2022.01.19
令和3年度第12回講義:藪下 裕己さん(S57卒)「電気事業の今 〜カーボンニュートラルの実現に向けて〜」
講義概要(1月19日)
○講師:藪下 裕己氏(昭和57年商学部経営法学科卒/北海道電力ネットワーク株式会社 取締役社長)
○題目:「電気事業の今 〜カーボンニュートラルの実現に向けて〜」
○内容:
1990年代半ばから始まった日本の電気事業制度改革は、2020年には「発送電分離」に至り、この年の春に北海道電力は送配電部門を分社化して、私が社長を務める北海道電力ネットワークが発足した。日本の電気事業の黎明から発送電分離までの歩みをたどりながら、いま日本が国をあげて取り組む「2050カーボンニュートラル」について、北海道に根ざした企業の立場で説明したい。
カーボンニュートラル北海道へのロードマップ
藪下 裕己氏(昭和57年商学部経営法学科卒/北海道電力ネットワーク株式会社 取締役社長)
北海道電力の経理部門で大半を過ごす
私は1982(昭和57)年の卒業で、小樽商大での生活は、今では珍しいでしょうが、4年間、朝晩の食事が出る下宿生活を富岡でおくりました。部活は剣道部に所属していました。実は私の娘も商大で学び、彼女の夫も商大OBです。結婚式の時はさながら緑丘会の集まりのようでした(笑)。
卒業後は北海道の中で働きたいと思っていたので、その選択肢の中からやりがいのありそうな企業として、北海道電力を選びました。
今日は、いま日本の電気事業がどこをめざしてどうなっているのか、というお話しを、その前史からひもといて話します。ポイントは、皆さん大枠はご存知だと思いますが、「カーボンニュートラル」です。
テーマに入る前に私の経歴などについて簡単にお話しします。最初の赴任地は稚内でした。岩見沢で生まれ育った道産子とはいえ、当時の私は道北や道東はほとんど行ったことがなく、稚内もまったく未知の世界でした。不安もありましたが、やはり「住めば都」で、先輩にも恵まれて、社会人生活の良いスタートを切ることができました。
といっても仕事は簡単なものではなく、電気料金をお客さまからいただく仕事を担当しました。当時はまだ口座振替が普及していませんから、各ご家庭に集金員さんが集金に行って、事情があってどうしても払えないという家には北電の社員が交渉にうかがうことになります。難しい対応を迫られることもあり、お客さまから料金をいただくことの意味や難しさを痛感しました。稚内でのこの2年間の経験が今でも私のベースとなっていると思っています。
その後、旭川、札幌、釧路、帯広のほか、平成の初め(1989年)から2年半は東京での勤務も経験しましたが、この間のほとんどが経理部門での仕事でした。
経理には大きく3つの分野があります。必要な資金を調達する「財務部門」。予算を編成する「予算部門」。そして事業成績をまとめる「決算部門」。私は主に「予算」と「決算」の部署を歩んできました。
北電は2020年の春に分社化されましたが(あとで詳しく触れます)、それ以前は1社としての年間売上がだいたい7000億円前後で、予算の仕事は、これに匹敵するような人件費や燃料費、修繕費、資本費などの費用予算を編成します。決算では、当時は中間と年度末の2回、会社の成績表にあたる財務諸表を作成しますが、ちょうど日本の企業にも国際会計基準(IFRS)の導入が取りざたされている時期に、連結決算を行うプロジェクトに参画しました。電力会社の場合は子会社に比べて親会社の規模がとても大きいので連結決算を導入するには至らなかったのですが、会計基準の国際化の流れの中で、子会社との連結財務諸表の作成が求められるようになってきたわけです。はじめて連結決算をまとめることになりましたが、さまざまな基準づくりに携わることで、のちのち活きてくる貴重な経験を積むことができました。
経理の仕事のやりがい、面白さは、お金の流れを詳細に見ることで、大きな会社全体の動きが正確に見えてくることです。時には経営にもの申すこともあります。経理は、大店(おおだな)の番頭のような存在なのです。
こんなふうに経理部門の道を順調に歩んできたような話をしていますが、実は私の商大時代の会計学や簿記論や財務諸表論の成績はとても他人に言えるものではありませんでした(笑)。
入社5年目で、「君は商大卒だから経理だ」、とその道を歩み始めることになりましたが、これはたいへんだと、自分なりに必死に学び直しました。通信教育を受けたり、わからないことは先輩にすべて聞きました。そして、後悔しきりでした。学生時代にもっとしっかり勉強していれば…、と。ほんとうに実感を込めて皆さんに言いますが、勉強はしっかりしましょう!(笑)。
