2014.12.03
平成26年度第8回講義:「企業と大学に共通する改革の成功法則」
講義概要
・講 師: 中山 晴樹 氏(昭和46年卒)
・現職等:大阪成蹊大学マネジメント学部長(元松下電器産業(株)/スペイン松下電器/松下ロジスティックス)
・題 目:企業と大学に共通する改革の成功法則
・内 容:
会社生活36年、教員8年、計44年の私の人生は不思議な「縁」でつながっています。その縁は、今振り返れば節目節目で「緑丘人脈」に支えられてきました。陰に陽に、緑丘の諸先輩あるいは後輩の皆様のご指導やお引き合わせを受けて、私の仕事は成功に導かれ、また私の触れる世界は大きく広がってきました。大学卒業時点ではこの事は全くわかりませんでした。しかし職業人として終盤の今、小樽で学び、生活したことが、疑いなく今の自分につながっていることを確信しています。
私は松下電器(現Panasonic)で多くの業務を経験し、様々なことを教わり、学んできました。特に初めての海外赴任(スペイン)でゼロから工場を立ち上げ、様々な困難に直面し、それを解決してきた成功体験が、その後の私の人生に大きな良い影響を及ぼしています。それは一言で表現するならば、どんなに困難な状況でも「現場に入って実態を緻密に理解することができるならば、解決できない問題は無い」と言う私の実体験です。
私は会社で学んだことを若い学生の皆様に伝えたくて大学人になりました。特に私の所属する「私学文系」は応募者減という困難の中、国公立の大学以上に改革の嵐の中にあります。しかし「改革に必要な事は緻密な実態整理」という基本原理は同じです。以上の事を緑丘の皆様にお伝えするために、この講義を引き受けました。
- 講師紹介
昭和46年 小樽商科大学商学部卒業。卒業後、松下電器産業株式会社に入社し、ラジオ事業部に配属。昭和54年スペイン松下電器に音響部門経理部長として出向。8年間のスペイン赴任後、松下電器産業本社・経理部に配属され、経理システムの構築にあたる。平成12年松下物流株式会社へ経理部長として出向。平成14年に早期退職し、ヒューマングループへ転職、経理部長として勤める。平成19年から大阪成蹊大学にて教鞭をとり、現在は同大学マネジメント学部の学部長を務める。
経営理念の大切さ
私は、大学卒業後の昭和46年、松下電器産業(現在のパナソニック)に入社しました。その時代は新入社員研修が7ヶ月間あり、最初の1か月間、研修所で朝から晩まで経営理念について学びました。その時は聞き飽きるくらいでしたが、30年間働いてみて、やはり経営理念は大事だと身に染みて感じます。松下電器には、今も続く「松下幸之助哲学研究会」というものがあり、松下幸之助社主は「天地自然の法則」に従って経営をされているという話をしていました。理解するのは難しいかもしれませんが、それは「喜ばれて喜ぶ」ということです。別の言葉で言えば、「生かし生かされ」、「人のお役に立つ」ことによって、「自らも変化し成長する」というサイクルを繰り返して経営すれば、間違いなく成功するという考えです。事前課題で「道をひらく」という本を読んでおくように伝えました。これは、500万部を突破した本で、松下幸之助哲学研究所でも使われているテキストです。非常にわかりやすい言葉で幸之助社主の考え方が凝縮して書かれており、今なお売れている本です。悩んだり困ったりした時は非常に参考になりますので、この本はぜひ買い求めて、折に触れて読んでいただきたいです。
1冊の本との出会いから、松下電気へ
中学生の時から車が趣味だったこともあり、就職試験の際は日産自動車を受けました。また、親戚が日本生命で支社長をしていたので、自分にもなじんでいる気がして、日本生命を第一志望としていました。松下電器は、あまり乗り気ではなかったのですが先輩が寮にリクルートに来たので受けたんです。3社とも1次試験に通り、2次試験を受けるために東京の親戚の家に泊まらせてもらいました。その時、たまたま近所の古本屋で、石山四郎著「松下連邦経営」という本と出会いました。松下電器の2次試験前日のことです。これを読んで「松下電器はすばらしい会社だ」と感激し、翌日の試験を受けて首尾よく合格しました。その翌日が日本生命の2次試験で、お断りに行ったつもりがこちらも通ってしまいました。また、日産自動車は「筆記は悪かったが小論文が非常によかったから合格」となり、一挙に3社内定したわけです。迷いましたが、結局、本との出会いから松下電器を選びました。それは正しい選択だったと思います。
松下電器に入社して直面したのが、当時の先輩たちに言われた「大卒の地獄、高卒の天国」でした。松下電器の経理には、全国の商業高校のトップクラスが採用されており、そろばんの段位を持っているような優秀な高卒社員ばかりでした。私が大学4年の時にシャープが当時6万円で8桁電卓を売り出し、これからは電卓の時代だと買い求めた私は、そろばんを全くやっていませんでした。しかし、当時の松下の経理は全てそろばんで行われていたんです。配属早々、会社の業務命令でそろばん教室の小学2、3年生のクラスに2週間通わされるという屈辱を味わいました。配属されたのは、当時松下電器社内で御三家と呼ばれ花形の部門だったラジオ事業部で、優秀な社員が集まっていました。私は小樽商大の管理会計ゼミで勉強したことが評価されてここに配属になり、松下グループの「原価の神様」と呼ばれた宮井課長の下で、約8年間仕事をすることができたのは幸運だったと思います。
「地獄の4年、天国の4年」だったスペイン時代
