2017.10.25
平成29年度第2回講義:「農業におけるビジネスマインド〜めげなければなんとかなる」
概要
○講師:中村 好伸 氏(昭和62年管理科学科卒/新篠津つちから農場株式会社代表取締役)
○ 題目:「農業におけるビジネスマインド〜めげなければなんとかなる」
○内容:商大を卒業するとき、私は将来自分が農業をしているとは想像もしていなかった。しかしいくつかの転職を経て農業こそが自分を活かす道だと確信したとき、たくさんの知恵や勇気がわいてきた。「あきらめずにつづけること」。進路選択の参考になるように、商大で学んだことのひとつでもあるこの思いについて話したい。
あきらめないで続けたら、好きなことで生きていける、自分の芝生は、自分で青くしよう
私は新篠津村(石狩管内)で、新篠津つちから農場(株)という農業法人を経営しています。昭和の終わり近くに商大を卒業して、まずニッカウヰスキー (株)に就職したのですが、それからいろんな仕事を経験して現在にいたります。先輩や友人たちから、「中村大丈夫か?」と心配された時期もありました。でもいま、自分がほんとうに好きでやりたいことに取り組みながら、なんとかなっています。今日はその回り道についてお話しします。
伝えたいのは、「めげずに続ければなんとかなる」、ということです。私は体験的に知りました。辛いことがあってもめげずにがんばっていると、神様がどこかで見てくれていて、少しだけ助けてくれるのです。でもめげちゃうと、神様の視界からふっと消えてしまう(特定の神様の話ではありませんよ)。皆さんも卒業して仕事につくと、とにかくいろんなことにぶつかります。
今日は、進路を選ぶときに参考になる、世の中の見方や考え方が提供できたら良いと考えています。
私は、大学進学のとき文学部志望でした。その希望がかなわず商大に来ました。正直にいうと、最初はなんだか都落ちの気分でした。ずっと札幌に暮らしていましたが、となりまち小樽のことはほとんど知らなかったのです。しかしです。入学して慣れてくると、小樽のまちが大好きになりました。海があって山があって坂がある。まちがコンパクトにまとまっている。坂を走って登る人はいませんから、ゆっくりと人間のリズムで暮らせます。こんなすばらしいまちがあったのか、と驚きました。その思いは53歳になった今も変わりません。
智明寮に入り、部活はボート部と応援団。実はヨットをやってみたいと考えていたのですが、ボート部の人に勧誘されて、まあ似たようなものだからいいか、とボート部に入ってしまいました(ほんとは全然ちがいますけどね)。それから寮の先輩に応援団員がいて、強引に誘われたので、勢いで「はい入ります!」 と言ってしまいました。端から見ると応援団って、ヘンな学生の集まりに見えるかもしれません。汚くて垢抜けなくて。でも私がそこで得たものはとても大きいのです。自分の限界100%までがんばってみる。そんな経験はなかなかできないと思います。「めげずに続ければきっとなんとかなる」という今日の話も、そのあたりに根ざしています。
ボートも、端から見たら単調でどこがおもしろいの? と思うでしょう。たしかにそんなにおもしろくありません(笑)。私は人より闘争本能がないので、勝ち負けやゴールに飛び込む達成感とか、なかなか理解できなかったのです。でも辞めませんでした。入った以上辞めたくない。自分に対するそんな意地だったと思います。ボート部は茨戸(石狩市)で早朝練習をするのですが、練習を終えてから一限目の語学の講義にちゃんと出ていました。やはり商大が大好きだったのですね。「となりの芝生は青い」といいます。自分が満足できていない状況にいれば、他人がいる場所や他人がやってることは、絶対にうらやましく見えます。となりの芝生は必ず青いのです。でも、そこに自分が移ってうまくいくでしょうか? いかないと思います。男女交際でも、男があっちこっち目移りしていると、どんな女性も愛想を尽かします。きっかけはともあれ、選んだのは自分です。ならば自分のいる場所は自分で青くするしかありません。卒業していろんなことを体験してきたいま、私は強くそう思います。
就活では、モノづくりの会社に入りたいと思いました。卒業した1987(昭和62)年はいわゆるバブル経済で、世の中すべてが右肩上がりに動いていました。銀行や生保、損保など、何社もの大手企業から内定をもらっている仲間が珍しくありませんでした。私が選んだのは、ニッカウヰスキー。東京の南青山にある本社の経理部に勤めました。取締役くらいにはなってやる! そんな思いで入社しました。
