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エバーグリーンからのお知らせ

2014.11.26

平成26年度 第7回講義:「原 荘介のギターと唄人生〜湯の町エレジーから日本の子守唄まで〜」

講義概要

○講 師:小笠原 荘介 氏(昭和38年短大卒)
○現職等:ギタリスト
○題 目:「原 荘介のギターと唄人生〜湯の町エレジーから日本の子守唄まで〜」
○内 容:
私は10才からギターをはじめ、これまでずっとギターを弾いています。また48才から足かけ11年間ベルギーのブリュッセルに住み、ヨーロッパの主な日本人学校を訪問して演奏しました。
小学生時代から大学時代、そしてこれまでの人生の思い出の曲と出来事、そして40数年来の子守唄の研究など、いろいろな話をしながら私自身の歴史をたどります。

  • 講師紹介

秋田県大館市出身。昭和38年卒業後、東海汽船に就職、4年間働いたのち、昭和42年からプロギタリストとして活動。四十代の終わりからベルギーに11年間滞在。ヨーロッパ各地の日本人学校等で演奏活動を行う。CD、DVD、著作等多数。日本各地および世界の子守唄研究をはじめて既に40年になる。

 

挨拶の代わりに、ギターの演奏から…

 

・演奏1曲目/「百万本のバラ」

 (ラトビアの民謡を原曲としたロシアの曲。日本では加藤登紀子さんのカバー曲が有名)

・演奏2曲目/ オリジナル曲「どれほど時を超えたなら」

・演奏3曲目/「オルフェのサンバ」(映画「黒いオルフェ」から)

まずは3曲聴いてもらいました。1曲目は「百万本のバラ」というロシアの歌で、僕のお弟子さんでもある加藤登紀子さんが紅白歌合戦で歌った曲です。2曲目は日本コロムビアから出している私のオリジナル「どれほど時を超えたなら」という曲で、この2曲はどんな場所でも必ず弾いています。3曲目はサンバですが、ブラジルのサンパウロが舞台の「黒いオルフェ」という映画の挿入歌で、「オルフェのサンバ」という曲をやりました。ポルトガル語の歌です。

 

ギターとの出会い、そして思い出の曲の数々

 

今日は私のギター人生について話しますが、出来るだけたくさん曲を聴いてもらいたいと思っています。私は10歳の時にギターと出会いました。今74歳なので、64年前に始めたわけですが、今でもギターの音色が好きで好きでたまりません。やはりどんな仕事でも、好きであること、好きになるということが一番大事だと思います。では、10歳の時に覚えた曲を歌います。幼稚園でも小学校でも僕はこの曲を演奏することにしていますが,必ず「音楽は歳をとりません。人間が歳をとるだけです。だから音楽は永久に残っていきます」という話をします。幼稚園の子でも、そう言うと静かに聴いてくれます。

・演奏4曲目/「湯の町エレジー」(1948年リリース 歌手:近江俊郎さん)

次は、名曲「禁じられた遊び」です。中学校1年の時に映画「禁じられた遊び」を見てこの曲に出会い、一生ギターを続けると決心しました。スペインのカタロニア地方の民謡を元にして作られた曲で映画音楽として使われましたが、ギターを弾く人間は必ず演奏する曲です。

・演奏5曲目/「禁じられた遊び」(映画「禁じられた遊び」劇中歌)

この映画は、悲しく悲惨な内容なのですが、ヨーロッパの人たちは子ども時代に見ている人も多いようです。いかに戦争がよくないものか感じられると思いますので、機会があればこの映画も見てほしいし、その際に今弾いた曲を思い出してくれたら嬉しいです。次に、私の高校時代の思い出の曲、「第三の男」を弾きます。これもウィーンが舞台になった「第三の男」という映画の曲です。ヨーロッパを巡ってギター演奏を行っていましたが、ウィーンの日本人学校でこの曲を弾きました。

・演奏6曲目/「第三の男」(映画「第三の男」テーマ曲)

この曲は、近年ビールのCMで使われたので、知っている人も多いかもしれませんね。いい映画ですので、これもぜひ見てみてください。

 

ギターに救われた、小樽での大学時代

 

秋田の高校を卒業後、小樽へ来ました。僕は8歳から柔道と空手をやっていて、将来は武闘家になろうと思っていました。高校3年の時に練習で無理をして身体を痛めていたのですが、ある日の大学からの帰り道に、デコボコ道だった地獄坂で転んで悪化させてしまい、小樽の病院で手術を受けました。しかしその怪我の影響で空手や柔道ができないことになり、絶望して死にたいとまで考えた僕は、吹雪のなか病院を抜け出してなぜか酒場に入ったんです。病院から這うようにそこまでたどり着いたのですが、ハッと目を上げると、店の奥に古いけど弦もちゃんと6本張ってあるギターがぶら下がっていました。そのギターを泣きながら弾いているうちに、僕は死ぬことを思い留まったんです。飯より大好きだった柔道と空手ができなくなって絶望しましたが、2番目に好きなギターに助けられました。

プロになってから7年くらい全国各地を周り、ラジオ番組で話す機会がありましたが、いつも「飯より好きなものは1つじゃダメだ。2つ以上持とうよ」と中学生や高校生たちに向かって話しました。小樽の街で自分が助けられた経験があったから、そういう話ができたんです。僕は今、松葉杖をついて生活していますが、たとえば歩ける人が歩けなくなった時、見える人が見えなくなった時に、何か好きなものを一つでも多く持っていた方が苦しみから抜け出すことができるでしょう。みなさんも、一生懸命に打ち込める好きなものを、これから1つでも増やしてください。

