2017.01.25
平成28年度第13回目 :「職業の選択 ~出会いから始まる仕事~」
概要
○講師:塚原 敏夫 氏 (平成2年卒/(株)三國プランニング 代表取締役)
○題目:「職業の選択 ~出会いから始まる仕事~」
○ 内容:私は、野村證券にはじまり、外資系金融機関、化粧品会社、ヘッドハンティング企業、レストラン・マネージメントの経験を経て、上川町に新しい酒蔵を立ち上げた。大企業や、成果報酬を旨とする外資系企業、そして個性的なオーナー企業での経験や、ヘッドハンティングの業界で交わったたくさんの経営者たちから得たことを話したい。また、前例のない手法で設立した酒造会社が、「まちづくり」の手法を取り入れながら地域とともにどのような針路を描いているのかを解説する。さらに、『緑丘会』(小樽商大のOB・OG)とのつながりや、人との出会いから始まる人生のチャレンジの仕方について、実践的に講義する。
ボート部で鍛えられて野村證券へ
「上川大雪酒造(株)緑丘蔵」を取り上げていただいたニュース映像を見ていただきました。私は上川町や小樽商大緑丘会の皆さんをはじめたくさんの方の協力を得ながら、今年の秋から上川町で道産米による酒造りをはじめます。今日は私の仕事のキャリアをもとに「人との出会い」といったテーマでお話をしますが、この蔵はそうした出会いが生んだひとつの結び目なのです。
私は1967年に札幌で生まれました。妻は小樽の人で、潮陵高校出身です。実家はすすきので飲食店を営業していました。ふたりの娘はいま皆さんと同じ年代の大学生ですから、友だちのお父さんから就職の話を聞く、という気持ちでおつきあいください。
高校時代の私は美術部でしたが、1986年に商大に入ると、漕艇部(ボート部)に入りました。当時は札幌の茨戸の艇庫の横に合宿所があり、そこに寝泊まりして大学に通っていたようなものでした。朝5時に起きて走って筋トレして漕ぐ、という毎日。実は私たちがインカレのエイトで出したタイムは、幸か不幸か後輩たちにまだ破られていないのです。
ゼミは、労務管理論の東條ゼミ。卒業した1990年は日本経済にも未だバブルの余韻が残っていて、ゼミの仲間たちはみな、歴史ある財閥系の金融機関などに就職しました。私も何社か内定をもらったのですが、まわりから「きついからそこはやめろ」と盛んにいわれた、野村證券を選びました。どうせならいちばんきつい会社に行って自分を試してみたい、と思ったのです。
野村證券で9年あまり営業をして、つぎにアリコジャパン(現メットライフ生命)で支社長などを務め、それからヘッドハンティングの会社(縄文アソシエイツ)に移り、それからJASDAQ上場企業の化粧品メーカーの販売会社の常務となり、そこで出会った三國清三シェフとレンストランをマネージメントする会社をつくりました。
そのかたわら昨年、道北の上川町に酒造会社を立ち上げて現在にいたります。近年は小樽商科大学後援会の理事や、緑丘会東京支部の理事も務めさせていただいて、母校との関わりが一段と深くなっています。さて私の経歴をザッと述べましたが、ずいぶん転職をしているな、と思われるでしょう。ただこれはみんな、私が飽きっぽくて辛抱の効かない人間だからではなく(笑)、ありがたい「人と人との出会い」がかなえた「縁」が導いてくれたものなのです。転職活動を一度もしたことのない私が、なぜこんなに転職をしたのか。そこが今日のポイントです。
野村證券では、札幌支店を皮切りに、四日市支店(三重県)、天王寺駅支店(大阪)でもっぱら飛び込み営業を行いました。窓口で債権や投資信託など決まった商品を売るのではなく、地域の企業オーナーや富裕層の人々に、私がおすすめするこの企業の株や債券を○億円買ってください、という種類の営業です。スタートの課題はまず、株のことなどまったく興味のない人も含めて、自分が会って売り込みたいと定めた人に、どのようにしたら会ってもらえるか。そのことを追求する毎日でした。
例えば手紙を長い巻紙に書いて何度も送り、さらに電話でアプローチしました。あるいは出社のタイミングをはかって、ビルに入る社長にただ「おはようございます!」と挨拶をします。これを来る日も来る日もつづけます。しまいには、その会社の社員の方に「ガンバレ!」と応援されるようになります(笑)。さらに花束作戦。ある大病院の裏に医院長のご自宅があって、私は医院長が病院にいる時間帯に自宅に奥様を訪ねます。ちょっとした花束といっしょに。
一流の証券会社の第一線の営業マンは、みな優秀で気力体力にあふれています。みんながんばっているのは当たり前。例えばひとつの営業が終わって帰社予定時間に近づいているとき、私はよく、「よし、もう一軒だ」と気持ちを奮い立てて営業をつづけました。この「あと一軒」が、1年間では300軒になります。あとひと踏ん張りを地道に続けることで、がんばっている人のさらに前に進むことができます。
