CLOSE

エバーグリーンからのお知らせ

2016.12.14

平成28年度第9回:「タイ国におけるカントリーリスクと投資〜2011年大洪水から軍事クーデター〜」

概要

 

○講師:賀茂 隆 氏 (昭和48年卒/昭和50年大学院商学研究科修了/元 NBCアジア株式会社代表取締役社長)

 

○題目:「タイ国におけるカントリーリスクと投資〜2011年大洪水から軍事クーデター〜」

 

○内容:2012年からの3年あまりタイ国にて体験した事業活動に関わるリスクと、当時のタイの政治経済状況について話したい。テーマは、ビジネスにおけるカントリーリスクをめぐる課題や取り組みである。その背景として、国王を中心としたタイ王国の歴史文化、そして複雑な背景をもつ軍事クーデターや政権交代を俯瞰しながら、近年の政治と経済の情勢を解説する。2011年の夏から秋、タイでは例年にも増して大規模な洪水が起こり、進出している多くの日本のメーカーをはじめ、産業経済に大きな被害を及ぼした。私が赴任したのはその復興期だが、状況を見定めながら大きな投資をした。そのいきさつを説明し、あわせて異文化とのコミュニケーションの難しさや意義について伝えたい。

 

タイを襲った大洪水と政争

 

私は昭和44(1969)年に小樽商科大学に入学しました。皆さんにとっては遠い過去でしょうが、このころの大学生や大学をめざす高校生は、全国各地で起こっていた学園紛争に大きく影響されていました。混乱が極まった東京大学では、この年の入試が中止となったほどです。商大に入ったものの最初の半年以上はキャンパスで授業を受けたことがありませんでした。大学が学生によってロックアウトされていたために、先生たちは公民館やお寺などで授業をしてくれました。
最初の年から熱心に取り組んだのは、部活の尺八でした。当時は箏(こと)を弾く女子部員もいて、活発に活動していたのです。大学院にも進んだので、青春の6年間を小樽ですごしたことになります。
浜松の実家が塗料販売店だったこともあり、卒業すると日本ペイント株式会社に入社しました。80年代にはニューヨーク、90年代にはオハイオ州のクリーブランドに赴任しました。
2000年ころからは日本で海外事業の企画管理をする仕事を担当しました。入社以来一貫して自動車塗料事業に関わってきました。
 
本題に入りましょう。今日はここ数年私がタイで経験したことを、「カントリーリスク」という切り口から話します。2012年から3年ほど、私は日本ペイント(株)のグループ会社である日本ビー・ケミカル(株)のタイ事業拠点であるNBCアジア(株)のトップを務めました。製品は自動車プラスチック用の塗料で、これをタイに生産拠点をもつ日本の自動車メーカー、部品メーカーに納めます。塗料は缶に入った液体ですが、部品や自動車に塗られて固まり、塗膜を形成してはじめて意味を持ちます。だから缶を納めておしまいではなく、塗装のエンジニアと密接にコミュニケーションを取りながら、顧客の望む色を車の表面で実現させることが私たちの仕事です。
 
日本では東日本大震災があった2011年。この年の夏から秋に、タイ中部、チャオプラヤ川流域が大規模な洪水に襲われてたいへんな被害が出ました。首都バンコクにも迫る勢いでした。もともとタイは雨期にどこかで洪水が起こる国なのですが、それを考慮してインフラが整えられた工業団地にまで被害が出たことが大きな衝撃でした。
タイはASEAN(東南アジア諸国連合)の生産拠点として発展してきましたから、自動車をはじめ電子機械、機械部品、食品など、数多くの日本企業の工場が進出しています。アユタヤ県にあるホンダの工場などには大きな浸水被害が出ました。チョンブリ県のアマタナコン工業団地にある私たちの工場は、幸い直接の被害はありませんでした。洪水の影響でタイの経済も大きく落ち込みます。しかしその後復興特需とも呼べる好景気となり、持ち直しました。私たちの工場も休日無しのフル稼動の状態になり、製造能力を拡大する投資に踏み切りました。
 
