2017.11.22
平成29年度第6回講義:「自動車事故紛争処理について」
概要
○講師:城(しろ) 隆二 氏(昭和50年商学部経済学科卒/損害保険料率算出機構 神戸自賠責損害調査事務所認定第一課長)
○題目:「自動車事故紛争処理について」
○内容:損害保険の世界で仕事をして今年で43年になる。東京海上火災保険(株)に入社して、青森を皮切りに東京、福岡、や京都、大阪、名古屋などの8場所で、主に保険金支払い部門に勤務してきた。皆さんの将来の進路への何かのヒントになることを願って、損害保険の成り立ちや、日本の自動車保険の変遷、そして交通事故の紛争処理について、損害調査部門の現場の経験をもとに話したい。損害保険の働きを通して社会をとらえる構図が少しでも広がれば幸いである。
社会のリスクに備える仕組みの現場でモータリゼーションとともに生まれた自賠責保険
私は旭川に生まれ育ち、1971年に小樽にやってきました。当時の商大は一学年285人くらいで、いまの半分ほどの規模でした。道外から商大に来た人も半分近かったような印象がありました。部活はバレーボール部でした。当時はバレーボールがたいへんな盛り上がりで、なにしろ1972年のミュンヘンオリンピックでは男子が金メダル、女子が銀メダルを取ったのです。道外との行き来に、ふつうの人は青函連絡船を使っていた時代です。また沖縄が日本に返還される前(1972年5月返還)で、沖縄から「留学」で商大に来た仲間もいました。今日は、いま暮らしている神戸から母校に帰ってきたのですが、43年ぶりです。皆さんにとって、1970年代はずいぶん遠い過去だと思います。
1975年に東京海上火災保険(株)に入社しました(現・東京海上日動火災保険)。まず青森に勤務して、東京、福岡、京都、和歌山、大阪、名古屋などに勤務しました。日本のあちこちを回りましたが、残念ながら北海道勤務はありませんでした。歩んで来たのは、主に交通事故の処理に関わる分野。適正な損害調査をもとに示談交渉を行い、自動車保険金を支払う仕事です。2003年から、損害保険料率算出機構という組織に移りました。ここは保険料率の算出や自賠責損害調査などを通して損害保険の仕組みを支えている、国交省管轄の「損害保険料率算出団体の関する法律」に基づいて設立された法人(民間団体)です。今日は自動車保険に長く関わってきた経験から、自動車事故の紛争処理について、そして損害保険の役割などの話したいと思います。
自動車保険とは、自動車の運転や所有に関わって発生する損害を塡補(てんぽ)するために作られた保険です。日本では1914(大正3)年に最初に発売されました。当時は事故での損害賠償(被害者・加害者)を填補する保険というより、あくまで自動車というとても高価な財物に対する保険でした。現在の自動車損害賠償保障法(自賠法)が民法の中の特別法として制定されたのは、そこからはるか先の1955(昭和30)年のことでした。時代背景を考えると興味深いでしょう。昭和30年代は、敗戦からの復興を経て日本の経済成長がはじまるころです。昭和23年の日本の自動車保有台数が22万台だったのに対して、28年には100万台を突破。そして1960年代後半から、高度成長が引っ張ったモータリゼーションの勢いはさらに加速します。
私が商大を卒業した1975年の保有台数は2600万台で、昨年2016年には8090万台。そして自動車の普及と同時に、自動車保険の普及率もぐんと伸びていきました。少し前を見ると2011年の自動車保有台数は7910万台でしたから、直近の5年間では、微増傾向にあります。自動車が増えれば当然事故も増えます。60年代70年代のモータリゼーション急進期には、死亡事故も一気に増えました。1970年の全国の交通事故死亡者は、1万7千人近く。2015年は4千百人程度ですから、実に4倍です(負傷者は、1970年の98万1千人に対して20105年は66万6千人)。死傷者の減少には車の安全性能のアップや道路網の整備、医療技術や医療体制の進歩など、さまざまな要因があるでしょう。1970年代には、これだけ多数の死者がいたわけですから、交通戦争という言葉が報道でよく使われました。
先にふれましたが、現在の自賠責保険の形ができたのが1955年。増える一方の人身事故に対して、その被害者や遺族を救済するための社会的役割が求められたのです。では損害賠償とはそもそもどういうものでしょうか。それは不法行為によって他人に与えた損害を塡補(てんぽ)すること。他人の身体や財物を毀損するなどの不法行為責任を問う民法第709条、契約を守らないといった債務不履行責任を問う民法第415条、不良な商品を売るなどの瑕疵責任を問う民法第563条などの一般法がもとになっています。
