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エバーグリーンからのお知らせ

2015.12.02

平成27年度第8回講義:「これからの日本と若者のパワー 〜 問われる挑戦力」

講義概要

 

○講師:辻 知秀 氏(昭和37年商学部経済学科卒)

 

○現職等:執筆業/日本経済新聞社社友、日本記者クラブ会員

 

○題目:「これからの日本と若者のパワー 〜 問われる挑戦力」

 

○内容:日本はいま、「失われた20年」と「東日本大震災」の苦い経験の後、次のステージに向けて模索を続けている。歴史的観点から、現在は「明治維新」、そして「第2次世界大戦後の復興」に続く3度目の「大改革が必要な時期」と位置づけることができる。いつの世も新しい時代を切り開いてきたのは「人」であり、とりわけ若い人のパワーである。これからの世界と日本を支えていく若者たちには、直面する諸課題に果敢に挑戦してほしい。日本記者クラブで取り上げた主要な研究テーマの中から特に重要と思える事柄を紹介して、これからの日本の課題と解決のヒントを提示したい。

 

講師紹介

 

1939年札幌市生まれ。1957年北海道札幌西高等学校卒業。1962年小樽商科大学卒業。同年日本経済新聞社入社。東京本社編集局工業部、千葉支局、経済部、産業部などの記者を経て、1975年産業部次長(デスク)。1984年出版局ソフト(電子)出版部長。1987年総務局総務部長。1990年兵庫FMラジオ放送(出向)東京支社長。1993年日経新聞編集委員、日本IR協議会(出向)初代事務局長・専務理事。1996年日本短波放送(現日経ラジオ社)取締役、常務取締役。1999年日経スタッフ(現テンプスタッフメディア)代表取締役社長。同社会長、顧問などを経て2006年3月退職。現在はフリージャーナリストとして執筆、講演などで活動。著書に『時代に挑んだ経営者道面豊信「もうひとりの白洲次郎」−経済版−』創英社/三省堂書店(2013)

 

日本の近現代を3つに分ける

 

私は44年にわたって日本経済新聞社およびそのグループ企業で仕事をしてきました。前半の22年は記者、デスク、編集委員など、新聞作りの現場で。そのあと、管理職の部長になってからの22年は、局長や関連会社の役員、社長、会長などを務めました。ちょうど22年ずつに分かれるわけですが、今日は若い皆さんに、日本がいま抱える課題とその解決のヒントなどをお話したいと思います。

まず日本の近代史の足どりを3つに分けてみましょう。(1)は、明治維新から第二次世界大戦の終わりまで(1867〜1945)(2)は、戦後の復興と経済成長、そしてそれに続く時代(1945〜2014)。(3)は、戦後70年を迎えた今年2015年とそれ以降(2015〜)。

 

ちょんまげの時代から大きな混乱を経て日本が欧米諸国と肩を並べようと奮闘した(1)の時代。その初期の明治9年12月2日、中外物価新報という新聞の第一号が発刊されました。現在の日本経済新聞で、今から139年前のことになります。奇しくも今日その12月2日に、私が皆さんの前で話をすることには、感慨を覚えます。

 

そうして明治大正昭和と日本が近代化の道をひた走り、その帰結が、途方もない犠牲と共にもたらされた敗戦でした。明治からここまでがだいたい70年。そして今年は、敗戦から数えてまた70年の節目です。(1)の時代。これは「戦争の時代」でした。富国強兵のうちの「強兵」の時代。近代化、工業化に猛進する日本は、その過程で日清、日露、第一次・第二次世界大戦など多くの戦争をくぐらなければならなかった。

そしてもはや戦争をすることなく、戦後の復興から経済成長をと(2)の時代は、「マネーゲームの時代」と言えるでしょう。富国強兵のうちの「富国」の時代。国の針路の軸が、経済になったのです。

 

ではこれからの(3)は何の時代になるか。これは、今日の私の話を聞いて、皆さんが自分で考えてほしいと思います(課題とします)。現在は、江戸幕府の治世から明治維新が起こったように、あるいは戦争の焼け跡から戦後の日本が見事に立ち上がったように、われわれが三度目の再構築を迫られている時代です。

 

 

アベノミクスの点検

 

日本記者クラブは、約200社のメディア企業と2500人ほどの個人会員を持つ公益社団法人です。私も個人会員ですが、ここでは当面するさまざまな問題を研究するためにその道の専門家を招いて講演をしていただき、質疑応答などを行う研究会を年に200回前後開催しています。

 