私が率いた3年間は、洪水直後からそこに至る時期です。さて、タイの歴史や政情は日本人から見るとなかなか複雑です。そのために皆さんには予習をしてきてもらいました。わかりやすくするために2000年代半ばころからに限って概説してみましょう。2006年の秋、国連総会に出席するために国をあけていたタクシン首相の不在を突いて、軍事クーデターが起こります。タクシンはそのままいま現在も帰国できていません。
そして2008年の秋、世界経済に大事件が起こります。アメリカの投資銀行グループ、リーマンブラザーズの破綻が引き起こしたリーマンショックです。これを受けて翌2009年のタイのGDP(国内総生産)成長率はマイナスに転じてしまいました。その数年前まではだいたい年5%台の成長率ですから激震が走りました。
 
近年のタイは2つの政党のパワーバランスが鍵を握っています。富裕層、既得権益層、知識層を基盤にした「民主党」と、低所得層、農民層を基盤とする「タイ貢献党(タクシン派)」です。
2008年の暮に政権を握った民主党のアピシットらは、不況よる国民の不安や不満を外にそらすために、カンボジアに対して、国粋主義、民族主義にもとづく露骨な強硬外交を展開しました。また政権への不満は国王への不敬とみなして、国民に対して武力までふるいました。リーマンショックから抜け出し始めていた2010年5月、政治の混乱は収まらず、大規模なデモが発生しました。アピシット首相はこれに対して軍隊を投入して、発砲許可まで与えました。その結果数百名に及ぶ死傷者が出たのです。「暗黒の土曜日」と呼ばれる大事件です。約90名に及んだ死者の中には日本人ジャーナリストもいました。これを受けて2011年夏の総選挙ではタクシン派が政権を奪還して、タクシン元首相の妹であるインラックが首相になります。
 
リーマンショックによる世界同時不況からの回復期で、2010年のタイのGDP成長率は7.5%を記録しました。しかしその直後、いまふれたように、タイは未曾有の大洪水に見舞われます。タクシン派のインラック政権は復興をめざして、ポピュリズム(人気取り)政策を次々に打ち出しました。最低賃金を40%も一気に引き上げたり、一村一品運動の基金を各地にばらまいたり、低所得者層も医療が受けられるような制度(30バーツ・百円弱から医療サービスが受けられる)を作りました。さらに農家に対しては、コメの事実上の高価格買取制度(コメ担保融資制度)があり、エコカー購入の支援策も打ち出しました。このエコカー購入支援によって、2012年の国内自動車販売はなんと81%も伸びました。また法人所得税も、従来30%であったものが2013年には20%へと大きく引き下げられました。
 
さて私がタイの現地法人の社長として赴任したのは2012年の春。前年の洪水からの復興が進み、タクシン派のインラック政権がポピュリズム政策に突き進んでいたころでした。私は、タイでの当社のシェアを50%にするという目標を立てました。工場はフル稼動です。2012年の下半期は工場に休みはありませんでした(従業員は交替で休みます)。しかしそれでも足りません。増産のための投資をしよう。決断を下しました。

 

 

タイという国。そのカントリーリスクとは

 

企業が自国の外でビジネスを展開する場合、異文化であるその国ならではの困難やリスクがあります。国ごとにあるこうした不確実性のことをカントリーリスクといいます。つまりこれは、ビジネスにおいて個別の相手がもつ商業リスクとは無関係に収益を失う危険です。
 
具体的にいえば、カントリーリスクには4つくらいの種類があります。
まず、政治情勢の変化です。先進国と違って、タイのような国では政争から内乱が起こるかもしれません。エスカレートすれば軍によるクーデター、あるいは革命や戦争にまでなるかもしれません。政界と経済界のつながり(癒着)、政党や政治家が企業経営に介入することもあるでしょう。私企業がある日国営化されてしまうこともあり、政権交代によって政策が大きく変わってしまうことだってある。外資の規制や為替政策の大きな変更があれば、進出企業は難しい舵取りを迫られます。
二つめは、経済情勢の変化。デフォルト(債務不履行)や急激なインフレーション、通貨の急落などです。
三つめは社会的な要因です。商慣習やマナーのちがい、国民の識字率や教育水準の高低が問題になります。政治家や公務員(警察や行政機関など)の腐敗にも気をつけなければなりません。日本では考えられない職務の怠慢(例えば犯罪検挙率の低さ)や賄賂、汚職、職権乱用などです。
個人や地域の格差や宗教・民族対立に由来する深い社会問題もあります。外国企業に対する国民感情もあるでしょう。幸いタイの場合、日本に対するイメージは良好です。また、司法制度の不備や不公正、遵法意識の低さといった法務に関するリスクも軽視できません。著作権や特許、商標などの知的財産権の侵害、乱用、詐取もあるかもしれない。先端技術や高度なノウハウの流出や模倣品にも気を抜けません。さらには、法制や税制の解釈と運用のちがいや、甚だしい場合は国際法や国際条約の枠組みが無視される危険があります。
そして四つめは、タイで2011年に起こった洪水のような、自然災害。地震や台風などは人間の力ではどうにも全く太刀打ちできません。
 