日本の電気事業のあゆみ
日本で多くの人々が初めて電灯を見たのは、1882(明治15)年。その5年後に日本で最初の電力会社となる「東京電燈(現在の東京電力)」が日本橋茅場町に、出力25kw、白熱灯で1600個ほどしか賄えない規模の小さな発電所を作ります。
北海道に最初に電灯が灯ったのは1890(明治23)年。札幌の北海道製麻という大きな繊維会社が、夜間も生産を続けるために工場の中に導入しました。これは自家消費用の電気でしたが、札幌に一般向けの民間電気事業者が生まれたのはその翌年。北海道電力の源流となる北海道電燈(株)が、大通3丁目のあたりに発電所を設置して営業を開始。30件くらいの顧客に対して、83灯の電灯を取り付けたのが始まりです。
小樽では、1895(明治28)年。当時北海道の商都として急速に発展していましたから、東京、中京、京阪神の三大都市圏以外のまちとしては、早い時期に電気事業が始まったことになります。
時代を経て、電気は機械や電車、エレベーターなどを動かすようになり、各地に発電所が作られていきました。この時代、東日本はドイツ製の50Hzの電気を作る発電機を、西日本はアメリカ製の60Hzの発電機を輸入していたので、それが今でも、日本に2種類の周波数が共存している経緯となりました。
工場の電化が進み、家庭には電灯が普及したことから、1919(大正8)年には道内でも50社を超える電気事業者が誕生しています。
しかしその先、日本は長く苦しい戦争の時代に入ります。1931(昭和6)年、戦時体制下で電気事業は国家管理におかれます。そして国策会社として、発電設備をもつ日本発送電と、9つの配電会社(北海道は北海道配電)が設立されて、全国で400社以上あった電気事業者は、二元管理体制となりました。配電会社は、発電所で作られた電気を各家庭や工場などに届けていました。
1945年に戦争がようやく終わって、その6年後。民営会社が独立採算で「発送電一貫体制」による電気事業を営むことになります。北海道では、「日本発送電北海道支店」と「北海道配電」 の両社から資産を引き継いで、北海道電力(株)が生まれました。1951(昭和26)年5月のことです。
戦後の復興のために、電力の需要が一気に伸びました。そのために北海道では水力発電所の建設が急ピッチで進められました。1950年代半ばからは、産業用に加えて家庭で使う電気が急増します。テレビや冷蔵庫、洗濯機など、次々に新しい電化製品が家庭で使われるようになったのです。社会がますます電気を必要としています。そこで、降雨に左右される水力発電よりもさらに安定的に発電できる火力発電が主体となっていきました。いわゆる「火主水従時代」です。道内の主要都市を結ぶ重要幹線の建設や設備の建て替えなど、送配電設備も拡充・大容量化が進められました。会社設立時の道内送配電設備は2万3千キロくらいで、いまではそれが7万7千kmほど。3倍以上になっています。地球一周の距離が約4万キロですから、北海道だけでこれほどの設備があることに、皆さん驚くかもしれません。
電源多様化の時代へ
1960年代は日本の経済が急成長を遂げた時代。高度成長期です。しかし70年代に入ると、その勢いに冷や水を浴びせる事態が起こります。中東の産油国が原油価格を大幅に引き上げたことが引き金になってインフレが起こり、これに対処するための金融引き締め策が厳しい不況を招きました。1973(昭和48)年の、第一次オイルショックです。
政府は電気使用制限令を発動して、ネオンや広告灯、ショーウインドーの照明などが一斉に消えました。石油に頼りすぎていた日本は、脱石油と原子力、石炭火力、水力、地熱など、電源の多様化を進めることになります。一方で、エアコンやコンピューターなど電化製品が多様化、大型化していましたから、電力需要の急増という流れは続きます。
1982(昭和57)年に運転を開始した道南の森地熱発電所は、地熱という国産のクリーンエネルギーを活かしていまも稼動しています。また、道内の産炭地振興の政策の枠組みの中で、コストの高い国内炭を使わざるをえないという事情がありましたが、1985年に運転を開始した苫東厚真発電所2号機は、コストの安い海外炭を燃料として作られた火力発電所です。さらに原子力についても、泊発電所の1号機が1989(平成元)年に、91年には2号機が稼動を始めました。その後、2009年には3号機も運転を開始しましたが、2011年の東日本大震災に伴う福島原子力発電所の事故の影響により、泊発電所は現在も稼働を停止している状態が続いています。
