2016.11.09
平成28年度第5回:「私のキャリア論」
概要
○講師:柴田康幸氏(平成14年企業法学科卒/(株) マイナビ紹介事業本部)
○題目:「私のキャリア論」
○内容:14年間の社会人生活のうち、自分には大きな「岐路」が何度かあった。建設不況やリーマンショックといった不可抗力とも思える向かい風に対して、私はどのようにしてその岐路を進んでいったか。ひとつひとつの出来事を解説しながら「キャリアの歩み方」の一例を知ってもらいたい。さらに、「そもそもキャリアとは何か」ということについて、キャリア・アドバイザーとして学んだキャリア理論にも触れながら解説したい。
岐路と転職
尊敬する諸先輩はもとより、優秀な後輩の皆さんにも連なって私がエバーグリーン講座のこの場にいることを、とても光栄に思います。
私の出身は秋田県の横手市です。商大時代は緑一丁目の商大通交差点の裏に下宿していました。1998年入学で、当時は4割くらいの学生が小樽に暮らしていました。道外生が3割前後いたような印象です。いまは小樽に暮らす学生がずいぶん減っているそうですね。ゼミは結城洋一郎先生の憲法学。部活は、高校のときからやっていたハンドボール部と、ボード部を掛け持ちしていました。しかし腰を痛めてしまい、2年目からは結局ハンドボールに専念しました。体育会の会長を務めたことも良い思い出です。また、なんと卒業式の当日に急性胃腸炎になってしまって、卒業証書をなんとか受け取ってそのまま病院へ直行したことも忘れられません。
高校生のとき、小樽商科大学の予備知識はほとんどありませんでした。でも入ってみてすぐ、良い大学だなと思いました。全体がちょうど良い規模で、質の高いゼミや講義があります。仲間意識も強い。そしてその思いは、卒業後にさらに強くなりました。OB のネットワークが全国に広がっていて、とても強い絆があります。
東京の大学だと、卒業生同士でも学部が違えばまるで違う大学のように感じるようですが、商大は商学部だけ。先輩たちから「君もあの坂道を登ってあそこで4年間学んだのか」、といった共感を寄せてもらえます。なお、いまの私の職場は仙台にありますが、仙台は全国でも指折りの、緑丘会の活動が盛んなまちなのです。仙台緑丘会の写真をご覧に入れます。8月のお盆の時には現役生も就活で仙台に来ていたので、大歓迎しました。
10月には芋煮会が恒例です。こういうつながりの中に皆さんも卒業していくわけですから、堂々と自信をもって勉強に励んでください。
私は3度転職をして、現在勤める会社で4社目となります。俗に言うジョブホッパーと見られることもありますが、私がなぜ転職を重ねたのかについてお話しします。卒業すると、まず大手ゼネコンの竹中工務店に就職しました。小樽では稲穂のオーセントホテルを建てたり、全国では5大ドームの建設を行ったりしている、社員数8,000人ほどのスーパーゼネコンです。
入社のきっかけは、ゼミの先輩が商大を訪ねて来てくれたことでした。先輩には当時、最後の卒業生から12年間も竹中に入った商大生がいないので、ぜひ竹中に来てほしいという思いがありました。私は「これはチャンスだ」と思い、積極的に質問を投げかけたり身の回りのお世話をしたり、自分を覚えてもらおうとアピールしました。
父が土木業界にいて、もともと社会インフラの分野には興味があったのです。そうして幸いにも採用されて、埼玉の支店に勤務となりました。希望は、営業職として大きなプロジェクトの現場に立つことでした。でもはじめからそんなステージには立てません。営業の後方支援として、見積を作ったり資料を作成したりするといった業務から、営業部門の仕事に携わっていました。
しかし、4年ほど経つと、業界全体の業績が悪化していきます。耐震偽装問題がメディアを賑わせたころです。建設不況という言い方もされました。これが、社会人になって初めての岐路でした。会社では部門の縮小がはじまり、自分の針路も、営業部門から管理部門に進むしか選択肢がなくなってしまいます。そうなるとゼネコンで働く意義がないと思い、最初に私を導いてくれた商大の先輩にはたいへん申し訳なかったのですが、まったく違う業界に転職しました。
実はそのとき結婚してまだ1年目だったのですが…。
今度は(株)リクルートHRマーケティング(現・リクルートジョブズ)という、求人広告の企画制作や採用支援を行う会社です。
なぜまったくちがう分野を選んだのか——。
転職しようと決めたとき、実は「次はこういう分野で働きたい」という明確なビジョンはありませんでした。そしていろいろ考えるうちに、人と仕事の関わりそのものをもっと深く突き詰めたいと思うようになりました。仕事と人が出会うその現場で働いてみたくなったのです。
