2018.10.24
平成30年第3回講義:「互いを知る友好関係が日中経済発展につながる— 通訳・ガイド業の現場から」
講義概要(10月24日)
○講師:布川 雅章 氏(昭和37年商学部経済科卒/中国語通訳・ガイド)
○題目:「互いを知る友好関係が日中経済発展につながる—通訳・ガイド業の現場から」
○内容:
幼少期を満州でおくり中国人のように育った私は、父と妹を大陸で亡くし、1953(昭和28)年に母と小樽に帰ってくることができた。商大を卒業して56年。学ぶというよりも習い覚えた中国語を活かして、日中の貿易と友好づくりを仕事としてきた私は、若い後輩たちに、貿易ビジネスの根底にあるべき友好関係の大切さ、そして平和の尊さを体験論として伝えたい。
すべての経済の基盤は、平和にこそある
布川 雅章氏(昭和37年商学部経済科卒/中国語通訳・ガイド)
私を生かした大いなる幸運(命大・ミンダア)
現在暮らしている大阪の高槻市から、なつかしい母校に帰ってきました。私の生まれは小樽の花園町です。皆さんには想像もできないほど昔の(笑)、1939(昭和14)年のことです。いまは個人で主に貿易ビジネス分野の通訳・ガイドとして全国を舞台に活動しています。今日は私の生い立ちや仕事人生から、日中の深い関わりについて知ってほしいと思います。
私と中国との関わりがどのように生まれたのか。私の父は戦後に今の北海道電力となる電力会社の社員でした。太平洋戦争がはじまった翌年、1942年に両親に連れられて満州(現・中国東北部)に渡りました。満州に行けばいまの暮らしよりももっと豊かになれる。父と母はその時代の多くの人たちがそう思ったように、満州行きを決意したのだと思います。父は満州映画協会(満映)の映画館の支配人になりました。しかし終戦の年(1945年)の5月に兵隊に取られ、生き延びたもののシベリアに抑留され、ようやく帰れることになった帰還中に北朝鮮で病で亡くなりました。1946年の9月のことで、35歳。私は7歳。私が持っている父の記憶はとても短く少ないものです。
父が出征すると、母が映画館の支配人を務めました。家族は母と、満州で生まれた妹の3人。父がいたときから、映画館は中国の人たちを従業員として雇っていました。1945年の8月になると、日ソ中立条約を破ってソ連軍が侵攻してきました。私たちがいた松花江(アムール川最大の支流)下流のまちでも戦闘がはじまり、私たちは戦火から必死に逃げました。私は小学校1年生で妹は3歳。母は幼い子どもたちを連れてどんなに心細かったでしょう。途中で抗日パルチザン部隊八路軍(中国共産党系の非正規軍)の待ち伏せ銃撃を受けました。コーリャン(たかきび)畑の中に必死に逃げ込みました。しかしこのとき妹は死んでしまい、母は手首に深い傷を負いました。私は、畑の畝と畝のあいだに伏せて難を逃れました。妹の代わりに私が死んでいたとしても何の不思議もありません。そしてもし母が死んでいたら、私はいわゆる中国残留孤児になっていたでしょう。中国語で幸運のことを、「命が大きい」と書いて命大(ミンダア)と言います。まさに私の命は幸運によって永らえました。
それから八路軍につかまって、もといたまちに連れ戻されました。食べものにも不自由する中、家族を助けてくれたのは、映画館で雇っていた中国の人たちでした。
それから母は八路軍の野戦病院の看護婦として働くことができました。医療や看護の知識など実は何もなかったのですが、医者が書くカルテのアルファベットの読み書きができたから採用されたのでした。それは良かったのですが、私は母と離れて暮らすことになりました。中国北東部なまりの中国語が日常語で、悪口や隠語なども自然に覚えたので、まわりの人は誰も私を日本人だとは思いませんでした。八路軍の炊事係にかわいがられ、食べることにも不自由しませんでした。どんなものを食べていたかといえば、寒くて米が穫れる土地ではなかったので、コーリャンや蒸しパン(マントウ)、トウモロコシが主食で、じゃがいもや、冬には乾燥させた野菜などを食べました。
1949(昭和24)年の秋、中華人民共和国(現在の中国)が成立しますが、そのころ私は瀋陽(旧・奉天)の小学校に移りました。校長や教師、事務員まで、戦前に大陸に渡った日本人によって運営されていた学校で、まわりは日本人が多かったのですが、私の日本語はかなり中国語なまりでおかしかったと思います。私は寮生活。母は八路軍の部隊を離れて病院に務めていたので、まだ親子で暮らすことはできません。