研究会の今年のテーマ群の中で、今後の日本経済を考えるうえで重要と思われるものをいくつか選ぶと、まず「アベノミクスの点検」があげられます。安倍晋三内閣が2013年に掲げた政策の「三本の矢」。これは「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「民間投資を喚起する成長戦略」のことでした。

 

このうち成功していると言えるのは、円安と株価の上昇を実現させた金融政策でしょう。これは目に見える社会的影響が大きいところから、アベノミクスの評価につながりました。しかし一方で、財政政策はどうでしょう。いまや国の借金が一千兆円を超え、プライマリーバランス(基礎的財政収支)が一向に回復しない現状は、憂うばかりです。そしてさらに問題なのが、3つ目の矢とされた成長政策がいっこうに具体化していないこと。やがて皆さんが主役となる日本の未来を築いていく基盤が、いまだにできあがる兆しが見えません。

 

日本経済は、70年代のオイルショックやドルショックなどがあったにせよ、1990年ころまでは順調に成長を遂げました。しかしそれ以降は、2011年3月11日午後2時46分に起きた東日本大震災と、大地震がもたらした福島第一原発の事故に象徴されるように、それまでとは全く異なる次元に入ったのです。

 

ここからどう立ち直るか。今年2015年は、そこが問われた戦後70年の節目であったわけです。去る9月、安倍首相は、アベノミクスが新たなステージに移ったとして、「新3本の矢」を提唱しました。第1の矢が、「希望を生み出す強い経済」。名目GDP600兆円の達成をめざすといいます。第2の矢は、「子育て支援」。出生率を現在の1.4から1.8へ上げるといいます。そして第3の矢は、「社会保障」。介護現場からの離職ゼロをめざすといいます。これらはどうしても政治家のお題目の範疇を越えないもののように聞こえます。実現の難しさは容易に想像できますが、いまの時点ではまだ見守っていく段階でしょう。評価はその先になります。

 

株価を上げることには成功しているアベノミクスが動かす経済を、私は「吊り天井経済」と呼びたいと思います。一軒家の屋根の部分は高く見えても、土台と柱がどうにも見えない。見かけはいいが、危うさがいっぱいです。また、選挙の前に経済政策を打ち上げるこの内閣の本音はあくまで憲法改正にあります。戦後70年の節目にそうした重大なことを考えるきっかけがもたらされた。皆さんにはここをしっかり注視してほしいと思います。

 

最大の課題は人口問題

 

これからの世界が抱える最大の課題の一つは、人口問題だと考えています。

 

世界の人口は昨年、推定で70億人を超えました。上位2国の中国(13億人以上)とインド(12億人以上)が突出していますが、3位のアメリカ(約3.1億人)以下も含めて、いわゆる人口大国の人口は増え続けるでしょう。そこから、食糧危機や環境破壊、格差の拡大や移民がもたらすあつれきの問題など、むずかしい課題がさらに広がっていくことは間違いありません。そしてさらに、IS(イスラミックステート)に象徴される、宗教に根ざした問題があります。キリスト教を信仰する人々はいま世界に23億人、イスラム教信者は16億人ほど。ふたつで39億人。両者に対立の根があることは、世界全体の大きな不安要因です。

 

日本の人口は1966(昭和41)年に1億人を突破し、2008(平成20)年には約1億2800万人となりピークを数えました。しかしその後減少に転じ、このペースでは25年後の2040年には1億を割るとされます。同じ1億人でも1966年の高齢化率(65歳以上の割合)は約7%だったのに対して、2040年のそれはなんと40%。しかもそのうち75歳以上が25%。皆さんの25年後は40代の働き盛りですから、まさに皆さんが多くの高齢者を支えることになります。これからの日本の針路を考えるとき、この人口問題を基盤に据えることは避けられません。

 

さらには、世界には、1日わずか150円以下で暮らさなければならない人々が、8億人もいます。小学校に行けない子どもが5670万人、5歳まで生きられずに亡くなってしまう子どもが年間600万人もいます。日本においても貧困の問題は他人事ではありません。生活保護を受けている世帯がいま120万ほど。過去最高の数字です。子どもの6人に一人が貧困状態にあるのです。学校に行けない、給食費が払えない。そんな子どもが珍しくなくなってしまいました。世界の中では恵まれている日本とはいえ、富の「格差」と適正な「分配」の方法がいま問われています。これもまた、これからの日本を考える際の基盤に据えなければならない認識です。

 

『21世紀の資本』

 