当時の自分は、竹中に勤めながらも、社外の異業種の人たちと会ったりする場を大切にしていたのですが、そんなところから導き出された針路だったともいえるでしょう。リクルートHRマーケティング社が唱えていた「仕事が楽しいと人生が楽しい」というスローガンに、「まったくその通りだ」と共感し、この会社を選んだのでした。入社すると千葉の営業所に配属になりました。「はたらいく」や「タウンワーク」という媒体で求人広告を営業する仕事でした。
2008年の秋から、日本経済を大きな嵐が襲いました。そう、これが自分にとって2つ目の岐路、リーマンショックです。不況になると人材の業界は真っ先に影響を受ける業界のひとつです。不況になると会社が真っ先に経費を削減するのは採用費用や人件費なので、求人広告を扱う私の部署が受けた打撃は大きいものでした。またリクルートグループ全体でもこのとき希望退職を募ることになり、ほかの企業に事業部を丸ごと売却したりもしました。
そんなとき、同じ業界のある会社と出会いました。社員数13名。今度は2,000名の会社から13人の会社への転職です。リクルートでは、求人広告という人と企業を結ぶ、いわば「入り口」の仕事でしたが、今度はその先に求職者1人ひとりともっと深くかかわる「人材紹介」の仕事。それも薬剤師に特化したキャリアコンサルティングの仕事でした。
もともとそうした分野に興味を持っていた私は、リクルート時代に、CDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)という資格を取っていました。まだ一度も就職をしたことのない皆さんに、人材紹介という仕事はよくわからないかもしれません。かいつまんで説明するとこうなります。転職したい人だけ、採用したい企業だけではなく「転職したい人」、「人材がほしい企業」の双方に関わり、結ぶ仕事です。転職者にとっては、質量ともに良い求人情報が得られますし、採用を勝ち取るようにさまざまなアドバイスを受けることができる。社会に出てしまえば、大学の就職課のような頼れる窓口はありませんからね。
また企業にとっては、採用に関わる手間とコストが大幅に削減されますし、人材紹介の現場で起こっている生きた情報を得ることができます。では私たちはいつどのように収益を上げるのか。それは、両者に雇用契約が結ばれたとき。このとき初めて、採用に成功した企業から成功報酬としてお金をいただくことができるのです。
つまり紹介するだけでは売り上げは一銭も立ちません。こうして今の私の仕事と同じ種類の仕事がはじまりました。毎日やりがいを感じて一生懸命取り組むことができました。しかしやがていろいろなことを実感します。いちばん感じたのは「人材紹介サービスの企業力は、集客力によるところが非常に大きい」ということ。集客(転職希望者)がより多い土壌で仕事ができれば、それだけ自分のサービスを提供できる人が増やせるのです。そうして2012年、現在の(株)マイナビの紹介事業本部に転職しました。
マイナビは、就職や転職、進学情報の提供や人材派遣・人材紹介を幅広く行う、従業員数約5,000人の企業です。ここでも前の会社と同じく、薬剤師さんの転職を支援する仕事をしています。2014年に事業部の東北での業務が立ち上がり、東北出身ということもあり仙台に赴任しました。
「キャリア」とは「生き方そのもの」のこと
ここであらためて、キャリアということについて説明します。キャリアとは、単なる職歴や社内でのポジションのことではありません。アメリカ・コロンビア大学のキャリア論の教授ドナルド・E・スーパーは、「キャリアとは、人生のある年齢や場面のさまざまな役割の組み合わせである」と言いました。人生には年齢で大まかに区切ることができる段階(ライフステージ)があります。つまり、生まれてから15歳までの「成長段階」、そこから25歳までの「探索段階」、45歳までの「確立段階」、65歳までの「維持段階」、そしてリタイアを迎える65歳以降の「下降段階」といった区分です。
また、それぞれの年齢は厳密なものではありませんが、各段階にそれぞれの役割(ライフロール)があります。つまり子ども、学生、社会人労働者といった役割。そして年齢を経るとそれらと重なって、結婚してパートナーをもつ配偶者、親となる家庭人といった役割もある。余暇を楽しんだりすることのできる役割もあれば、市民として地域社会を構成する役割もある。それらの「ライフステージ」と「ライフロール」を虹の形のように一枚に図式化したものをライフ・キャリア・レインボーと呼びます。
この図に私のキャリアを重ねてみます。するとかつて自分は、複数の選択肢があった岐路に立っていたことが見えてきます。建設不況でゼネコンからリクルートに転職したときのことを例にとってみると、仕事に悩むだけの時間を過ごすのではなく、仕事以外のことや家庭を守ることにさらに意識をシフトすることもできたかもしれません。つまり虹の帯に見立てた自分の役割(労働者や家庭人配偶者といった役割)ですが、ライフステージ(年齢)によって、30代から40代にかけては多くの役割を担う段階です。仕事人であり配偶者であり、ときに旺盛な消費者であり、地域社会の構成員である、という具合です。