一方で朝鮮半島では、1950年の6月に朝鮮戦争が勃発しました。旧ソ連(社会主義体制)とアメリカ(資本主義体制)のあいだの緊張が、中国を加えて東アジアで実際の戦火に結びついてしまったのです。太平洋戦争が終わってわずか5年、朝鮮半島では500万人を超えるといわれる死者が出た悲惨な戦争でした。
1952(昭和27) 年には中国のふつうの中学に進級しました。そして翌年の5月、私と母はようやく日本に帰ることができたのです。どうして帰ることができたか。それは、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれて、在中国日本人の引き揚げが可能になったからでした。私と母、そして中国に残っていた多くの日本人は、高砂丸という有名な引き揚げ船で京都の舞鶴に上陸しました。生まれ故郷の小樽までたどり着いたとき、私たち一行を多くの市民の皆さんが出迎えてくれました。
中国残留孤児、いまは中国残留邦人と呼びますが、皆さんには想像しづらいと思うので、彼らのことを改めて説明しておきます。中国残留邦人は、「日本が大陸に侵攻した太平洋戦争の戦後の混乱などによって中国と樺太などに残留を余儀なくされた方々」と定義されています。1972(昭和47)年に日中の国交が回復されてからその実態に光が当たるようになり、帰国がはじまりました。厚労省のデータによれば、日本に帰国、定住している人は2015年10月の段階で5,804人(道内250人)、平均年齢76歳となっています。彼らは日本人の両親のもとに生まれた日本人であるにもかかわらず、中国人の養父母に育てられ、日本語を知らないまま大人になって帰国しました。ですから言葉をはじめ、日本の社会で暮らすにはとても大きな障害があります。自分が彼らの立場でいたかもしれないことをありありと想像できる私は、できる限りの支援をしたいと行動してきました。何より私は、中国の人たちに助けられて生きのび、帰国することができたのです。
さてこうして3歳から14歳まで、私は中国で暮らしました。だから中国の子どものような言葉や文化習慣、そしてやんちゃぶりを身につけたわけです。ここまで、皆さんにはあまりにも遠い話で、知らない固有名詞がたくさん出てきたと思います。それを説明しているとそれだけで講義が終わってしまうので、興味のある人はぜひ自分で調べてみてください。日本の20世紀史の中できわめて重要な要素である、日中関係の激動の局面が見えてくるはずです。
中国からの帰国子女としてはじまった北海道暮らし
1953(昭和28)年の春に小樽に帰ってきた私は、菁園中学校の2年に編入しました。そして母が道北の士別に職を見つけたので、夏休みのあいだに士別に移り、士別中学校に転校しました。いまでいう帰国子女です。中国で過ごした子ども時代のままに、士別でもやんちゃで物怖じしない中学生でした。弁論大会に出て、「戦争反対」というテーマで2等をもらいました。また、将来の夢を問う質問に、私は「外交員」と書きました。先生や級友や母の顔には「?」が浮かびました。保険のセールスのことか?いや私は「外交官」のつもりで言ったのです。中国語でそう書くものですから。
私は日本と中国が仲良くなるための仕事をしたいと思っていました。一方でなにしろ日本の文化や習慣に慣れていませんから、蕎麦屋でざるそばを食べるとき、蒸籠(せいろ)を見てなんだ「これ上げ底だぞ」といったり、付け汁を麺にどぼどぼとかけてしまったり。文化祭の演劇で、芥川龍之介の「杜子春」をやり、私は主役の杜子春を演じました。劇を見た校長先生が、「あの子はまるで中国人だな」とおっしゃったと後で聞きました。そんな私についたあだ名は、「中共」(中華人民共和国の略称)。
弁論大会で私は「戦争反対」というテーマで話したと言いました。これは今も変わらない私の信念です。とりわけ過去に本当に不幸な戦争をした日本と中国は、もう絶対に戦争をしてはいけません。ふところの深い中国の人々が私と母を助けてくれたように、日本人と中国人は仲良くなれます。どんな貿易も、まず平和でなければ成り立ちません。日中友好は「老百姓(ラァォ パァィ シィン)・草の根」から。それが、変わることのない私の信念です。
さて高校を出てからの進路をどうするか。実は小樽に帰ってきて滞在していた短いあいだに、商大の川上久寿先生と知り合いました。先生は魯迅の研究をしていました。そのとき先生は、布川君、商大でいっしょに中国語を勉強しようじゃないか、と声をかけて下さったのです。中国語の基礎ができている私を認めてくださったことに感激しました。そうして1958(昭和33)年、私は晴れて商大に入学しました。
