事が、20年の歳月をめぐって、私の強みになったのです。あの苦労は、このためだったんだ—。20年かけて私は答え合わせをしたように思いました。
次の日、私は札幌大学に応募することを決意しました。
こうして私は、札幌大学女子短期大学部で特別任用教員になりました。
ただこの時点で、リスクがありました。任用期間が5年に限られていたのです。大学教員になっても、5年後にはまた一から仕事を探さなければならない。思うような仕事があるだろうか…。でも、人のために役に立ち、短大生たちとの時間は楽しいだろうな、と思いました。そして私はリスクを取りました。授業に、就職支援に、こちらでも夢中で働く中で、5年の任期は延長されて、合わせて9年間札幌大学で働くことができました。
といっても大学で教えるのは初めてですから、授業の用意や私自身の新たな学びに、また無我夢中で取り組みました。子どもたちには寂しい思いをさせてしまった、という深い反省もあります。
今度の就活を総括すれば、「いま挑戦したいこと」があれば、「いま」やるべきだ、ということ。5年先に社会や自分の環境がどうなっているかなんて、どの道わからないのです。状況は刻々と変化するのですから。それならばまず自分が飛び込んでいって、自分の手で状況を変えていくしかないと思います。
偶然の出来事を、キャリア形成にどう繋げるか
札幌大学女子短期大学部で教えているうちに、娘の大学受験が近づいてきました。長男はすでに札幌で大学生になっていましたが、娘が安心して進学するためには、私の収入をアップさせなければなりません(奨学金を使わず、ふたりの学費は私が出そうと決めていました)。そこで、全国の大学でビジネス実務や就職支援部門の教員の募集を探してみました。任期付きの採用ではない募集です。そして縁があって、いまの兵庫大学に新たなポストを見つけました。2016年のこと。私は50歳になっていました。
私は当初、札幌に子ども二人を残して単身で関東か関西の大学に勤めようと考えていました。しかし娘は、私がいまの大学でポストを得て神戸に暮らすことを決めると、自分も絶対行く!と言って、神戸でいっしょに暮らすことにしたのです。やはりまちの魅力は人を動かしますね。
自分が関西で暮らすなんて、まったく思いがけないことでした。道外で暮らしたことのない私にとって、関西はとても温暖で暮らしやすいところです。なんといっても、四季を通して夏靴だけで済んでしまうのですから。神戸は想像していたとおり、ロマンチックですてきなまちです。
さて、ここまで私のキャリアを棚卸ししてみました。最初に言ったように、これは後輩の皆さんへの一度きりの講義なので、すべてをお話ししました。ここまでの話を、まとめて考察してみましょう。
- 自分の願ったとおりの結果じゃなくても、受けれて頑張ってみること(私の秘書時代)。
すると、思いがけない展開で、願っていたより素晴らしい場所にたどり着ける可能性があります。ことわざで言えば、禍福はつねに変転していくという、「人間万事塞翁が馬」です。
- 最大の危機こそ、最大のチャンス! (離婚からキャリアカウンセラーへ)
立ち直れないと思うほどの危機を乗り超えたとき、人生のステージはきっと上がっています。
皆さんがいま想像することは難しいでしょうけれど、一般に「ミドルエイジ・クライシス(中年の危機)」という言葉があります。40代くらいで、人生観を覆すような出来事が起こるというものです。私の場合はそれが離婚でした。子どもたちと自活していくために、私は不必要なプライドをみんな捨てました。そうしなければ生きていけなかったからです。でもそのことで、私はのびのびと自分らしくなれたと思います。「幸福は不幸の顔をしてやってくる」、なんていう言葉のとおりです。
- これからの時代にキャリアを発展させるには、「目標を立てて計画的に行動する」ことと、
「偶然の出来事を受け入れてチャンスに変える」こと、このふたつを組み合わせることを、皆さんに提案します。
目標と計画は、従来からあるキャリア形成の軸です。でも現代のように何があるかわからないような変化が厳しい時代には、目標に向かって進みながらも、思いがけないチャンスや出来事とも遭遇するでしょう。そのときは思い切って横っ飛びして、そのチャンスをつかむこと。強調したいのはそのことです。