小樽で学生をしていた頃はクラシックギターを教えていました。また、当時小樽には「キャバレー現代」という立派なクラブがありまして、ここでギターを弾いて稼いでいました。まさに「芸は身を助く」です。そこで、メキシコなどのラテンの曲をよく歌っていましたので、その中から一曲歌います。

・演奏7曲目/「ククルクク パローマ」(メキシコの曲、鳩の鳴き声という意味)

 

就職とともに、労働組合の世界へ

 

僕が大学にいた時代、「ブラジルのアマゾン川流域で4年間働くと実業家の道が開ける」という国の事業があって、そのための採用試験を受けました。試験には受かったものの、高校3年の時に骨髄炎の手術をしていたことがわかると落とされてしまいました。すでに、就職活動の時期は終わっていましたが、父親の大親友が東海汽船の社長をしており、アルバイトをしていたこともあったので、そこに就職することになったんです。

東海汽船に就職すると、自動的に労働組合に入りました。ギターを弾いて目立っていた僕は、選挙で役員に選ばれ、労働組合のリーダーに抜擢されます。その後、全国組織の全日本海員連合の中央執行委員にも選ばれ、そこで日本郵船など大きな企業とともに組合運動をしていたのですが、東海汽船のような小さな会社と大企業では意見が合わなくなり、全日本海員連合の中に、新たに「内航オーナー専門委員会」というのができて、僕はその初代委員長に選ばれました。

そして、昭和40年頃の不況の時代だったこともあり、経営不振の責任を取れと言って、父親の無二の親友だった社長を追い出してしまう結果になったんです。就職の世話になった社長であり、自分の本心としてはとても苦しかったのですが、組合のリーダーとしてそうせざるを得なかった。そんな僕の苦しさを知らない周りの人間は、社長を追い出した自分を怖がり、離れていきました。つくづく自分はサラリーマンに向いていないと感じ、辞表を出して4年間で東海汽船を辞めることにしました。

 

「原 荘介」としての活動

 

会社を辞めると、有名な音楽家の方に「これから日本の音楽家の組合を作りたいから手伝ってくれないか」と声をかけられました。最初は組合なんて冗談じゃないと思いましたが、1年間口説かれ、最後には妻に「音楽家が歳をとっても、病気になっても助けてもらえるような組織を作って」と促され、20代の終わり頃、組合をつくる運動に参加することになりました。もともと組合のことに精通していたので、ここでもまたリーダーに選ばれていきました。

当時は、どんなにいい仕事をしている音楽家も、ボランティアで組合活動を手伝うだけで仕事を干されてしまうという時代でした。たまたまその時に本名の小笠原ではなく、「小笠」を取って「原 荘介」という芸名を使っていたので、誰にも組合のリーダーだとは気づかれず仕事を続けられ、「全音(全音楽譜出版)」というところから本を出して収入を得ることで生活することができたんです。ちなみに全音は音楽関連では日本で一番大きな出版社で、そこで39冊の本を出版しました。

 

 

音楽家にとって一番つらいのは、サラリーマンとは違って病気などで活動ができなくなっても何の保障もないことです。そんな思いがあったので、組合を作ろうと気持ちが向いたし、一生懸命頑張れたのだと思います。今は労働組合が少なくなってきたので、大きな企業に行っても自分を守ってくれる組合組織がないところもあるでしょう。これからは大変な時代です。小樽高商の大先輩である、三菱地所の社長だった中田乙一さん、東急建設社長の八木勇平さん、合同酒精社長の野口正二郎さんなどが、ギターを弾きながら音楽家の組合を作ろうとしている僕の応援団を作ってくれて、ものすごくお世話になりました。その方たちの応援があったので、いろいろなことを乗り越えることができたんです。どうか皆さんも、出会った人を大事にしてください。人を裏切らない、人をうらやまない、そうすればいい人生を歩むことができると思います。

では、最後の歌「操り人形」という曲を歌います。僕が42歳の時に日本コロムビアからレコードデビューした時の曲です。6つ年上の女房が詩を書きましたが、もともと3番までしかなかったのを、レコーディングの時に僕が4番を付け加えて歌いました。

 

・演奏8曲目/オリジナル曲「操り人形」

 

<質問>担当教員より

 

Q 10歳からギターを始めたそうですが、そのきっかけを教えてください。

 

A 8つ年上の一番上の兄がおり、高校で応援団をしていた硬派な男だったんですが、なぜかマンドリンが好きでした。兄の友達が家に集まってはマンドリンやギターを弾いていまして、その中に、後にテレビにも出たギターの名手がおり、彼が僕に「湯の町エレジー」を教えてくれました。それで、すっかりギターの音色にほれ込んでしまったんです。さらに、そんな僕のために母親が質流れのギターを手に入れてくれたことで、ギター人生を歩むことになりました。

 

Q 11年間のヨーロッパ活動のきっかけは?

 

A 48歳になるときに、「自分の人生を歩みたい、ギターで世界に行きたい」と思い、組合活動などを全てやめて、1981年に4ヶ月かけてスペインに行く旅をしました。一人でギターを持って、横浜からナホトカに船で渡り、シベリア鉄道に乗ってヨーロッパへ向かうという一度も飛行機に乗らない旅でした。そして、ベルギーで小学生から中学生まで300人程いる日本人学校に行き、演奏後に小学2年生からもらった感想文を読んで心から感動し、こんな素晴らしい子どもたちがいるならベルギーで活動したいと思うようになりました。一度スペインには行きましたがすぐにベルギーに戻って、活動の拠点を作り、11年間も滞在することになりました。

 

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