商大でいちばん打ち込んだのは、受験勉強中に覚えてしまった麻雀です(笑)。いまの体育館の場所にあった文行寮で麻雀漬けの日々をおくりました。ちなみにこのころ入寮時にはみな、自分の分の米を買うことができる配給手帳を持っていました。ゼミは、浜林正夫先生の市民革命史。第二外国語は川上先生の中国語で、私はこの時代にはじめて中国語を「学び」ました。成績はもちろん「優」です。卒論は、「中国農業の社会主義的改造」というものでした。
緑丘祭で、中国語科生で中国語劇を演じたのも良い思い出です。「蘇州夜曲」「阿Q正伝」「龍鬚溝(ロンシュイコウ)」といった作品で、中国語ですから主役はいつも私(笑)。当時の科には女性がいなかったので(全学で女子学生は一人のみ)、札幌の女子学生に応援を頼みました。小樽商大は伝統的に語学に力を入れる大学ですから、ほかに英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語の演劇も毎年競うように行われていました。苦労したのは台本探し。川上先生が、大阪市立大が作ったものなどを入手してくださいました。
アルバイトは、家庭教師を4年間。そして北朝鮮の朝鮮中央芸術団の小樽公演の宣伝や切符売りをしました。さらには毛無山での下草刈りや小樽港で貨物の荷下ろしをチェックするウォッチマン(検数係)の仕事もしました。
またこの時代は、安保(日米安全保障条約)の制定をめぐって国中がその是非に分かれた政治の季節。商大でも学生同士で勉強会をしたり、小樽市街で浜林先生や川上先生たちもまじってデモをしました。学生自治会で札幌まで出かけたこともありました。
このころ、川上久寿先生が支部長を務めていた日中友好協会に関わり、1949(昭和24)年に立ち上がった新生中国のことを学び始めます。小樽の百貨店の「新中国紹介展示会」という催しで解説を務めたこともあります。また小林多喜二の母、セキさんが亡くなって(1961年)、小樽シオン教会で行われた葬儀を手伝ったのも思い出に残っています。
国交回復前に着実に始まっていた日中貿易
さて卒業後の進路をどうするか。私は日中貿易に関わる会社で働きたいと思いました。しかしなにしろ、戦争が終わってから日中の国交はまだありません。当然求人などあるはずもない。私は思い切って、商大の大先輩(1930年卒)である、日中貿易促進会の鈴木一雄さんを訪ねました。戦前には三菱商事のインドネシア支店長を務め、草創期の戦後日中貿易に精力的に取り組んでいた方です。鈴木さんから日信貿易(株)(社長の秀島司馬三郎さんは1920年卒の大先輩)という、中国や北朝鮮と貿易をしている会社を紹介されて、私はその大阪支店に勤めることができました。この会社は、中国が提案した3つの原則に基づいて取引に参加できる「友好商社」と呼ばれる会社でした。この時代に中国の周恩来首相が打ち出した3つの原則は、「政府間貿易を目指す」こと。そしてそのためにまず「民間の個別契約」による貿易を始めること。さらに「配慮物資の斡旋」に取り組むこと。中国から入っていた漆や甘栗などに頼っていた日本の小企業のために、中国に頼んでこれらを確保することです。この友好貿易は、周恩来と鈴木一雄さんとの会談ではじまったものです。この展開に伴って私は、鈴木さんのもと(日中貿易促進会)に転職しました。
日中貿易促進会とはいまの商工会議所のようなもので、日中貿易に携わる会員企業からの会費や、中国との貿易に関わるさまざまなサポートの手数料で運営されています。また経済に止まらず、国交回復への布石となる行動を担った団体でもありました。皆さんには分かりづらいと思いますが、何しろ戦後の日本と中国は、長いあいだ国交がなかったのです。
貿易史の勉強風に言えば、1962(昭和37)年、「LT貿易」という仕組みをつくる協定が結ばれました。準政府間の位置づけで貿易の拡大や、記者の交換、そしてそれぞれ相手国に代表部を設けるもので、中国アジア・アフリカ連帯委員会主席である廖承志(Liao Chengzhi)と、元通産大臣の高碕達之助の頭文字を取って名づけられました。
日中貿易促進会の取組みによって1960年代、新中国(中華人民共和国)からの経済代表団の来日がはじまりました。商談や日本の工場見学が行われるようになりますが、私たちがその受け入れを担当しました。しかしまだ冷戦期で国交のない国同士ですから、来日した代表団を、いつも警察が尾行しているのに私たちはすぐ気づきました。63年には北京と上海で日本側が、東京オリンピックのあった64年には東京と大阪で中国側が主催して貿易品の大規模な展覧会が開かれて話題を集めました。