平成の時代になり、家庭用を中心に電力消費量は増え続けます。1995(平成7)年に発生した阪神・淡路大震災による停電はライフラインを寸断して、あらためて電気の必要性を認識することになりました。このころ温暖化(気候変動)の問題も国連で本格的に議論がはじまり、再生可能エネルギーの取り組みなども本格化します。電源構成は、水力、石炭、石油、原子力がそれぞれ4分の1から5分の1程度と、より柔軟に対応できるものとなっていきました。
皆さんの記憶にも新しいと思います。2018(平成30)年9月6日に起こった北海道胆振東部地震をきっかけとして、北海道全域停電が発生いたしました。私自身大きな衝撃を受けましたが、道内の皆さまには大変なご心配とご不便をおかけしました。
このときは、地震の影響により苫東厚真火力発電所が稼働を停止したことに加えて、道東方面へとつながる高電圧の送電線4回線が使えなくなるなど多重事故が発生したことで大規模停電が起こりました。復旧させるためには、まず送電線に流す電力を水力発電によって少しずつ確保しながら、需要と供給のバランスを正確に保ちつつ電力というエネルギーを行き渡らせるという、とても繊細で緊張を伴うオペレーションが求められました。
本州と北海道のあいだには、電気を融通し合うことができる北本連系と呼ばれる電力供給線がありますが、あの当時は60万kwの送電能力でした。それを翌年3月には90万kwにまでアップさせました。また同年2月には、北電で初となるLNG(液化天然ガス)を燃料とする石狩湾新港発電所1号機が運転を開始しました。天候などによって太陽光や風力などの再生可能エネルギー由来の電力が計画通りに発電ができない場合には、火力発電による出力を増加させることで、需給バランスを調整していきます。
発送電分離。電気事業の新たな時代へ
日本の電気事業では1990年代半ばからいくつもの制度改革が行われてきましたが、そのキーポイントは、電力自由化です。いかに良質な電気を安定的に供給しつつ、低廉化を実現するか。これが電力自由化の目的です。
制度改革を通じて、これまでは各地域の電力会社が国の規制の下で一貫体制で行っていた発電・送配電・小売といった事業を、規制緩和により、発電と小売の事業が自由化されました。そして、直近では当社が北電から独立して生まれる経緯となった「発送電分離」が行われ、発電会社や小売会社が送配電網を公平に利用できるよう送配電部門を別会社化することとなります。
電力自由化の流れをざっとなぞっておきます。
1995(平成7)年には、まず発電への新規参入が始まりました。電力を作って供給する事業に、それまでの電力会社以外の事業者の参入が可能になったのです。1999年には、自由化の範囲が小売りへと拡大されました。ただこの時点では、大規模工場やオフィスビルなど、規模が大きな需要先に限られていました。
それが2003年には、中小規模の工場や中小のオフィスビルなどへも電気が売れるようになります。電力調達の多様化を図るため、卸電力取引所も設立されました。ここでは、会員登録した事業者が、入札を通して電気の売買が可能になります。
そして2015(平成27)年からは、東日本大震災による電力危機を受けた、第5次電気事業制度改革が始まりました。ここでは、「需要家への多様な選択の提供」、「再生可能エネルギー等の分散型電源の最大活用」、「送配電ネットワークの強化・広域化や送電部門の中立性の確保」を軸に改革が進められました。
第5次の改革は、大きく三段階に分けて行われました。第一段階として、地域を越えた電気のやりとりを拡大する「電力広域的運営推進機関」が創設されました。関東で電力が足りなくなりそうな状況があれば、北海道から供給しよう、といったことです。その司令塔になるのがこの推進機関です。
第二段階として、「小売・発電の全面自由化」が2016年から始まりました。一般家庭や全ての企業向けの小売販売ビジネスへの新規参入が解禁されて、電気の利用者なら誰でも自由に電力会社や料金メニューを選択できるようになりました。ガス会社や通信会社なども参入して、いろいろな商品と組み合わせたポイント制度なども展開されるようになったことは、皆さんもご存知でしょう。現在、全国で700社を超える、いわゆる「新電力」と呼ばれる方々が、この小売電気事業に参入しています。
そして2020年からは、繰り返しますが、「発送電分離」です。
発電と小売が全面自由化されても、従来のように電力会社が送電線を所有しているままであれば、新規に参入する発電・小売会社が送配電網を公平に利用できなくなるおそれがあります。ですから送電線の公平な利用を実現させるために行われたのが、この発送電分離なのです。2020年(令和2)年4月、北海道電力は送配電部門を分社化して、私がいま社長を務める「北海道電力ネットワーク(株)」 が発足しました。