今年の1月31日。日本記者クラブ(東京都千代田区)で、若い(40代)フランス人経済学者を招いて行われた研究会が大きな話題を集めました。皆さんもご存知でしょう。『21世紀の資本』を著したトマ・ピケティさんです。3百人ほど入る会場がびっしり埋まりました。

かつて同様の催しでこの規模の集客があったフランス人が二人いました。ひとりはジャック・シラク、もうひとりはフランソワ・ミッテラン。ふたりとも大統領です。つまりピケティが書いて世界で150万部を売った『21世紀の資本』は、日本でもフランス大統領の来日に匹敵する注目を集めたわけです。

 

この著作のほんの骨子だけを述べれば、ピケティは、近代の経済社会においては「資本収益率」は「経済成長率」をつねに上回る(「r > g」、資本運用から得られるリターンは、経済成長のグロース、所得の伸び率を上回る)といいます。彼はこの論を、200年強にわたる主要各国(20カ国余)の納税資料を10年以上かけて実証的に分析して導きました。

 

19世紀のカール・マルクスの『資本論』との関わりを問う質問に、ピケティはこう答えました。「私は共産主義に魅力を感じたことはありません」。彼の出発点は、資本主義をいまよりももっとうまく回すためには何が必要なのか、という問題意識です。そのために累進課税をさらに進めて、富んでいる者はもっと税金を負担しなければならない、と主張します。市場に任せすぎてはいけないという、「格差」と「分配」の問題です。各国ともそうですが、日本もこの問題を避けては通れません。

 

 

私の経済記者時代

 

私の小樽商大在学時代はちょうど、日米安保条約の是非をめぐって社会が大きくゆれた時代でした。私は緑丘新聞の編集長もつとめ、社会問題への意識を強く持っていました。今年は安保法制の是非について世論が割れましたが、その歴史的上流に位置する日米安保条約の批准については、当時の学生のほとんどは反対していたものです。1960年に日米安保条約が結ばれたわけですが、私は緑丘新聞に「怒りを思想に」という論説を書いたことを思い出します。条約が批准されたことへの怒りを、強い思想にまで高めてこれから社会と関わって行こう、という主旨でした。

 

1962(昭和37)年の春、私は日本経済新聞社に入社しました。まず民間企業を取材する記者になりました。戦後の復興と安保の騒乱が収まり、日本がいよいよ高度成長へとテイクオフをとげる時代。世の中には、「これからは経済の時代なんだ」という意識が満ちていました。各分野の経営者は希望と意欲と、そして自信にあふれていました。またそうした時代であったからこそ、日本のあるべき針路や経済の動向を共有していくための、健全なメディアが必要でした。

 

入社6年目の20代後半。私は千葉支局に異動となりました。支局とはいえ一都三県(千葉県・埼玉県・東京都・神奈川県)は「首都圏」と称し日本の中枢ですし、住宅や教育、交通に関することなど、共通する問題も多くありました。

 

さらに特筆すべきが、高度成長の副産物ともいえる公害です。京浜、京葉の東京湾岸には、石油コンビナートや製鉄工場、発電所などが建ち並んでいました。自動車の数も年を追って増しています。週1、2回は、亜硫酸ガスや硫黄酸化物の影響で目の痛みや胸の苦しさを訴える人が出て、ニュースになっていました。

 

1970年7月14日〜19日にかけて、私の記者人生にのこる出来事がありました。まず、2週間ほど前の6月28日に大気汚染による健康被害が起こり、その結果について7月14日午後に各社の記者たちは千葉県の公害課長のレクチャーを受けました。県内の15市町村をはじめ、東京、神奈川などを合わせて6千人もの人が目や胸の異常を訴えたのです。

 

規模に驚きましたが、その反面、県の説明がどうもすっきりしません。なんだか口を濁すようなところがある。しかし他社のベテラン記者が、「まあいつもの硫黄酸化物由来のものですな」といった調子で会見を締めくくってしまいました。どこの世界にも、知ったかぶりをしたがるベテランはいるものです。なにかおかしいゾ。そう思った私は、会見が終わった後で一人でひそかに公害課長に食い下がり、「これ以上の話を聞きたいのなら県の公害研究所の誰それに聞いてくれ」という言葉を引き出します。

 

さっそく研究所に行ってその研究者に面会すると、どうやらこれは、従来の硫黄酸化物(SOx)では説明できないと言う。言いよどむところをなおも粘ると、SOxではなくNOxという耳慣れない言葉が出てきました。窒素酸化物。これが風のない夏の暑い日の太陽光で化学反応を起こすというのです。そして彼は、すでに米国ロサンゼルスで先例があり、これを日本語で言うと「光(こう)化学スモッグ」だ、と重たい口を開きました。つまりその日「光化学スモッグ」という、日本で全く新しい公害が起こった。