この会に勤めた経験は、その後の私の財産になりました。仕事の内容としては、訪日代表団に随行して日本各地をガイドしたり、さまざまな商談を通訳としてお手伝いします。また展覧会を催したり、日中貿易に関するコンサルティンもしました。さらに日本の訪中貿易団に随行して通訳を務め、西側には知られていない新生中国の内陸奥地を見聞することもできました。
貿易を離れて、この時代の日中関係をめぐる出来事を知ってください。まずなんといっても、1972年に日本と中国の国交がついに樹立します。回復という見方もあるでしょう。その前年からアメリカと中国が急接近して、一般には予想もできなかった展開が世界を驚かせていました。日本の動きもそれに呼応したものです。もうひとつあげなければならないのが、毛沢東が進めた文化大革命。これは中国国内で起こった思想と政治の激しい闘争で、紅衛兵たちが毛沢東と対立する政治家や知識人などを攻撃して、おびただしい犠牲者が出ました。中国国内は大混乱です。混乱は日本にも及び、1966(昭和41)年には激動する中国側への忖度の意味合いも強かったのですが、私のいた日中貿易促進会は解散させられてしまうことになりました。
さてそこから私は、東西貿易の世界に入っていきます。これも皆さんには縁遠い話だと思いますが、東西貿易とは、社会主義国の東側陣営と、資本主義国の西側陣営のあいだの貿易のこと。第二次世界大戦後からはじまり1950年代中ごろから拡大していきました。しかし東西の経済格差や米ソの冷戦などの要因から、これらの貿易には大きなリスクが伴うようになります。国名を並べれば日本では、北朝鮮やベトナム、キューバ、そして旧ソ連(現ロシア)などとの貿易になります。
冷戦の終わりから東欧革命による市場拡大、EUへの東側諸国の加盟による市場拡大などを経て、現在では東西貿易といった概念自体が消滅したと言えるでしょう。
その中で私は日朝貿易、日本と北朝鮮との貿易に関わるようになりました。期間は1968年から88年までの20年間に及びます(85年からはベトナムとも関わりました)。北朝鮮の正式名は、朝鮮民主主義人民共和国。人口は2500万人ほど。日本からはプラントや機械、機械部品などが輸出されました。あちらから日本へは、鉄鉱石、石炭、耐火煉瓦の原料、明太子、マツタケなどが輸出されました。皆さんもご承知のように、日本と北朝鮮とはいまだに国交がありません。実は私が携わった冷戦時代の貿易によって、日本政府は現在までに約800億円(当時)もの債権を持っています。これにこれまでの分の利子がつきます。一日もはやく国交が樹立することがアジアの平和につながり、そのことで経済交流が成り立つわけです。ですから貿易経済の基盤は平和である、と強調しておきたいと思います。東西貿易の現場で、私はそのことを深く考えるようになりました。
国交がなくて、しかもイデオロギーの異なる国との経済交流で最も重要なことは、人間と人間とのつきあいです。国や会社の看板の前に、ひとりの人間としての人間力が問われるのです。私はそのことを知識ではなく体験として学びました。皆さんも学生時代のいまから、どうぞそのことを意識していてください。
現在の日中関係の最前線で
さて日中貿易促進会が解散させられてしまったので、私は日中関係の仕事から離れ、東西貿易、主に北朝鮮との貿易に約20年間携わります。しかし、日中両国の国交は回復し、日中関係の往来も盛んになってきていましたので、中国語を生かした仕事をしたいという気持ちは強く、中国語の通訳とガイドの仕事を自分で始めることにしました。それが現在まで続いているわけで、いつのまにか30年も経ってしまいました。いかにしたら日中がもっと仲良くなれるかを課題に、両国の経済人などの交流をお手伝いしてきました。私は民間の外交官であり、これこそが「外交員」ではないか、と思っています(笑)。
近年の私の仕事のことを話します。
昨年(2017年)に日本を訪れた中国人の総数は735万人を超えました。例えば2004年の数に比べれば12倍近くです。観光客に限れば33倍。ビジネスが目的の人も2.6倍増えました。実は私は、女子学生の皆さんより日本の化粧品のブランドや新製品のことに詳しいと思います。商用で来日するお客さまの「爆買い」のお供をしているからです(笑)。中国から来日するツアー客が日本でショッピングに使う金額は平均で12万円、あるいは23万円という数字もあります。100万円以上使う人も全然珍しくありません。