その中で、「自動車事故で人身に損害を与えた場合」に限って適用される特別法が、自動車損害賠償責任法(自賠法)です。その法律に基づき、自動車損害賠償保険(自賠責保険)が1955(昭和30)年から発売されました。この保険の特徴は、まず全ての自動車に強制付保されるものであること。これがないと車検を通すことができず、公道を走れません(米軍や自衛隊車輌などをのぞく)。そして被害者保護の観点から、責任原則を無過失責任主義(過失がほとんど無い場合でも賠償責任を負う)に近づけています。
また、保険会社としては事故によって損失と利益のどちらも得ることのない、ノーロス・ノープロフィットの原則があります。発売当時は損保会社もまだ体力が弱かったので、国が危険保険料の60%を再保険で引き受けることになりました(2002年4月から国による再保険は廃止されて損保会社が100%引受)。再保険とは、保険会社が引き受けた保険責任の一部(または全部)をほかの保険者に移転する仕組みです。自賠責には、損保会社が販売しているものと、JA共済連などの団体が販売しているもの自賠責(共済)があります。これはすべての自動車について契約することが義務づけられた強制保険(および共済)ですから、契約なしで運転した場合は罰則が科せられます。
自賠責には、被害者保護の立場から社会保障制度的な要素が強くあるのですが、支払われる対象はあくまで人身事故による損害。つまり車輌などの物的損害は対象外なのです。保険金の支払い基準は国によって定められ、多くの部分が定型・定額化されています。これはたくさんの請求を迅速かつ公平に処理するため。自賠責の支払い保険金支払限度額は被害者1名ごとに決められて、傷害、後遺障害、死亡の3分類があります。傷害では現在は120万円が限度額で、事故によって後遺症が残ってしまった場合の後遺障害では、1級から14級まで等級があり、いちばん重い1級で4千万円。死亡の場合の限度額は3千万円。後遺障害の保険金額の方が大きいのは、介護費用の家族負担などが考慮されているからです。自賠責(および共済)では、被害者は加害者の了解などを得る必要も無く、損害賠償保険金を請求できます。当座必要になる出費にあてるために仮渡金の制度もあります。
支払い限度額の基準について。例えばアメリカでは州ごとに違っていて、ニューヨーク州では死亡で5万ドル(600万円程度)ですから、日本の方がかなり手厚いことがわかります。日本同様アメリカでも、これに加えて任意保険が上乗せ保険として使われています。事故が起こり自賠責保険の取り扱い損害保険会社への請求が発生すると、損保会社は支払いに関するさまざまな情報を書面で請求者へ提供します。後遺障害の等級についてなど、損保会社の決定に異議がある場合は、異議を申し立てることができます。異議が解決されない場合は、国の監督を受けた専門の機関である「一般財団法人自動車保険・共済紛争処理機構」が問題を引き取り、弁護士や医師などからなる紛争処理委員が公正中立の調停を行います。
自動車事故の紛争処理の世界
実際に事故が起きてしまった場合、かつては当事者同士の話合いで解決をはかりました。事故の現場で、大声で言い合いをしているドライバー同士、などという光景も多くありました。しかし過失割合の客観的な判定などは、当事者同士では決められません(一般に例えば追突の場合は加害側が100%過失となりますが、出会い頭事故では紛糾することが多い)。当事者同士では感情的な差しさわりもあり、話がこじれることも少なくなかったです。そこで昭和50年代からは、保険会社による示談代行が開始され、それが一般的になります。
ちょうど私がこの業界に就職したころで、東京海上の同期は180人くらい採用されました。以後、交通事故の増加にともなう紛争解決が損害保険の業界での主流となり、自動車保険が大きな柱になっていくわけです。自動車事故の紛争処理では、行政や弁護士会の相談窓口もあり、それらでも解決しない場合は裁判所による解決(調停、裁判上の和解、判決)が図られます。弁護士資格を持たないのにこの種の紛争に介入することは禁じられていますが、交通事故が急増した時代にはさまざまな介入者がいました。いわゆる示談屋の横行です。例えばレッカー業者の中には、警察無線を傍受していちはやく事故現場にかけつけて示談の手数料を取る者がいました。あるいは、暴力団の民事介入という暗躍がありました。それ以前では、北九州の筑豊炭坑地域などでは、鉱害屋と呼ばれる人たちがいました。これは石炭採掘に伴って起きた地盤沈下などによる建物、土地被害の現場で、炭鉱会社と被害者とのあいだに入って荒っぽく手数料を取っていた業者。その後彼らが交通事故を飯の種にするようになりました。