タイという国についてあらためて解説しましょう。正式にはタイ王国で、国王を戴く立憲君主国です。2016年の秋、国民の敬愛を長く深く集めたラーマ9世、プミポン国王がご逝去されました。19歳で即位して、88歳まで国王の座にありました。別にもふれますが、タイでは数多くのクーデターが繰り返されてきました。さまざまに困難な状況でも国としてのまとまりが揺らがなかったのは、国王の求心力のたまものでした。
一方で国王が政争の口実に使われることもあり、これには功罪があると思います。そのあとにラーマ10世として即位されたのが、長男であるワチラロンコン国王陛下です。現国王は、父親同様にヨーロッパへの留学経験がありますが、父とちがい、国民にはその人となりがあまり知られていません。3度の結婚で5男2女をもうけています。
タイの面積は日本の1.4倍くらいで、人口は日本の半分くらい(6700万人)。言語はタイ語で、ふつうの日本人にはちょっと読めないタイ文字が使われています。宗教は、仏教。日本や中国とはちがう上座部仏教(いわゆる小乗仏教)が深く信仰されています。
 
首都はバンコク。このまちは古くから海外貿易の拠点だったので、これは外国人が使った地名です。バンは水辺の村、コクは樹の名前といわれます。タイの人はこのまちをクルンテープ=天使の都と呼びます(これは短くした名で、正式名称はとても長いのです)。そのほか雑学的に言えば、例えば家電を使う電圧は日本は100Vですが、タイは220V。時差はわずか2時間です。飛行機で向かえば、関空からは6時間半で、新千歳空港からは8時間弱。常夏のタイの高級デパートでは冬が近づくと毛皮やダウンのコートが売られています。それは冬の北海道へ旅する人のためです。雪を知らないタイ人にとって、純白の北海道はあこがれの地です。
タイではコメが年に3回も収穫できます。目が覚めると枕元にマンゴーが落ちていると言われるくらい、もともとおだやかで豊穣な土地なのです。「微笑みの国」という通り名は、ゆとりある豊かな風土がベースになっていると思います。

タイの在留邦人は6万4千人ほどで、2014年から2015年にかけて約5千人も増加しています。うち首都バンコクには4万6千人ほど。この数字は在留登録をしている人の数ですから、実数はさらにふくらみます。NBCアジア(株)をはじめ日本の企業がたくさん進出しているチョンブリ県には5800人くらいの日本人が暮らしています。永住者は1万2千人くらいになります。
日本とタイは古くから関わりをもっていました。バンコクの少し北にアユタヤ県がありますが、ここには14世紀から18世紀ころまで、日本人がたくさん暮らしていました。戦国時代の日本から主君を失った多くの侍がやってきたと言われています。いちばん有名な人物が山田長政ですね。タイの王家を助けた話が伝わっています。日本人町は、やがて江戸幕府の鎖国によって衰退していきました。
 
日本の皇室とタイの王家とのあいだには長年にわたって親密な交流があります。
こうしたこともあり、タイの人々の対日感情は友好的です。タイの民族構成は、85%くらいがタイ族で、ほかにモン族やカレン族などの少数民族がいます。他方でタイは中国と陸続きですから、太古から中華系の人々がたくさんやってきています。戦で敗れて逃れてきた人々もいたでしょう。近代に入ってからは商機を求めて南下してきた人々もたくさんいます。中国系の人々の仏教寺院には漢字が使われていて、同じ仏教でもタイの寺院とはちがいます。中国との長く複雑な関わりの結果、タイの政財界のキーパーソンには中国系(客家・はっか)の人物がとても多いのです。民主党のアピシット元首相やタクシン派のタクシン一族も中国系です。
 