三國清三シェフとの出会い
野村證券で日々営業に邁進しているころ、ぜひうちに来てほしいと、外資系生保企業に誘われました。一般に外資系金融会社は自己責任の成果主義、成功報酬のきびしい世界です。残っても転職してもどうせ頑張るしかないと思いそこに転職したのですが、当初抱いていたイメージを超えた、さらにいっそう厳しい現実に愕然としました。
日本の企業であれば常識である社内の部署間の連携や、共有される情報システムなどはありません。2年目に支社長になったのですが、優秀な部下を見つけて採用することが重要な仕事でした。日本企業であれば、それは人事部の仕事です。このとき、「金魚鉢に錦鯉は入らない」と思いました。自分が優秀でありつづけなければ、優秀な人材は来てくれません。他社で活躍している人材を説得して、人生をかけた転職をしてもらうには、こちらの器が大きくなければならないのです。武田信玄の有名な言葉に、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」、があります。まさにこの精神を痛感しました。ビジネスにおいてチームの力とは、構成員の能力とモチベーションの総和なのです。それ以上でも以下でもありません。
それから私は、尊敬する先輩に誘われて、ヘッドハンティングの会社に転職しました。この時代に考えさせられたのは、「仕事と作業」のこと。誰がやっても同じような結果となることは、作業です。対して、自分じゃなかったらこの結果は得られない、というプロセスと成果が仕事です。AIやIoTの時代にちゃんと働きたいと思えば、「仕事」をするしかありません。ヘッドハンティングの世界は、企業オーナーが、自分は引退したいので後継を探してくれとか、優秀な人事部長を連れてきてくれ、などというオーダーに応えるのが仕事です。そしてこの人なら年俸1千万円、3千万円、5千万円と、人間に値段をつけていきます。私は、現在の職場で大活躍していて、転職などまったく考えたこともない人に会いに行きます。一方で、自分を売り込みたいのでぜひ会ってくれ、と私にアプローチしてくる人もいます。この場合、私「が」会いたい人に会うのは仕事で、私「に」会いたい人に会うのは作業といえます。毎日経営者に会うのが仕事ですから、とりわけオーナー経営者にとって、会社はわが子のようなものなんだ、と実感しました。彼らがいちばんうれしいのは、良い人材にめぐりあうこと。優秀な人材との出会いは、自分の子どもに良い結婚相手が見つかるようなものなのです。
さて私は次に、オーナー企業である化粧品の販売会社に転職しました。その化粧品メーカーは、ヘッドハンティングの仕事をしていたときのクライアントでした。実はその前に外資系生保時代からご縁があったちがう金融機関に転職することを決めていて、転職の挨拶まわりをしていたのですが、「君、どうせ辞めるんならうちに来たまえ」と言われたのです。自分が女性化粧品を売るなど、それまでの人生でまったく考えたこともありませんでした。
この時代は、オーナー企業の経営についてさまざま学びました。野村證券のような大企業の役員でも、給料をもらう人です。オーナー企業では、オーナーは給料を払う人で、あとの全員は給料をもらう人。この構造が実に明解です。顧客の満足を得ることがビジネスの目標ですが、その前提でオーナーの満足を叶えなければなりません。仕事ができる社員が10名いるとして、1から10の能力順で出世するわけでもない。つまりいかに仕事ができるかよりも、いかにオーナーに信用されるかが重要なのです。そして社員の代わりはいくらでもいますが、オーナーの代わりはいません。さらには、オーナーの器が、会社の器の大きさになります。このようなオーナー企業の可能性や限界、功罪についてはいろんな議論が成り立ちます。
この時代、私は販売会社で東北・北海道を管轄する役職を務めていました。会社が、STV(札幌テレビ放送)の『ミクニプロデュース』という食の番組の提供スポンサーの一社になり、私はスポンサー企業の責任者として三國清三シェフと出会います。このことが人生を変えていきました。この番組は三國シェフが上質な食材を求めて北海道を旅するという主旨で、視聴率も高く、2年ほどつづきました。
上川町で実践するまちづくり
ご存知の方も多いと思いますが、三國清三シェフは日本海に面した北海道の増毛町の出身です。家が貧しかったので高校に行けず、中学を出るとすぐ札幌の米穀店に丁稚奉公に出ました。それから札幌グランドホテルの厨房に入り、さらに東京の帝国ホテルへ。わずか二十歳で駐スイス日本大使館の料理長に抜擢されます。