当社は、北電から送配電に関わる資産を譲り受けて事業をスタートさせました。北電グループの会社ではありますが、送電線の公平な利用のために、会計や従業員などは明確に独立しています。オフィスも北電本社ビルの1階と2階にありますが、お客さまである新電力各社の情報が当社から北電に漏れないように、動線も情報管理も十分な配慮がされています。
2050年カーボンニュートラルの実現に向けて
2020年10月、日本は「2050年カーボンニュートラル」の実現に向けて大きく舵を切りました。異常気象や大災害、漁業の魚種交代など、温暖化がすすむ世界が抱えるリスクは皆さんもご存知だと思います。もはや猶予はできない段階です。そこで「2050年カーボンニュートラル」では、温暖化の原因となる温室効果ガス(主にCO2)の排出量を、2050年までに、森林などが吸収する量を差し引いて、実質ゼロにすることをめざします。カーボンニュートラル実現に向けて、2021年秋には「第6次エネルギー基本計画」が閣議決定されました。
この計画では、再生可能エネルギーや原子力などの、現在実用されている脱炭素電源を活用しながら、火力発電などのイノベーションを積極的に追求する、とうたわれています。
温室効果ガス排出の8割以上を占めるのがエネルギーの分野であり、化石燃料を燃やして発電を行っている電力業界の役割にはとても大きなものがある、というのが私たちの認識です。そしてその実現は容易なものではなく、産官学、あらゆる分野の知恵を集めて、国民ひとりひとりの意識改革までを含めた、総力をあげた取り組みが必要です。
当然、いまこの分野はイノベーションの最前線でもあります。例えば二酸化炭素を回収して貯めておき、それを活用するCCUS(Carbon dioxide Capture, Utilization and Storage)という、カーボンリサイクルの取り組みがあります。CO2を出さない水素・アンモニア発電の研究も進んでいます。
また、これまで電化が進んでいない分野で、再生可能エネルギーなど脱炭素化された電力による電化を進めることも、とても有効です。例えば農業分野では、現在は石油系燃料を使っている温度管理のシステムや機械がさまざまにありますが、これが電化に進めば、大きな脱炭素化が実現するでしょう。高効率のヒートポンプなどの進化や改良が進んでいます。まだまだ課題がありますが、いずれにしても鍵を握るのは、再生可能エネルギーです。
カーボンニュートラルの実現に向けて、送配電会社であるほくでんネットワークが目指す姿と取り組みを説明します。
送配電会社の役割は、火力発電などに加えてさまざまな再生可能エネルギーの電源を連系していく「供給サイド」と、電化を促進する「需要サイド」、この両面の取り組みを支える基盤を担っていることにあります。私たちには分社化前の、電力事業者としての経験やノウハウがありますから、非化石燃料の再生可能エネルギーによる需要の掘り起こしについてもマーケットを俯瞰することができます。まだ技術的課題はありますが、CO2を排出しない水素エネルギーについても同様です。
また、北海道の地理的特性に深く根ざすことで、国内のほかの地域に比べてより多くの貢献ができると考えています。
まず「供給サイド」。
広い北海道には、洋上風力、陸上風力発電をはじめ、太陽光発電の適地が豊富にあります。また、林業や畜産業におけるバイオマス発電の可能性は、国内有数でしょう。地熱資源も豊富です。現在の導入状況を大きく捉えると、風力は日本海沿岸、バイオマスや太陽光は十勝をはじめ道東方面に拡がっています。
「需要サイド」からはどうでしょうか。
北海道には、積雪寒冷の気候に欠かせない暖房や給湯のための石油系エネルギーや、広大な地域に点在する市街を結ぶための物流への高い需要があります。これらは、カーボンニュートラルに寄与する電気や水素エネルギーにとって、膨大な可能性を秘めたマーケットにほかなりません。
北海道のエネルギー総体を見すえて
供給と需要の両面から捉えて、再生可能エネルギー資源の宝庫である北海道は、これからの大きな可能性を持っています。すでに水力、太陽光、風力、バイオマスなどによる発電は、積極的に系統へと取り込まれてきました。北海道における風力発電において、すでにある連系容量は53.1万kw。太陽光発電は199.1万kw(共に2021年3月末データ)で、これは北海道の平均電力(約350万kw・2020年度)の約7割にも相当する量です。