私の場合、商大を卒業して道銀で秘書になり、辞めたあとでキャリアカウンセラーの資格を取ったことが、思いがけず短大の教員の職を招き寄せました。兵庫大学に移ったのも思いがけない縁だと言えます。
偶発性とキャリア形成の関係を探究した、「プランド・ハップンスタンス(Planned Happenstance)」という理論があります。スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授が提唱した、日本語でいうと「計画された偶発性理論」です。
クランボルツ教授は、多くのケーススタディから、変化の激しい現代において、キャリアの多くは偶然の出来事によって形成されることを指摘します。ですからこそ、偶然の出来事を利用して、キャリア形成に役立てることができるのです。さらにはもっと前のめりに、思いがけない出来事を自分で引き寄せるために働きかけて、キャリア形成のチャンスを自分で作り出そう、と呼びかけています。
教授は、偶然をチャンスに変える際に大切なこととして、次の5つを上げます。
1.好奇心 2.柔軟性 3.持続性 4.楽観性 5.リスクを取る
突然目の前にチャンスが現れたら、この5つの指針に沿って行動するのが良い、という主旨です。まず好奇心を高めて、杓子定規に考えず(柔軟性)、積み重ねることができるような行動をして(持続性)、不安は意識せず(楽観性)、ここぞというときはリスクも果敢に取る。
いま思うと、短大の教員になるチャンスが突然現れたとき、私の決断にはこの5つの要素が深く関わっていました。まずは何より、やってみたい!という「好奇心」。そして学生たちと過ごし、彼らを支援していくことには、「柔軟性」や「持続性」が重要です。5年の任期に対しては、「楽観」的に考えて「リスクを取る」。
そうして私はキャリアカウンセラーから短大の教員になったのでした。
「天からの封書」に気づく日が来る
最後に皆さんに、森信三先生(哲学者・教育者1896-1992)の言葉を贈ります。
「私たちはみな、『天からの封書』をいただいて、この世に生まれてくる。 そこには、それぞれ自分がこの世に派遣させられた使命が書かれている。 少なくとも40歳までに、天から授けられた封書を自ら開封し、しっかり読み取らなくてはならない。与えられた使命を読み取るか否かで、その後の人生の生き方に雲泥の差が生ずることは、いうまでもない」
森信三先生には、短大の教員になったときに読んだ本「修身教授録」で出会いました。とても共感することが多くて、その後ほかにたくさんある著作も読み進めました。
「自分がこの世に派遣させられた使命」とは何でしょう。難しいですね。多くの人にとってそれは、スキルとキャリアを磨きながら仕事を通して担うものではないでしょうか。自分の力や言葉で考え続けることでしか、それはわからないと思います。
神戸に暮らして若い人たちにビジネス実務などを教えているいまの私の仕事は、私の資質や志向、そしてそれまでのキャリアがすべてうまく統合されているんだと思います。その意味でいまの私は、「天からの封書」に気づいて、これを開けることができたのかな、と思っています。
先生は最後にこの一節を置いています。
「思えばなんと天の封書を読まずに人生を終わる人の多きことよ」。
自分が何のために生まれて、何のために仕事をして、生きているのか—。そのことを深く考えもせず、知ろうともせず、封書が来ていることに気づかずに一生を終える人の方が、実は多い。先生はそう言うのです。
どんな人にも人生は一度きりです。だから皆さん、いまがチャンスだというときがいつか来たら、どうぞチャレンジしてください。チャレンジする人、しない人がいます。でもチャレンジしたことの後悔よりも、チャレンジしなかったことの後悔の方が、きっとずっと大きいはずです。
どうぞ皆さん、悔いのない人生をおくってください。
<土方直子さんへの質問>担当教員より
Q 秘書になった戸惑いや失望が20年後に回収されたというお話が印象的でした。あえてお聞きしたいのは、失敗や後悔についてです。思い通りにならなかったことを、どのように受け入れたり、乗り越えて来ましたか?
