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- <担当授業>
- 統計科学
- 計画数学I
- 計画数学II
- 社会情報入門
- 研究指導
小泉 大城 教授
KOIZUMI Daiki
古くて新しいベイズ統計学
1763年にイギリスで発見された「ベイズの定理」という確率にかんする定理があります。ベイズの定理を使うと、統計的な推定の対象となる変数(パラメータ)についての事前確率を仮定したうえで、データを観測したもとで(そのパラメータの)事後確率を計算することができます。この定理を駆使する統計学のことを特に「ベイズ統計学」と呼ぶ場合があります。発見から250年以上が経ちましたが、現代の統計学においても、ベイズ統計学は重要な理論的基盤のひとつで、様々な分野に応用されています。
ベイズの定理は割り算形式の数式で、その分母には高い計算コストのかかる積分を含む項が含まれています。わたしは、この定理を使ってデータから計算を行う「ベイズ推定」にかんして、推定の計算コストを低く抑えつつ、なるべく精確な計算を実現する手法の研究をしています。
偶然の意外性と遭遇する体験のおもしろさ
ベイズ統計学には興味深い側面があります。それは、確率の計算という理論的な側面を持ちながら、その中に私たちの身の回りにある実践的なデータを取り入れることのできるしくみが備わっていることです。わたしは、現在の研究分野に落ち着くまでにたくさんの回り道をし、相当な時間がかかりました。振り返ってみると、理論のみ、あるいは実践のみではない、両者の独特のバランスに魅力を感じて今の研究分野に行きついたのかもしれません。コンピュータを駆使して数々の失敗を乗り越えつつ、理論と実践のバランスをうまく取りながら、実データから有益な知見を取り出すことができたときの達成感は格別です。
このようにして得られた研究成果を海外や国内の学会で議論したり、発表したりする経験で得られる興奮や達成感もまた貴重なものです。ときには自分の書いた論文が、海外の想像もしない分野の、会ったこともない研究者に引用されることもあります。こうした偶然の意外性のことを「セレンディピティ」という造語で表現することがあります。この手のセレンディピティは、研究活動におけるエキサイティングな特色のひとつだと思います。科学の歴史を調べると、人類史に残る画期的な科学技術でさえも、ある種の偶然性なしには確立されなかったケースがかなりあることがわかります。
ある企業の熱心なかたの訪問を受けて
「データサイエンス」や「データ科学」、あるいは「機械学習」という語をどこかで目にしたり、聞いたりしたことはないでしょうか。情報技術(IT)の劇的な発展の結果、近年は様々な実践現場で大量のデータが蓄積されており、このデータを統計的に分析した知見を生かし、合理的な意思決定を行いたいというニーズが世界中で高まっています。実は小樽商大の学生も興味を持つことの多い「マーケティング」を考える際などにも、データサイエンス分野の知見は強力な武器になりうるのです。
だいぶ前のことになりますが、ある中古車の販売会社の方々が、わたしの研究分野のことをインターネットで調べ、相談に来られたことがありました。この方々はたくさんの中古車在庫のデータを統計的に分析し、その結果を会社のサービス改善に生かすことはできないかと考えておられました。驚いたことに、ご自分達ですでに統計学の勉強を始めていて、そうしているうちにベイズ統計学の重要性に気づき、一度も会ったこともないわたしを訪ねてこられたのでした。蓄積されたデータを持っている人々が、統計学を専門とする人にたどりつくという、データサイエンス業界でよく聞いたことのある話を、わたしはこのときにまさに身をもって体験したのでした。残念ながら、いろいろな制約があり共同研究までは実現しませんでしたが、こうしたセレンディピティはたいへん刺激的ですし、興味深いです。
他人による評価ではなく自分がおもしろいという感覚を大切に
大学という場にいる間の意識のもちかたと価値観の変容は、とても大事だと思います。後段でもふれますが、目先のコスパばかり気にして、表面的なテクニックばかり追求しているうちは、物事の本質に迫るときのドキドキ感やワクワク感はまず味わえないでしょう。また、物事をやたらと文系と理系に分けたがるのも日本のよくない文化のひとつだと思います。世界を見渡せば、こんな価値観の広まった国は他にないことは明らかです。社会人になって従事する仕事には、文系や理系のラベルはついていないのです。
学生と話していると、ゲームが大好きだという話をよく聞きます。長時間ゲームに熱中していると家の人から「なぜあんな無駄なことを長々とやっているのか」などと言われたことはないでしょうか。他人に無駄だといわれようがなんだろうが、人は自分がおもしろければやってしまう、それが人間の性というものです。
他人の評価など気にせず、自分がおもしろいという分野の学びを徹底的に追求してください。ただし、「おもしろい物事というのは、ある程度時間をかけないと見えてこない」という側面も頭に入れておくべきです。そして、おもしろそうだと思ったら、その対象が文系なのか理系なのかは気にせず、自分から積極的に動いて、ときには教員もあごで使うくらいの勢いで(笑)どんどん学びを深めてください。その過程できっと失敗して壁にぶつかることもあるでしょう。しかし、それはゲームでミスをしたときと同じで、くやしいけれどおもしろければ結局乗り越えられるのではないでしょうか。
物事がおもしろいかどうかという価値観に基づいて行動する学生は、表面的な損得勘定とは全く異なる価値観を持っているので、教員がだれであるかにかかわらず必ず伸びます。
大学で「コスパ」や「タイパ」は絶対なのか?
日常生活で「コスパ」や「タイパ」を基準に行動する人は多いと思います。これははたして大学でも絶対的なのでしょうか。たとえば、真上に高く飛ぼうとするときに、まず膝を曲げることが重要な動作なのはいうまでもありません。高いパフォーマンスがほしかったら、備えの動作をすることが極めて重要な場合があるのです。目先の損得にこだわるあまり、こうした備えを「コスパ(タイパ)が悪い」と否定してしまっていないでしょうか。
大学に入学すると少なくとも4年は学生として過ごす期間になります。もしこの4年間を、就職先を決めることや学歴を得ること「だけ」のために費やすのだとしたら、大学のコスパ(タイパ)は相当悪いのではないでしょうか? アルバイトがあるから大丈夫?それは大学生であるかどうかとは別次元の話です。一方で意識のもちかたを工夫すれば、大学という場で「膝を曲げてから高く飛ぶ」のがどういうことであるかを学ぶ方法は、無数に見つけられると思います。あえて極端な話をすれば、このポイントさえわかれば、そもそも大学に入る必要のない人もいるでしょうし、入学したとしても卒業を待たずにすぐに社会で実践すべき人もいるでしょう。逆に、場合によっては4年以上の期間が必要な人もいると思います。大学という空間が、様々な方々にとって有意義な学びの場となることを願っています。
いろいろな分野の研究者が集まる場としての大学
大学で研究活動をしている人々の詳しい生態は、マニアックすぎるせいか、メディアなどで取り上げられる機会が少ないかもしれません。あえてわかりやすく表現すると、様々なスポーツ競技で活躍するアスリートのようなものでしょうか。お世話になった先生が常々、「研究者は知的アスリートだ」とおっしゃっていました。いろいろな分野のアスリートとしての研究者がいつもトレーニングに励んでいて、興味を持った人はいつでも会いにきて話をすることができる。そのうち、「なんかこれおもしろそうだからやってみよう」と興味をもってトレーニングを始める人々が現れる。そんな大学にはきっと自然に人が集まってくるのではないでしょうか。
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