また行政書士の中には非弁活動に抵触する悪徳商売をする人もいました。このほかに保険金の過大請求があったり、質の良くない病院での濃厚治療(医療費の高額不正請求)がありました。
損害賠償額の高騰もあり、自動車の人身事故が増えるにつれ、公正中立な基盤にある損害保険会社へ社会が寄せる期待は増す一方でした。1974(昭和49)年、家庭用自動車保険が発売されました。その1年後に、業務用自動車保険が新設されて、さらに1976年には家庭用と業務用のふたつが統合されて今日の自動車保険の形が整います。自動車事故の処理はしだいに、被害側と加害側双方の保険会社同士が連絡を取り合って行うようになりました。紛争の元であり、解決の鍵を握るのは、過失割合の算定です。追突事故や駐停車している車との事故は基本的にゼロ%対100%で算定されますが、交差点での出会い頭の事故など、双方に過失があるケースが多いものです。
現代では、裁判にいたる以外の解決を図る手段に、いろいろな窓口が用意されています。「そんぽADRセンター」という一般社団法人日本損害保険協会が開いている窓口が全国に10カ所ありますし、公益財団法人交通事故紛争処理センターは全国11カ所、また日弁連が設けている相談所は全国155カ所あり、うち42カ所では示談の斡旋や事故内容の審査業務を行っています。また近年の自動車保険には、特約で弁護士費用をまかなうオプションも用意されています。過失割合の算定については、「民事交通訴訟における過失相殺率の認定基準」(別冊判例タイムズ)という、自動車事故処理に関わる人にはバイブル的な本があるので、覚えておくと良いでしょう。
では、交通事故での高額賠償の判決例としてこれまでにどんなものがあるでしょう。死亡事故では2011年に横浜で、5億2千万円の損害賠償金の支払いを求める判決がありました。被害者は41歳の男性眼科開業医でした。また同じく横浜で後遺症が残った21歳の男性大学生の事故でも、4億円近い損害賠償金の判決がありました。どちらも逸失利益、本来得られる所得などが得られなくなったことを賠償せよ、という意味あいで高額になります。若者であれば平均余命までの歳月が長くなります。物件事故では、呉服や毛皮を満載したトラックとその運転手に被害を与えた加害側に、2億6千万円の賠償を求める判決がありました。この教室の中で自動車免許を持っている人はどのくらいいますか?(挙手約4割)。若者の自動車離れや、自動車を所有する環境の変化で持ちづらいことはあるにせよ、自動車免許は時間に余裕のある学生時代に取っておくと良いと思います。
さて、自動車を取り巻く環境は近年どうなっているでしょう。ご存知の通り65歳以上の高齢者の人口比は過去最高です。高齢者がブレーキとアクセルを間違えて起こす事故が報道ニュースを賑わせています。運転中に脳疾患などを起こしてしまう事故もあります。70歳以上の人の免許更新には高齢者講習を受けることが義務づけられていますが(1998年から)、今年(2017年)の3月からは、75歳以上のドライバーに「臨時認知能検査」と「臨時高齢者講習」が義務づけられました。長谷川式認知症スケールという、多くの医療機関でも使われているチェックシートを用います。一方で皆さんのような若者は、自動車から縁遠くなる傾向にあります。自動車は所有するものではなく、シェアするもの。そんな意識が広がっていくようですね。また、電気自動車や、高度なAIが動かす自動運転のシステムなど、自動車自体がこれから大きく変わっていくことも事実でしょう。安全に関わる機能も自動運転によってさらに進化していきます。
自動車保険はどうなっていくでしょうか?1995年、阪神淡路大震災があったときに大阪に勤務していた私は震災に伴う膨大な仕事に取り組みましたが、スマホはおろか携帯電話もまだ一般の人が使うものではありませんでした。バッグのように肩に掛けて持ち歩くものがありましたが、当時は最新の大きなトランシーバーくらいのものを購入し使っていました。それがいまは胸ポケットに入る薄っぺらなスマホで、昔の携帯電話では到底想像できなかった機能をもっています。技術の進化は、私たちの社会を劇的に変えていきますね。損保業界では現在、自動車関連の商品が売上の半分ほどを占めています。しかしこのような商品のラインアップがこの先長く続くことはありません。一方で損害保険とはもともと、人々の生命財産に関わるさまざまなリスクに対する備えとして生まれたものです。例えば未来に自動車というものがなくなったとしても、人間の生命財産に関わるさまざまなリスクが無くなることは決してないでしょう。そこに損害保険が存在し機能する理由と価値があります。
<城 隆二さんへの質問>担当教員より
Q 自動車事故の紛争処理では難しい局面もさまざまにご経験されたと思います。自動車保険に関わる仕事のやりがいはどんなところに感じてきましたか?