その後フランスのいくつもの三つ星レストランで修業を重ねて、80年代半ばに帰国すると、東京の四ツ谷に、オーナーシェフとして「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業。いまでは全国に15あまりのレストランやカフェを展開するほか、さまざまな公職にもつきながら、日本の料理界の先頭を引っ張るひとりとして活躍しています。2015年にはラグビーワールドカップ2019の組織委員会の顧問に就き、2020年の東京オリンピック・パラリンピックでは総料理長を務めるのではないかと目されています(組織委員会顧問会議の顧問に料理界でただひとり就任)。ちなみに帝国ホテル時代に就いた師匠の村上信夫シェフは、前回の東京オリンピック(1964)で料理長を務めています。札幌では、JRタワーが2003年に開業したときに、「ミクニサッポロ」をオープンさせていますね。2015年には、日本の料理人としてはじめて、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を受勲しています。私は三國シェフと公私にわたってお付き合いをするようになりました。
あるとき道北の上川町から三國シェフに、うちのまちでレストランをやっていただけませんか、と話が持ち込まれます。シェフは「塚原君どう思う?」と聞きました。「北海道の観光のためにも、やってみたら良いと思います」。「そうか、じゃあ会社作ってよ」。
それが、2013年にオープンした「フラテッロ・ディ・ミクニ」という上川町のレストレンと、(株)三國プランニングという会社です。上川町は、同じ町内の層雲峡温泉を含むリゾートエリアに育て上げようと、「大雪森のガーデン」という大規模な庭園の造成を計画していました。その中核施設のひとつとして、大雪連峰を望むすばらしい展望の丘にレストランを作り、地元の食材を最上質の料理にして提供しようというのです。
これは、人口4千人のまちが命運をかけたと言っても過言ではない大プロジェクトでした。私は、三國シェフとの出会いに導かれて、レストラン・ビジネスの最前線に立つことになり、さらには地域の価値やまちづくりについて深く考え、行動することになりました。
このレストランは、大きな裾野を持とうと考えました。それは、雄大な大雪の山並みを望む地元の個性的な風土と、土地の農家が作るすぐれた食材、さらには、上川町の人々の営みのすべてです。町長もシェフも私も、美しいガーデンの一画におしゃれなレストランができればそれで良し、とは考えていませんでした。そこで私は、町の人々を半ば当事者として引き込んでいくために、大きく3つの事業を行いました。
ひとつは、「おもてなし研修」。美しい自然やおいしいものがいくらあっても、町民がツーリストや観光に対して他人事であっては何も生まれません。上川に来て良かった、また来たい、と思ってもらうには、町民ひとりひとりに心からのおもてなしの気持ちが必要です。そこで、この分野の日本の第一人者である力石寛夫先生(トーマス アンド チカライシ株式会社)に何度も来ていただいて、おもてなしとは何か、まちにとってなぜそれが大事なのかをテーマに、町民研修を繰り返しました。
そして「音育授業」。X-JapanのボーカリストToshi さんを招いて、上川中学・上川高校の吹奏楽部と競演してもらいました。Toshi さんによる公演では、華やかなスターダムの陰にあった苦悩の日々のことも語られ、まちの未来を拓いていく子どもたちにとっても得がたい時間となりました。これは2年間にわたって取り組みました。
3つめは、三國シェフによる「食育の授業・料理教室」。オープン以来、層雲峡温泉を舞台に、ホテル関係者と町民を対象に、三國シェフ、堀川秀樹シェフによるセミナーを行っています。力石先生もToshi さんも、たいへんな多忙の中、北海道の上川町のために時間を割いてくれました。
こういうことを可能にしたのは、三國シェフの尋常ではないほどの幅広い交友です。私は、シェフがいなければ会うこともなかったような人々と、北海道を舞台にやりがいのある挑戦に取り組むことができました。「フラテッロ・ディ・ミクニ」は、これもまた三國シェフの友人の縁で上海に支店を出しました。北海道を舞台にした映画『狙った恋の落とし方。』(2008)などで、上海では北海道が大人気でした。しかしこの店は2年ほどで閉めました。中国人スタッフのまとめ方など、異文化の壁を体感する貴重な経験となりました。上川のオープンに先駈ける2012年には、東京国立近代美術館に、「ラー・エ・ミクニ」というレストランをオープンさせていました。皇居の一角にある(北の丸公園)この国立の美術館が、開館60周年を期にレストランを刷新したい。ついては三國さんにやってもらえないか、という話が来ました。シェフは、「塚原がやる、と言えばやるよ」と言いました。ここでは国立美術館とビジネスをするという貴重な経験が積めました。