入社から8年後の32歳の時に、突然「スペイン松下電器」に出向するようにと言われました。私はそれまで海外に出たこともなく、もちろんスペイン語など話せません。当時のスペインはまったく英語は通じなかったので、会社からスペイン人の先生を付けてもらい、スペイン語の100時間特訓を受けましたが、仕事が忙しくて結局60時間しか受けられず、非常に心細い思いでスペインに行きました。
スペインには1979年から87年まで8年間おりましたが、ここでは「地獄の4年、天国の4年」を経験しました。スペインは当時閉鎖市場であり、関税障壁が高く日本から輸出できない状況でした。掃除機のボディを日本から輸出すると、それだけで運送コストがかかり採算が合わないので、松下電器は全欧州の輸出基地としてスペインに掃除機事業部を作っていました。じつは、スペイン自体は石造りの家が多く、水を流してモップで掃除をするので掃除機は売れません。
今度は、スペインの国内向け商品となるラジカセの工場を作るため、初代のメンバーとして6人が選ばれ、その一人が私でした。スペインに赴任した当時、建設中の工場にはまだ壁すら無い状態で、やっとその工場ができた頃に関税障壁がなくなり、日本から安い輸出品が入ってくるので、今さらこの工場で作っても売れないという状況になってしまいました。
ところが、時代が変わり、1986年にスペインがECに加盟することが決まってからは、増産に次ぐ増産でどんどん工場を拡大し、掃除機ボディの成型工場やスピーカーBOXの工場、ビデオ工場などを新たに作り、従業員も増えて利益が出るようになりました。8年後、やっとスペインから日本に戻れることになった時には、以前の配属先だったラジオ事業部がなくなっており、本社へ行きたいと希望を出しました。
通信ネットワーク作りで、事業変革へ
松下電器の本社経理部では約12年間勤務し、ここでも普通の経理社員ができないような経験をさせてもらいました。
松下電器がワープロを発売したのは私が帰国した1987年の12月で、これからワープロを勉強しようという時に、「パソコン通信ネットワークを作りなさい」と命を受け、私を含め5人のメンバーが選ばれました。パソコン通信と言われてもまったく見当もつきませんでしたが、1年間死にもの狂いでやりまして、電話回線ですべて繋いで国内ネットワークを完成させました。日本の企業で最初にパソコン通信のネットワークを作ることに成功したわけです。その翌年には、海外のネットワークを作ることになり、非常に優秀な部下をつけてもらって、彼とたった二人で世界中を回り、38か国の海外通信ネットワークを作りました。
その後、私が本社にいた間のメイン業務である「知的経営支援システム」の開発・導入を行いました。優れた事業部長というのは、決算書を見た途端に隠れた問題点を見出し、業績を改善してしまうのですが、こんな人はなかなかいません。ならば、そのノウハウを「知的経営支援システム」として情報化しようとなりました。課題を全部洗い上げ、その問題点をつぶして情報化する必要があり、各部を回って問題の整理をしました。大変苦労したこの経験によって、私のなかに業務改革のノウハウができ、現在の大学での業務改革にも役立っていると思います。
松下グループの会計システムリニューアル
私にとって規模的に一番大きな仕事だったのは、松下グループの会計システムのリニューアルでした。当時の会計ビッグバン、グローバル化に対応するためには、今まで使っていた会計システムでは役に立たず、すべてを取り替えなくてはならない状況で、大変な規模の仕事でした。その時にお世話になったのが、小樽商大の大先輩である日本オラクルの佐野社長(当時)です。佐野さんに全面的にバックアップしてもらい、日本オラクルの開発部隊200人を投入して最初のプロトタイプの開発を行うことができました。
平成18年より、現在の大阪成蹊大学へ
2002年、54歳の時に松下電器を早期退職し、株式上場にともなって経理部門を強化したいと考えていたヒューマングループという会社に行きました。1万4千人が早期退職した第一次のリストラに合わせて退職したわけです。そして平成19年から大阪成蹊大学の教員になり、今は大学のマネジメント学部長と就職委員長をやっております。当大学は3年前の就職率が91.1%で、卒業式の時でも就職が決まっていない学生がおりました。それが、2012年に97.1%になり、2013年には98.5%まで就職率を上げました。現在は特別招聘教員という待遇で学部長の任を受け、仕事量は5倍で土日の休みもなく、大変な思いをしております(笑)
大切な人脈づくり
今まで本当にたくさんの先輩に指導され、後輩に助けられて今日の自分があると実感しています。会社に入ってからの人脈も、自分の可能性を広げ人生を面白くします。就職してすぐの頃は目の前の仕事に精一杯で「緑丘人脈」の大切さに気づきませんでしたが、人生の要所要所で先輩に助けられ、成功に導かれてきたなと思います。ぜひみなさんも、卒業されたら近くの同窓会に顔を出してください。先輩は、常に後輩のことを考えています。
<質問>
1年男子学生
Q インタビュー能力の話が出ていましたが、そのような鋭い質問をする方が習慣的にやっている考え方のコツなどがあれば教えてください。
A 難しい質問ですが、「幸之助哲学」の中に答えがあります。それは、素直になることですが、とても難しいです。まずは素直な心で聞かなくてはなりません。私の経験では、そこで浮かび上がってくることを繋いでいくと課題が見えてきます。勉強もしなくてはならないし、いろいろな人の質問を聞いて「こんな聞き方もあるのか」と知ることも大事でしょう。どちらにしても、とても難しいことです。