仕事そのものだけでなく、様々な役割を見ながら歩むのがキャリアなのだと言うことができます。もうひとつ皆さんにぜひ知っていただきたいのが、スタンフォード大学のジョン・D・クランボルツ教授が提唱する、プランド・ハプンスタンス理論(Planned Happenstance Theory)です。主旨をひとことで言えば、「キャリアは8割がた予期しない出来事や偶然の出会いによって決定される」。だからその予期しない出来事をただ待つだけでなく、自ら創り出せるように積極的に行動したり、周囲の出来事に神経を研ぎ澄ませたりして、「偶然を意図的・計画的にステップアップの機会へと変えていくべき」、ということ。そのために次の5つの行動指針があります。
- 「好奇心」 ―― たえず新しい学習の機会を模索し続けること
- 「持続性」 ―― 失敗に屈せず、努力し続けること
- 「楽観性」 ―― 新しい機会は必ず実現する、可能になるとポジティブに考えること
- 「柔軟性」 ―― こだわりを捨て、信念、概念、態度、行動を変えること
- 「冒険心」 ―― 結果が不確実でも、リスクを取って行動を起こすこと
リーマンショックの影響でゼネコンからの転職を決めたとき、社外の人との交流を意識していた私には、好奇心や楽観性、冒険心があったと言えると思います。
自分ではどうしようもない不可抗力で日常生活が大きくゆらいだとき、リスクを取っても次の道に進もうと思うことができました。まさに「人生万事塞翁が馬」です。
リクルートHRマーケティング社でCDA(キャリア・デベロップメント・アドバイザー)資格をとったときには、私はクランボルツの理論を意識していました。昨日も今日も明日も同じ日常がつづくと漫然と考えるのではなく、日ごろからいろんな意味でそれなりの準備があれば、偶然は偶然でなくなるのです。アクシデントも幸運も、その偶然を次のステップアップのチャンスへと変えることができます。
私はいま、キャリアをこう考えています。「キャリアとは、『仕事だけ』、『昇るだけ』のものではない。『人生』において自分で『作っていくもの』である」。女性が妊娠、出産、育児で仕事を辞めて家庭に入るとしても、それは「キャリアを捨てる」ことではありません。その時点で主婦や母というキャリアを進むと言う事ができるのです。そして、機会があればビジネスの現場で再びビジネスのキャリアを作ることができる。また、配偶者や家庭人というキャリアよりもビジネスのキャリアの方の価値が高いわけということでは決してありません。皆さんは、キャリアというと「良い会社で良い仕事をして自己実現をめざすこと」と考えるかもしれませんが、そのイメージだけに縛られないでください。どんなキャリアを選んでも、自分らしく堂々と生きていけば良いのです。
社会人に必要なもの
まとめとして、私が考える10項目の「社会人に必要なもの」についてお話します。
●目標を持つ:何かモノを手に入れることでも、もっと抽象的なものでもかまいません。目標を持ちましょう。遠くを見ないで目の前の一歩一歩を大切に、といった人生では、前に進む具体的なイメージが浮かびません。大きな目標でも中間的な目標でもかまいません。
●ベンチマークを見つける:目標までの基準や指標を設定しましょう。尊敬する先輩でも、ライバルでも良いのです。自分の今の立ち位置がわかる存在を持つことが重要です。
●アンテナを張る:いろんな分野の情報への感度を上げましょう。「いまの自分には関係ない」と、気にも留めないと捨ててしまいそうなものに、近未来の宝物があるかもしれません。他人が見ればそれはあなたにとって大事だよ、というものだってあるかもしれません。
●出逢いを大切に:学生時代の友人も大切ですが、とくに社会人になると、違う価値観の人や社外での出逢いが大切になります。私は最初の職場であるゼネコンで、優秀な理系の同僚や先輩たちに会いました。そこで文系育ちの自分の価値観や世界観を大きく広げることができました。また社外で色々な人と出会ったことでも、世界が大きく変わったと思っています。今でも彼らとの繋がりは大事な財産です。
●会話をする・対話をする:会話には意味のない雑談も含まれます。一方で対話には、人と人が理解し合おうとする前提があります。また自分の考えをアウトプットして、それにどんな価値や欠点があるのか、対話から見えてくることがあります。会話によって相手の考え方や興味を知り、対話を行ってお互いの理解をすり合わせることによって、自分の考えや価値と他社とのズレを感じたり、修正したりすることができ、自分にとって必要なものが見えてきます。会話でも対話でも、とにかくどんどん、話をしましょう。
●「自分に合う会社」か、「会社に合わせられる自分」か:企業とは、持続的に利益をあげるために存在している組織体です。あなたの都合のために存在しているのではありません。そこを間違えないように。そんな中でもし会社があなたに合わせてくれていると思える会社と出会えたのであれば、あなたの価値観が会社のそれと一致しているといえるわけですから、すばらしいことです。