出会いのベースは緑丘会
三國シェフに学んだことを、整理してみます。まず、大切な人に対する徹底した研究と下調べ。相手の好きなもの、嫌いなもの、趣味をしっかりと調べます。「ラー・エ・ミクニ」であるときこんなことがありました。美術館のとなりに国立公文書館がありますが、そこで「「JFK-その生涯と遺産」展という企画展が開かれました(2015)。ジョン・F・ケネディ米国大統領の生涯をたどるものですが、このとき長女のキャロライン・ケネディ駐日米国大使が、「ラー・エ・ミクニ」でパーティを開きたいとおっしゃるのです。ちょうど桜の季節なので店内に桜の木を大胆に使った装飾を計画して報告したところ、ゴーサインが出ました。しかしこれを聞いた三國シェフは私に、ケネディ大使は何分咲きの桜が好きなのか、と質問しました。桜に対する美意識は国や地域、個人の考え方でみな異なるんだよ、と。なるほど一流のおもてなしを実感しました。
またあるとき、上川町長から、京都出張の折に祇園ミクニに寄りたいので予約をしたい、と連絡がありました。私が手配をしましたが、あとで知ったのですが、三國シェフは忙しい予定を縫って、その夜のために京都で町長を出迎えていました。また、三國シェフはパリの有名レストランの予約を頼まれることもあるのですが(三國シェフは有名シェフとの交友も深いのです)、ある方のために取った席が、ドタキャンされてしまったことがありました。このときも、「申し訳なかった」とそのシェフに謝るためだけにパリに飛んだそうです。
ことほどさように、シェフはお世話になっている人や友人を大切にします。すんだことは仕方ない、謝ったから良いだろう—。三國シェフはそう考えません。謝罪を受け入れてくれるかどうかは、あくまで相手が決める。ならばできる限りのことをしなければならない、と行動するのです。野村證券での経験をはじめ、ヘッドハンティングの仕事でも、私は日本の超一流といわれる経営者や企業人、スーパーセールスマンたちに接してきました。しかし三國シェフの仕事ぶりは、その誰とも似ていません。そういう仕事ぶりを身近で見てきて、私はいまも毎日学ばせてもらっています。
最初の話にもどりますが、上川町での酒造りに関しては、資本関係はありませんが、三國シェフも支援を惜しまずにいてくれています。また上川町をはじめとした関係の皆さんも、三國シェフがついているから塚原を応援してやろうじゃないか、という気持ちでいると思います。「出会いの縁」が、私を上川での酒造りに導きました。そして「出会いの縁」では、なんといっても私にとって、緑丘会は掛け替えのない存在です。上川の名水と優良米で日本酒を醸して、観光に役立てることができないだろうか? 友人とそんな構想を温めていたころ、私はまず緑丘会の先輩に相談をもちかけました。そこでいろんな方々を紹介していただき、あるいはたくさんの先輩に有形無形の応援をいただき、プロジェクトを進めることができました。
法人を立ち上げるときには、島崎憲明理事長をはじめ商大OBに具体的な応援をいただき、40代の私を含めて、世代を横断した商大OBの挑戦がはじまっています。こうした背景から蔵の名前を「緑丘蔵」としたのですが、メディア上ではあくまで、上川町の緑の丘にあるから「緑丘」です、ということにしています(笑)。島崎理事長が以前、商大の後輩へのメッセージとしてこんなことを書かれていました。「自分の意見をはっきり云える人で、人から好かれる人は、社会に出てからも大きく成長できる人だ。自分の今を客観的に評価して、足りないところはそこを強くする努力をしてほしい」。さらには、「人間は努力によって大きく変わることができる。今の力では少しハードルが高いかな、と思われることに挑戦し、それをクリアするために努力をする。この繰り返しよって人は成長していく」、と。
私のこれまでの経験からも、まったくその通りだと思います。いまの自分には少し難しいかな、と思っても、とにかく思い切って挑戦してみる。そこからちがう景色が見えてくるのです。緑丘会の先輩たちはどこでどんな仕事をしていても、いつも皆さんのことを気に掛けています。そのことを意識してみてください。緑丘蔵もまさにその一例であり、私はこれからも、諸先輩の期待や応援に恥じない事業を育てていくためにたゆまず進んでいきます。
<塚原さんとの質疑応答>
Q(担当教員) 緑丘蔵の成り立ちやビジョンについて、重ねて教えていただけますか?