ニッカは良い会社でした。品質の高いものを作っているし、家族的。若い社員にも仕事を任せてくれました。でも私は、5年でやめて北海道に帰ってきました。嫌なことがあったわけではないのです。生産現場の工場に行きたかったのですが、経理なのでずっと内勤です。営業職になれば営業所のあるまちで偉くなるという進路もあったでしょう。
でも疑問に思ったのです。何カ所か転勤して、そのあと将来東京に戻りたいだろうか、と。東京は自分の居場所ではないと思いました。そしてとりあえず北海道に戻ってみようと思ったのです。生まれ育った北海道でなら、自分の居場所があるはずです。当時高島(小樽市)にフィッシャーマンズハーバーというレストランがありました。そこが冷凍刺身の宅配事業を新しくはじめることになり、その営業として勤めることにしました。
そこは独自の冷凍技術をもっていたので、冷凍の寿司とか、のちには冷凍おせちとか、ユニークな商品を自社で開発していました(冷凍おせちはのちに遅配が大問題になったのですが)。はじめての営業職で、飛び込み営業です。残念ながら見事に売れませんでした。私はもともと内向的でシャイな人間です。千歳空港のショップを一軒一軒まわろうと空港に行ったものの、飛び込む勇気がわかずに空港の中を半日うろうろしていたこともありました。そんな調子だったので、やがてこの事業は中止。使えないやつ、というレッテルを貼られてしまいました。夢と希望にあふれて帰ってきましたが、挫折でした。
次は、ゼミの先輩が手を差しのばしてくれました。先輩は小樽でラーメンの製造販売の会社を経営していたのです。北海道物産展で本州のデパートなどをまわりました。ブース販売で、自分のシャイな殻を少しは破ることができた時代です。どうしたら立ち止まってもらえるか、どうしたら人を集められるか。やがて買ってくれる人とそうじゃない人が見分けられるようになりました。顔はブースを向いていてもつま先が横を向いていたら、その人はまず買いません。逆も真です。つま先が横を向いている人に話しかけて立ち止まらせると、ほかの人も自然に寄って来ます。おもしろいことに、人がいると人は寄ってくるのです。
そして主婦が大好きなのが、詰め放題。自分でシミュレーションして、めいっぱい詰めて5袋、それで赤字にならないような値付けをします。ところが始まってみると、破れる寸前6個も7個も詰める人がいる。恐るべき執念です(笑)。前任者の倍くらいの成績があがるようになりました。
このラーメン営業の時代に、思わぬ形で農業とのつながりが生まれます。皆さんの世代ではあまり知らないと思いますが、栗沢(岩見沢市)で自然志向の暮らしを手作りで実践している河村通夫さんという人がいます。建築から庭、料理など、独特のセンスとすごい技術をもっています。食や園芸資材など、自分の名前を冠した商品を開発しています。もともとはシンガーでススキノでライブハウスを経営していました。現在まで30年くらいラジオパーソナリティもしています。この河村さんのところに、ラーメンを共同で開発しませんか、と会いに行きました。
何度か会っているうちに、中村君、俺のところ(株式会社創芸の会)で働かないか、という話になりました。よしやってみよう。そう決めました。といってもふつうの会社ではありません。私はいわば弟子みたいなスタッフです。
お金も、給与ではなく生活費。米や野菜は自給自足ですから、生活費はそれほどかかりません。といっても暮らしていくのに現金は必要ですから、経済的にはとても厳しくて、家族には苦労をかけました。現金収入は、子どもの小学校の給食費が免除になってしまうくらいのものだったのです。嫁さんも「大丈夫かこの人?!」と思ったでしょう。しかしなんとかついてきてくれました。彼女は商大の同級生で、妹背牛の農家の次女だったので、農業に対する抵抗をもっていなかったのが救いでした。32歳から38歳まで、河村さんのもとでとにかくいろんなことをして、得がたい時間をおくりました。本格的な農業に出会ったのもこの時代です。