A 仕事の面では、小さな失敗はたくさんありますが、実は後悔は、大小含めてほとんどないのです。でも、子育てではあります。短大で教え始めたとき、私は必死でした。家でも毎日夜遅くまで、授業の準備が欠かせません。でもそのことで、中学生になったばかりで人生でいちばん多感な娘とちゃんと話す時間が持てなくなったのです。そのために娘がウソをついて学校を休みそうになったことがあり、とてもショックを受けました。そんなことをする娘では絶対になかったのですが、そのとき初めて気づきました。仕事のチャンスはいくつもあるけれど、子育ては一度きりなんだ、と。ここにいる女性の皆さんにとくに言いたいです。将来子どもと仕事の二者択一で悩んだら、迷わず子ども選ぶべきです。娘との時間を作るために、私は家に仕事を持ち帰ることをきっぱり辞めました。
Q ここにいる学生諸君は、これから学科やゼミを選ぶタイミングの人も多く、3年生は就活が始まります。そんな後輩たちに、選択をめぐるアドバイスをいただけますか?
A 先ほど述べたように私がいまの皆さんの立場であったころ、自分が進みたい道や挑戦してみたいことなどが、はっきり見えていたわけでは全くありません。そんな私が言えることは、「何か好きなことを極めていこう」、ということですね。自分が楽しいこと。それはきっと自分の本質に深く関わっていることです。
就職したら、まず目の前のひとつひとつのことにしっかり取り組みましょう。なにごとも習熟するのには3〜5年くらいはかかると思います。転職するとしても、その後ですね。皆さんにとって百点満点の会社なんてありません。たとえどんな優秀な人間だって、不完全なものです。そういう人間が集まっているのが会社なんですから。目の前のことに一生懸命取り組んで、そこから着実に何かを学んでいくこと。転職することになっても、単に転々とするだけの人にはなってほしくないですね。
<土方直子さんへの質問>学生より
Q リスクを取って進路の選択をするとき、不安とどのように向き合いましたか?それをどのように乗り越えたのでしょうか?
A 決めるまでは、理屈と気持ちの両面でとことん悩んで、考え抜く。そしていったん決断したら、もう後ろは振り返らない—。言うは易しですが、これに尽きると思います。どうせ後悔なんて、どんな人にだっていくらでもあるものです。決断して一歩踏み出したなら、進むしかありません。あとは、他人と比べないこと。あなたの人生を作るのはあなたなのですから。
Q 「天からの封書」の話にとても惹かれました。どうすればその封書に気づくことができるでしょうか?早く見たくて仕方がありませんが、いつ気づくか、どうすれば分かるでしょうか?
A 封書が届いていたとしても、人生経験が少ない20代のあなたでは、たぶん開けられないと思います。そして残念ながら、封書が早く見つからないかな、と考えているうちは、見つからないと思います(笑)。いろんなチャレンジや努力を重ねて、仕事や家族や人生についてたくさん考え続けた30代や40代になって、あるときふと、そうかこれが「天からの封書」なんだ!と気づくのではないでしょうか。皆さんは今日、運命の巡り合わせで私の講義を聞き、この封書のことを知りました。いまこの時間がなければ、一生「天からの封書」のことを知らずに生きる人が大部分だと思います。そういう、ある意味でとても不思議な偶然がベースにあるわけです。まずは一旦、封書のことを忘れてください。そして、目の前の出来事に一生懸命取り組んでください。「その時」がきたら、「天からの封書」のことがきっとよみがえってくると思います。
皆さんがいつの日か、自分だけに宛てられた「天からの封書」と出会い、開封することを心から願っています。