 

しかし関係者は、百%の確信はないし、不要な影響を懸念して、情報を抑えようとしていたのでした。私はすぐ県庁に引き返して公害課長に報告をしてコメントを取り、支局にもどるや記事を書き始めました。

 

いきさつを話すと支局長もたいへん驚きました。翌日の朝刊の社会面に私の書いた記事が大きく載りました。「新しい公害 光化学スモッグ 今後も発生のおそれ」社会面は、圏域を越えた全国面です。新聞記者にとって、日本で初めて起こった事態を特ダネにすることほど大きな喜びはありません。私は大きな手ごたえと深い達成感を味わいました。

 

ふつうは一社が特ダネを打つと、各社はあわてて追いかけてきます。しかしおかしなことに、その日の夕刊も翌日の朝刊にも、その翌日にも、光化学スモッグという言葉が見当たりません。もしかしたら自分の早とちりか? いやあの研究者が嘘を言うわけがない—。内心の葛藤を抱えたまま、私は早目の夏休みをとり、7月18日に房総の海に3人の子どもたちを遊びに連れて行きました。遊び疲れて家族で民宿で早く寝たのですが、翌朝、宿にあった全国紙を見てびっくりしました。

 

一面トップで「東京杉並で光化学スモッグ発生、女子高生らバタバタ」「東京都公害研究所が新しい公害と正式発表」という見出しが躍っていたのです。あわてて宿の近所でほかの複数の新聞を買いましたが、どれも同じニュースが一面トップを飾っていました。これによって、私がこれらの記事の5日も前に特ダネをものにしていたことが証明されたのです。

 

地獄から天国に引っ張り上げられたような気持ちでした。休み明けに出社すると、支社長の満面の笑顔とともに、東京本社から早くも編集局長賞が届き、編集担当役員からの絶賛のメッセージが待っていました。本社での編集会議などで「地方でも特ダネをとれる」「日頃の問題意識が重要だ」という例として、光化学スモッグの特報が必ず引き合いに出されたそうです。

 

それから5年後、すでに私が編集デスク(部次長)になっていた1975年。「潮」という月刊の論壇誌が「日本の特ダネ記者50人」という特集を組みました。そこで私も、「光化学スモッグ」という新たな公害をはじめて世に知らせた記者として取材を受けました。仲間内だけではなく、外部の目から特ダネを客観的に評価されたことをうれしく思いました。

 

自動車の排気ガス規制が効率の良いエンジンを生んでいったように、1970年代の日本は、経済成長と共に公害問題にも立ち向かっていくことになります。ごく最近では、中国が発生源の「PM2.5」による新しい複合大気汚染が日本上空に飛来し、新たな心配のタネになりつつあります。公害もグローバル化しているといえます。

 

Keep Trying(挑戦し続けろ)!!

 

世の中をどのように見て、職業人としてどのように関わって行くべきか。皆さんはいまそうしたことを考える日々をおくっていることでしょう。私が経験的に学んできたことを整理してみると、次のようになります。

 

まず、「変化への問題意識をつねに持つ」こと。変わっていく事象に注意を払い、その先に何が起こるかを考える。そして、「常識にとらわれない」。したり顔で理屈を語るベテラン記者のようになってはいけません。さらに、「ねばり強く真実を追う」。何が事実か本当かを探る、真実への探究心が、うわべの現象の底に見据えるべき理論を作り上げます。そしてこうしたことを実践するためには、強い勇気も必要です。これらはまず新聞記者の心構えですが、どんなジャンルでも仕事と向き合う上で大切なことだと思います。

 

現代は、明治維新、そして戦後の復興に匹敵するほどの難しく大きな改革が必要な時代である—。私は最初にそう言いました。この時代をどう生きて、この国をどう動かしていくかは、ひとえに皆さんの肩にかかっています。そのことをしっかりと自覚してほしいと思います。まず選挙権をしっかり行使して投票に行くのはもちろん、私の話で何か得るものがあったとすれば、どうかそのことを自分でさらに考え、すぐに実行に移すなど推し進めてほしい。それは端的に言えば、「日本はこれから何をウリにするのか、何で食べていくのか」という問題意識です。そこを突き詰めていくことが、課題に出した2015年以降は何の時代といえるのか、の答えにもつながっていくでしょう。

 

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