一方で、風力と太陽光による発電量(出力)は、季節や時間、気象条件によって大きく変動することから、電力の品質を維持するためにさまざまな取り組みを行う必要があります。そこにも大きな技術のフロンティアが広がっているわけですが、電気は生産してすぐに消費しなければならないエネルギーです(「生産即消費」)。ですから需要と供給のバランスを保ち続けることが何より重要なのです。ここがポイントです。
自然条件に左右される中で需要と供給のバランスを取りながら、電圧や周波数を一定に保って電気を送り続けるためには、火力発電などの発電機の出力を上げ下げして調整する必要があります。気象条件や需要の予測の精度を高める研究も欠かせません。
また現在、大規模な蓄電システムの実証実験も重ねています。余剰電気を大量に貯えておき、必要に応じてこれを系統に流すことができれば、需給バランスの有効な調整弁になります。
自然条件に左右される中で需要と供給のバランスを取りながら、電圧や周波数を一定に保って電気を送り続けるためには、火力発電などの発電機の出力を上げ下げして調整する必要があります。気象条件や需要の予測の精度を高める研究も欠かせません。
また現在、大規模な蓄電システムの実証実験も重ねています。余剰電気を大量に貯えておき、必要に応じてこれを系統に流すことができれば、需給バランスの有効な調整弁になります。
さらには、本州と北海道が状況に応じて電気を融通し合う、当社の「北本連系設備」の増強がいま計画されています。2028年春にこれが運転を始めると、北海道と本州を結ぶ連系設備の総容量は120万kwとなります。北海道の電気が足りないときには、本州の電気を受け入れるので、北海道の安定供給の体制がより強化されると同時に、北海道で発電した再生可能エネルギーによる電力もまた本州へ送電しやすくなるのです。
また、その先には北海道が持つ膨大の再生可能エネルギーのポテンシャルをさらに活かそうと、本州と北海道を超長距離の大容量海底電力ケーブルで結ぶ計画も策定されつつあります。このように道内の再生可能エネルギーの活用に向けた取り組みが進んでいますが、エネルギー資源をそのまま本州に送るだけではなく、この電気を水素に転換して輸送すれば、付加価値の高いビジネスとなるでしょう。
これらのことはみな、脱炭素を進めるための、再生可能エネルギーの主力電源化を軸とした、カーボンニュートラル達成への取り組みです。
電気エネルギーを合理的に活用していくには、需給バランスが重要だという話をしました。つまり再生可能エネルギーの供給を増やして低炭素・脱炭素社会をめざしていくためには、一方でその電気の需要を増やしていくことが欠かせないのです。
住環境における電化の推進も大きなテーマです。ITと太陽光発電などによってクリーンな省エネ生活を実現する「スマートハウス」という言葉を聞いたことがあると思います。「石油依存からスマート電化へ」、という流れです。
運輸部門、自家用車や社用車でのEV(電気自動車)の普及促進も喫緊の課題です。蓄電池としても活用できるEV(電気自動車)は、企業のBCP(事業継続計画)の一環としても有効でしょう。
私たちは電気のネットワーク(送配電)会社ですから、電気を作るのがどの会社であっても、その電気を社会に安定して万全に行き渡らせるのが仕事です。まずは、脱化石燃料のために社会のさらなる電化を進めることも重要だと考えています。
カーボンニュートラルへの道は容易ではありません。北海道の基盤インフラである送配電を担う当社は、再生可能エネルギーの接続拡大や、需給運用のさらなる高度化をめざして、あらゆる手段とリソースを活用しながら、「ゼロカーボン北海道」の実現への取り組みを広げています。
暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め
最後に私から皆さんに、もう少し大きな視座からメッセージを贈りたいと思います。
期待と希望に胸を膨らませて小樽商科大学に入学した皆さんだと思います。しかしいうまでもなく社会はコロナ禍に覆われてしまいました。しかしそんな中でも、私は学生時代にいちばん大切なことは、信頼できる友人や仲間を作ることだと思います。悩みや喜びを共有しながら、互いに切磋琢磨できる仲間がいれば、この先の人生にどれほどの力となることでしょうか。そういう付き合いの中から、自分は多くの人に支えられているんだ、ということに気づくと思います。
吉田松陰や西郷隆盛、勝海舟にも大きな影響を与えた、佐藤一斎という江戸後期の儒者がいます。その著書にこんな一節があります。
「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。ただ一燈を頼め」—。
先輩として、この言葉を皆さんに贈ります。