でもこのままずっと居続ければ、一生河村さんの世界で生きていくことになる。やがては自分の世界、自分の本当の居場所を自分で作らなければならないと考えていました。40歳ちょっと前。高校や商大の同期の多くは、有名な会社でバリバリ働いています。高校(札幌北高校)の同級には医者や弁護士もいる。一方で自分は毎日畑で草むしり。自分でも「大丈夫か中村?!」と問いかけることが増えていきました(笑)。
河村さんに感謝しながらも、次の一歩をどうするか? いろんなことをやった中で、いちばん好きだったのが農業でした。人は好きなことをやっているとき、たとえ悪戦苦闘していても、苦しいとは思いません。がんばっていることを特別な努力とは思いません。苦しんでいる人ほど、自分はがんばっている、努力している、と思うでしょうけれど。特別負けず嫌いでもなく、努力家でもない私です。歯を食いしばって努力を重ねる、といった才能がない私にできることは、自分が楽なこと(のんびりサボっていられる、という意味ではないですよ)。それが農業だったのです。
自分の居場所を見つけたら、めげてなんていられない
農業をしよう。でもどうやって? 元手も伝手(つて)もありません。私は、後継者のいない農業法人に入社しようと思いました。そうして見つけて入ったのが、いまの会社の前身、新篠津村の有限会社佐藤農産です。2012年のことでした。社長はとてもすぐれた技術をもつタマネギ生産者でした。私はプロ中のプロの技術を教わってはやく一人前になりたいと張り切っていました。しかしです。河村さんのところでひととおり畑仕事を覚えていた私ですが、プロの目からはしょせんアマチュア。大事なことを何も教えてくれず、機械の運転など重要なことはさせてもらえません。40代半ばに近づいても、来る日も来る日も、草取り(有機栽培なので除草は手作業です)と配達ばかり。社会の一線でバリバリ活躍している同期たちの顔がまた浮かび、広がるばかりのその差にあせります。しかし愛する子どもを3人かかえて、いまさら転職はできない。
私は、教えてくれないなら、まわりの農家など、誰彼かまわず技術を盗もうと決めました。機械の扱いから肥料の撒き方、トラックのロープ結びまで、人がやるのを見て、聞いて、本で調べ、自分で練習しました。
そんなあるとき、地域の慰労会に温泉に出かけた社長が、風呂場でころんで肩の腱を切る大けがをしました。すぐ長期入院です。仕事のやりくりはすべて私が担うことになりました。「それ見たことか。あいつなんかに任せられない」などとは、絶対に言わせたくありません。毎日必死でした。三日にあげずに病床に通って指示やアドバイスを受けながら、私はなんとか実務を取り仕切り、少しずつ自信がついていきました。
そうした成果が認められて、2008年に法人の社長になり、2013年には先代から法人を買い取って、文字通りの農場主となりました。「めげなければなんとかなる」のでした。先代社長から法人を買い取るときにも、いろんな気づきと学びがありました。まず農協に行って融資を申し込みましたが、取りつく島もありませんでした。農協の上部組織の信連や、役場や道庁に相談してもらちがあかない。もうだめか、と思ったらそこで終わりです。いろいろ調べるうちに、日本政策金融公庫を知りました。はたして相談に行くと、「はい、融資できますよ」、と。エッ、ほんと?!と思いました。農協などは徹底した土地担保主義ですが、そこはあくまで融資先の返済能力を基本に見るのでした。
さて今日のテーマになりますが、私がめげなかったから、親方が風呂場で転んでくれました(笑)。このままじゃ先行きおぼつかないな、とあきらめていたら、いまの私はありません。ここが自分の居場所だと確信したら、石にかじりついてもとにかくがんばるしかない。皆さんも会社勤めをしたら、必ずこんなことを言いたくなります。
「上司にめぐまれないから自分は伸びない」「あいつは良いクライアントを引き継いでいるのに自分は…」。でもそんな言い訳は通じません。続けようと覚悟を決めるからこそ、壁を乗り越える知恵も湧いてきます。私の場合は家族がいたから、石にかじりつくしかなかった。そうしたら神様が気づいてくれた。
ここが自分の居場所だと信じたら迷わない。「めげなければなんとかなる」。私は、「あきらめないこと」が自分が持っている数少ない才能なんだ、と確信しました。「新篠津つちから農場」という名前は、「土」と「力」からできています。「土力」は「どりょく」とも読めます。