●プロセスではなく、結果:これも自明のことですね。大学でも、いくら努力してレポートを提出しても、締め切り日が過ぎていたり、字数がオーバーしていると受け取ってもらえないでしょう。一方でプロセスが大事だということも当たり前で、両者が一致していることがなにより重要です。
●想像はポジティブに、想定はネガティブに:目的に向かって行動するとき、ゴールのイメージは、できるだけプラス思考でイマジネーション豊かに、大きく膨らませましょう。ただし、障壁にぶつかったときにはしっかり乗り越えられるように、課題やリスクはなるべく深刻に考えて準備しましょう。
●隣の芝生は青いが、自分の芝も青い:人のモノや状況がうらやましくて仕方がないときがあります。社会人になると、休みが少ないとか上司に恵まれていないとか、こんなはずじゃない、と自分を哀れんだり。でも他人から見ればあなたにも、羨望されることが必ずあるものなのです。そこにちゃんと気づきましょう。
●看板を背負っているという意識:ライフ・キャリア・レインボーのところで説明したように、人にはいろんな役割があります。いまの皆さんにも、商大生であり、札幌・小樽市民であり、頼られているバイトスタッフであり、といろんな役割があるでしょう。それぞれの役割であなたという人間はひとりしかいません。あなたは役割ごとにあなたならではの看板を背負っているのです。あなたがた1人ひとりの行動によって、その看板をどんどん輝かせることができます。ちなみに「商大生」という看板は、私と皆さんとの共通の看板ですよね。先輩方が磨いてきたこの看板をさらに輝かせて、より「ブランド化」させるためにも、お互いがんばっていきましょう。
最後に、昨年話題になった、心理学者アルフレッド・アドラーの『嫌われる勇気』にある一節を引用します。「今、生きている現実がどのような状態でも、そこに留まるか、素晴らしい世界へ向かうか、今よりもっとつまらない世界に生きるかは、すべてあなたが心に描くものしだいです」あなたの外側にある社会の価値観やリスクに縛られすぎないようにしてください。あなたの未来を、そしてあなたのキャリアを作っていくのは、どんなときでもあなた自身なのですから。
〈柴田さんとの質疑〉
Q(担当教員) 勉強のほかに学生時代に取り組んだことはどんなことでしょう?
A 部活はハンドボール部で、私たちの時代は北海道学生リーグの1部にいました。私は高校時代から大学まで、ポジションはゴールキーパーでした。リーグ戦で3位になり、東インカレに出場できたことが良い思い出です。また、体育会の会長も務めていました。
体育会の活動で印象深かったのは、旭展望台までの駅伝大会を企画運営したことです。激しいアップダウンを4人でたすきを繋ぐとてつもなくハードな駅伝で、毎回、陸上部ではなくバスケット部が優勝していました。いまはやっていないと聞きましたが、復活すればうれしいですね。
Q(担当教員) さまざまな業界でAI(人工知能)の活用が進みつつありますが、人材紹介・転職支援の世界ではいかがでしょう?
A AIは、ビッグデータをもとに、与えられた条件に対するおすすめを作り出すことにとても長けています。ですから、質の低い会社は早晩淘汰されていくと思います。一方で近年私たちの世界では、RPO(Recruitment Process Outsourcing)と呼ばれる分野が注目を集めています。社員の募集から採用の諸段階の業務、さらには入社後の育成やキャリアマネージメントまでを一貫して行う仕事です。単なる応募者と企業のマッチングにとどまらないこういう分野は、将来的にもAIには荷が重いでしょう。社風や相性の深い部分は、応募する方、採用する企業、そして私たちの3社が作る信頼関係があってはじめて見えてくるものだと思います。私たちの仕事は、モノを売りさばくのとはちがって、生身の人間の複雑な人生に深く関わるものです。だからこそコンピュータに任せきりではすまないと思うのです。
Q(学生)最初の転職が結婚してまもなくとのことでしたが、転職に当たって、まわりの声や意見を気にされましたか?
A 心配する声があったのは事実ですが、意志決定はあくまで自分の責任で行いました。社会人になって仕事をどうするという話になると、もう親や誰かの意見に従わなければならない、ということは無いのではないかと思います。特に両親には相談というよりも、自分で決めたあとで報告と説明を行いました。自分の人生は自分で歩むもので、たとえ何かがあっても、他人が私の代わりに責任をとってくれるわけではありません。また、ある選択や意志決定をしたことをあとでくよくよ悩むことはしたくありませんでした。そのときそう決めた自分を自分で認めないと、単になんだかかわいそうな自分になってしまいますからね。