中国の方が日本のことで私によく聞いてくるのは、天皇について、あるいは土地の価格(中国では土地の個人所有が原則認められていません)、サラリーマンの月給、そして原爆を落としたアメリカを恨んでいないか、といったことです。ちなみに中国で有名な日本人は、「君よ憤怒の河を渉れ」という映画がヒットしたことから、高倉健と中野良子、あるいはこれも映画で知られた山口百恵と三浦友和。さらに、小樽にゆかりの深い大先輩小林多喜二です。多喜二の名前は日本のプロレタリア作家として紹介されていた時代があったのでした。また、商大主催の「多喜二生誕100周年国際シンポ」のとき、蟹工船の完全訳が中国で出版されています。
観光分野以外の通訳・ガイドのクライアントは、中国と貿易をしている日本のメーカーや貿易商社です。中国のお客さまは日本企業の工場や消費の現場を視察して、商談を行い、観光も楽しみます。受け入れる日本企業は、自社製品のPRができ、商談を進めることができます。
商談は、つねにwin-winの関係が成り立たなければ持続しません。そのために互いを尊重しながら理解し合うことが友好関係の基盤になります。それはつまり両国が安定した平和関係にあることです。
また労働組合や団体もご案内します。草の根の庶民同士の友好交流のお手伝いです。瀏連仁(りゅうれんれん)という方がいました。戦争中に山東省から沼田町(空知管内)の炭鉱の労働者に強制連行されたのですが逃亡に成功して、それからなんと13年間も人目を避けて逃げ延びて山中で暮らしていたのです。戦争がとうに終わった1958(昭和33)年に当別町(石狩管内)の山中で発見されました。息子さんがのちに日本政府へ訴訟を起こしましたが、彼が大阪に来たとき、私は通訳でお手伝いをしました。
さらにこれは仕事というよりもボランティアの気持ちから、先にふれた中国残留邦人の皆さんへの支援に取り組んでいます。日本で自立して暮らせるように日本語を教えたり、役所や病院に同行して通訳を務めたり、さまざまなアドバイスを行っています。
私が皆さんに伝えたかったことを最後にまとめます。
戦中・戦後を歩んできた自分が体験から身につけた言葉があります。それは「以和為貴」(和を以て貴しとなす)という聖徳太子の言葉です。世界が平和であるための基盤になる精神です。
そして、緑丘でのたくさんの出会いと学びが自分の針路を決めたこと。私は商大で人間力と貿易に関わる基礎を学ぶことができました。
経済の発展のためには、当事者同士が互いを知らなければなりません。民族やイデオロギー、風俗習慣、政治体制には違いがあることを前提に、その上で互いの理解を深めることが双方に実りをもたらす貿易の基盤になります。
皆さんにはどうか、「平和」を携えて世界に飛び出してほしいと思います。「緑丘人に幸あれ!」
<布川 雅章 さんへの質問>担当教員より
Q 貿易業務に携わる長い経験の中で、とりわけ印象に残っていることなどを教えていただけますか?
A 通訳には守秘義務があるのであまり個別のことは話せないのですが、1960年代の日中貿易では、やはり文化大革命の影響が大きかったのです。1966年、中国が主催する日本での「中国経済貿易展覧会」の運営が、中国当局に反中国的だと見られて突然事務局幹部が非難、排除されたことがありました。日本側としても、そうした動向に逆らうことはできません。そのために日中貿易促進会が解散させられたのですが、私たちは首切りに抗して訴訟を起こして、和解勝訴を得ました。また北朝鮮との貿易では、契約した翌日にいきなり破棄されたことがありました。数億円の取引です。こちら側よりも良い条件を出す日本の企業が現れたので、と。ただ驚くのみでした。
<布川 雅章 さんへの質問>学生より
Q 北朝鮮との国交はどのようにして樹立されるとお考えですか?
A 日本側ではもっぱら拉致問題が大きな障害とされていますが、今日の私の話のとおり、問題はそこにとどまらず、もっと根底にあります。貿易ビジネスにしても、当事者だけではなく、その周辺のさまざまな人の理解や友好の気持ちが根底になければうまくまわりません。なんといっても、朝鮮半島はいまだに朝鮮戦争の休戦中にすぎません。これをせめて停戦へと持っていきたい。日本と韓国との戦後処理が終わっていますが、北朝鮮とはまだです。拉致問題で、日本は北朝鮮に主張するところは主張することは当然ですが、向こうはけしからんなどと言っているばかりではことは進まない。意義のあるコミュニケーションを深めていくためにも、互いが認め合う友好関係づくりをめざさなければならないと思います。