うちでは先代の時代から、有機栽培と特別栽培でタマネギをつくって販売しています。有機栽培とは、堆肥(うちは自家製)を基本に使って、化学合成された肥料や化学農薬を使わない農業。特別栽培とは、化学肥料や化学合成農薬を、慣行農法の半分以下に減らしている農業です。
先代社長は、効果があると思ったらなんでもいろんな手法を持ち込む人でした。私はその反対に、健康な土作りを基盤にしたできるだけシンプルな農業をめざしています。有機肥料は、タマネギに与えるものではなく、まず土の中で生きている微生物の栄養としてあります。研究機関に調べてもらいましたが、うちの畑には、北海道の平均的な畑の4倍以上、1グラム中に12億以上の微生物が元気に生きています(この数字には皆さん驚くでしょう)。
畑は機械工場ではありませんから、人間が一方的にコントロールできるものではありません。このたくさんの微生物が活発に活動しながら複雑に関わり合って、タマネギを甘くおいしくしてくれるのです。
自然の摂理からいえば農業は大地に、きわめて不自然な状態を強制します。私はそれをできるだけマイルドに、土を自然の状態に近づけたい。そこで鍵を握るのが、微生物です。私たちのタマネギは、札幌市内や一部首都圏の高級スーパーでなども販売され、加熱するととても甘い、と評価されています。健康な土(微生物が活発に活動している土)から生まれる健康なタマネギは甘くておいしいのです。私が社長になり畑も売上も拡大してきました。
でも売上(今年度で約2.6億円)を伸ばすことが事業の目的ではありません。私たちの目的は、当社のタマネギを食べた人、料理に使った人が満足することにあります。また今年から私は、ロシア・サハリン州のユジノサハリンスクの農場で、タマネギ栽培の技術指導をはじめました。北海道銀行さんが間に入り、農林水産省の協力もいただいている事業です。向こうの栽培技術は北海道から見てまだ遅れています。その基盤づくりを助けたいと思いました。北海道のタマネギはサハリンで高級品として認知されていますから、その下のランクのタマネギの生産を支援することで、北海道農業をうまくアピールすることもできます。最後にまとめます。私の好きな言葉があります。「Warm Heart, Cool Head」。人間の営みのすべての基盤はハートです。でもハートが命じるままに突っ走ってはいけません。もうひとつの要素、冷静な頭脳が欠かせないのです。私はただやみくもに、ハートが命じるままに「めげずに続けた」わけではありません。クールな思考を持ちながら、ときどき休んでも良いから「めげずに続ける」。そうすれば神様はきっとあなたに気づいて助けてくれます。
<中村好伸さんへの質問>担当教員より
Q 北海道農業の課題や未来をどのようにお考えですか?
A 日本の農業はもともと国の施策に大きく左右され、政治との関わりがとりわけ深い産業です。そこから、生産者にはどうしても他者に依存する傾向が生まれます。大きな構図で捉えれば平成30年度で米の生産調整が終わるとか、北海道農業についていろいろなことが言えますが、いま私個人としては、農業の進路の問題を政治や誰かのせいにするつもりはありません。天下国家を論じる前に、自分の畑のことを毎日いっしょうけんめいやるだけです。
<中村好伸さんへの質問>学生より
Q 農業はもうかりますか?
A 世界のマーケットを目安にすればもうかりません。これははっきり言えます。北海道の農業は、日本の中では規模が大きいとはいえ、欧米やオーストラリアのスケールに比べればとても勝負になるものではない。規模と効率では絶対にかなわないのです。問題は、自分の農場をどこにどう位置づけるか。日本のマーケットの中で自分たちなりの上質な農業を実践して上手にビジネスをまわしていくことは、十分に可能です。私の会社は、まさにそれを実践しています。
Q どうしたらめげない心が持てるようになりますか?
A 自分の居場所、自分がほんとうに好きなことを見つければ良いのです。好きなことなら、誰でも簡単にはめげないでしょう。でも仕事にできる好きなこととは、趣味ではないので、自己満足、自己完結で終わってしまってはダメです。誰かを満足させたり、幸せにすることでなければなりません。そして大切なのは、好きなことが成り立つ場所にしっかり根を張ること。根が強ければ、大風がどの方向から吹いても、ヤナギの木のようにしなやかに受け流すことができます。ポプラのように根が浅くてまっすぐ立っているだけなら、強い風に負けて折れてしまいます。