A 日本では90年代に地ビールのブームがあり、その後多くの醸造所が淘汰されていきました。しかし北海道はいまでも全国で最も地ビール醸造所の多い土地です。では日本酒はどうでしょう。北海道は日本の国土の22%の広さをもち、品種改良の努力や地球温暖化の影響などによって、質量とも日本一といえるくらいの米どころとなりました。しかし酒蔵は、全国に1500もあるうちの11しかないのです。これはどう考えてもおかしい。
清酒の製造免許は、新規で許可されることは難しい状況です。そこで私たちは休眠していた三重県の友人の酒蔵を買い取って、上川町に移転するというスキームに挑戦しました。これほどの遠距離を移動しての日本酒造りは、全国でも前例のない取り組みでした。
上川町には年間2百万人が訪れる層雲峡温泉がありますが、地域の名物は少ないのです。上川や層雲峡の顔になる銘酒ができれば、まちや温泉街にとっても必ずプラスになると、関係する皆さんも応援してくれています。その意味で緑丘蔵の立ち上げは、新たなモノづくりでありまちづくりの一環でもあると思います。
Q(担当教員) 塚原さんが考える、まちづくりの成功の定義や、成否のポイントはどのようなものでしょうか?
A 一般に何かあたらしいことを起こすと、「もうかる人、もうからない人、関係ない人」が出てくるでしょう。しかし緑丘蔵の事業は、近郊の酒米の生産者さんや上川町(役場)や町民の皆さん、そして観光協会、商工会、観光で訪れる皆さん、さらには同業社など、たくさんの人々との関わりの上に成り立ちます。私たちはできるだけ多くの人たちに益を提供したいと考えています。
そのためには、密接なコミュニケーションが欠かせません。三國シェフのふるさと増毛には、日本最北の酒蔵である、老舗の国稀酒造さんがあります。実は私は、緑丘蔵が日本最北になってしまうことを恐れていました。新参者が老舗の看板を汚すことは許されません。蔵の位置を正確に調べると、国稀さんの2キロくらい南だとわかり、心底ホッとしたのです。益を得る人を全方位にできるだけ増やしていくこと。そしてそうした努力が「末長く持続的に実を結ぶこと」。それができてはじめて、まちづくりの成功と呼べるのはないでしょうか。
Q(学生) 仕事で良い出会いを叶えるためにはどんな心がけが必要でしょうか?
A 出会いの奇跡をジッと待っていても何もはじまりません。ゴルフがうまくなるためには、うんとうまい人とプレーをするのが近道です。人づきあいでも同じ。友人・知人がたくさんいる人のマネをすれば良いのです。外資の生保企業に勤めていた時代。私にはすばらしい部下がいました。彼も転職組ですが、移ってきても、前職で関わったお客さまや上司・同僚など、ほんとにたくさんの人に愛されて、交友を維持していました。どうしてそんなに好かれるのか—。私は人づきあいにおいて、彼の言動のマネをしようと思いました。いまでもその気持ちを失っていません。
Q(学生) 良い転職をするために大切なことはなんでしょう?
A いまの話につづきますが、会社を替えても、人のつながりはリセットしないことです。そういう転職はキャリアアップになると思います。なにもかも新しい人間関係と仕事環境を作ろう、などと考えるような転職は薦められません。皆さんもやがて、もし転職するかどうかを考える局面に立ったとしたら、このことだけは覚えておいてください。