A 死亡事故での遺族との示談交渉や、後遺障害を負ってしまった被害者やそのご家族との交渉など、こちらが誠心誠意努めなければ事が進みません。一方で、保険を悪用しようとする人もいます。善良なお客さまから預かったお金をムダにするわけにはいきません。
いずれにしても、紛争解決の仕事は、世の中で誰かが必ずしなければならない仕事なのです。事故の当事者の双方が納得して適正な示談を成立させることには、安心と信頼を得る保険会社として大きな社会的責任が伴う大切な仕事と考えます。私はその意識をつねに持っています。また社内はもとより弁護士の方とも深く関わる仕事なので、強い正義感と誠意をもった何人かのすばらしい弁護士さんとの出会いと経験が、自分を励まし成長させてくれたと思います。
Q 損害保険業界へ進んだ動機はどのようなものでしたか?
A はじめは国際金融に興味があって商社や銀行を考えたのですが、どうもそろばんも苦手で、少し針路変更しました。そんなことを今の皆さんには想像もできないことだと思いますが(笑)。世の中でリスクがあるところに損害保険がある。そのことを深く考えてみると、おもしろい世界だ、と思いました。
また、東京海上火災の札幌支店長が商大の先輩でした。最初の勤務は青森でしたが、仕事で青森銀行本店にいる先輩を訪ねたとき、おい城君、今晩頭取と飯を食おう、と言われました。社会人1年生の自分が銀行頭取と飯を!?と驚きましたが、頭取も商大OBなので誘ってくださったのです。商大と緑丘会はなんとすばらしいものだろうと感動しました。
<城 隆二さんへの質問>学生より
Q 損害保険業界はこれからどのように変わっていくでしょうか?
A 先にふれましたが、自動運転が実現して安全性がさらに高まるなど、自動車と自動車をとりまく環境はこれから大きく変わっていくと思います。AIに責任を負わすことはできるのかできないのか、保険商品も自ずとその変化に対応していきます。また、新たなビジネスが生まれるところには、そこで生まれるリスクに対応した保険が必要になります。さらに天候や災害などにともなう自然現象による巨大リスクも、増える傾向にあります。いつどんな時代でも、人やものやお金が動くところにリスクがあり、その裏を支えるのは保険です。ですから損害保険はつねに、社会の変化の最前線とともにあります。
Q 学生時代で思い出深いことはどんなことですか?
A バレーボール部や下宿の仲間たちとの交遊ですね。下宿は商大の近くでしたが、みんな自分の部屋の鍵もかけずに大学に出かけて、用事がある友人の部屋に勝手に出入りしたりしました。皆さんには想像できないと思いますが、これもまた、そんな時代だったのです。仲間たちと、たわいのないことから将来の夢まで、毎日いろんなことを話しました。そして多くの仲間は私のように、卒業すると津軽海峡を連絡船で渡って、北海道を飛び出して行きました。仕事につくとやがて、東京や関西で仲間や諸先輩が活躍していることを知り、勇気づけられました。どうぞ皆さんも仲間を大切にして、自信をもって北海道を飛び出して行ってほしいと思います。