カントリーリスクの一番目にあげた政治情勢のリスクについてもう少し説明しましょう。繰り返しにもなりますが、私が赴任していた時代の政治の混乱です。先に述べたように、タイには、富裕層に軸を置いた民主党と、低所得層や農民に軸を置いたタクシン派(いまのタイ貢献党)の2大政党があります。これに加えて軍(タイ王国軍)の司令官がいて、国民の求心力となる国王の存在があります。リーマンショックで経済が激震に襲われていた2008年12月。民主党のアピシット首相、ステープ副首相が政権を取りました。彼らは国民の不満を外にそらすために国粋主義・民族主義にもとづく露骨な強硬外交を展開します。カンボジアとの国境紛争です。
さらに、政権への批判は国王への叛逆だと見なして、2010年4月にはバンコクを占拠した市民たち、反独裁民主戦線(UDD)のデモ隊に発砲して、一般市民約90人を虐殺しました。
「暗黒の土曜日事件」です。これがもとでほどなくアピシット政権は崩壊しました。2011年夏の総選挙ではタイ貢献党が勝利。これに対してステープ元副首相などは、タイでは選挙が国民の意見を反映させる最終回答ではない、と主張しました。「選挙は不要だ」というデモも起こりましたが、これは議会制民主主義の明確な否定ですね。そうした中でタクシン元首相の妹であるインラックが首相に附きました。インラック政権は先ほど述べたように、最低賃金の大幅な引き上げやエコカー購入支援、政府がコメを実質上高く買い上げるコメ担保融資制度など、人気取りの政策を次々に打ち出し、工場を構える私たちも大きな影響をこうむりました。法人税減税もあったのですが、最低賃金の引き上げを逃れるためにミャンマーに移転した外国企業もありましたし、車の購入支援制度があったために気軽にローンを組んでしまい、のちに返済不能となって破産してしまう人が続出しました。
 
2013年10月、検察は暗黒の土曜日事件の責任を問うために、アピシット、ステープの二人を殺人罪で起訴しました。一方で民主党を中心にした反タクシン派は大規模なデモを起こし、社会は混乱を深めます。武装デモによる死者も出ました。詳細は省きますが、2014年1月にはバンコク封鎖の事態に至り、2月には妨害や混乱の中で解散総選挙、インラック首相の失職とつづきます。そして5月にはプラユット陸軍総司令官による軍事クーデターが成功しました。
プラユット司令官は、国王の任命を受けて暫定の首相となります。2017年には総選挙が行われて民政が復帰する見込みです。タイでクーデターは珍しいことではありません。そしてそのたびに憲法が改正されます。今度のプラユット政権も憲法を改正しましたが、これはなんと21回目の憲法改正でした。戦後の日本国憲法は一度も改正されていませんが、21回はあきらかに多すぎる改正だと思います。また知識層はミャンマーの軍事政権を批判してきましたが、自国の軍事支配についてはずいぶんと寛容です。止むことの無い政党の激しい争いと軍、そして国王の存在は、安定した社会に恵まれている日本人にはなかなか理解しづらいことだと思います。
洪水のあとに打ち出された復興政策によって、それなりの可処分所得をもつ中間層が増え、消費拡大のトレンドが見えていましたが、政情不安やクーデターによってブレーキがかかってしまいました。同じ理由で政府の公共投資は遅れ、農民に対するコメを担保にした融資も滞り、一方で消費ブームによって家計債務は増えています。

 

 

タイにおける自動車生産

 

経済のことも話しましょう。タイの通貨はバーツで、1バーツは3円ちょっと。2012年くらいから、ドルに対してバーツ安傾向がつづいています。ひとりあたりのGDPはまだ1万ドルには遠く、5,700ドルくらい(日本は32,000ドルほど)です。
最低賃金は、2013年から急に40%も上げられて全国一律300バーツ/日。成長率やインフレは世界経済及び原油価格の変動の影響を受けますが、注目すべきは失業率の低さです。2015年の数字では0.9%。日本よりもかなり低い数字です。法人税率は2013年に20%に下げられました。
 
タイはASEANの加盟国です。ASEANは、インドネシア、シンガポール、フィリピンなど東南アジア10か国の経済・社会・政治・安全保障・文化に関する地域協力機構です。そして強調しておきたいのは、タイをはじめとしたこのASEANに加えて、日本や中国、韓国、インド、オーストラリアなど全16カ国からなるRCEP(アールセップ・Regional Comprehensive Economic Partnership・東アジア地域包括的経済連携)への取り組みです。
 
これは、東アジアとオセアニアの広域で自由貿易の協定を目ざす動きです。TPPの先行きが現時点では不透明なこともあり、世界貿易額の3割を占める参加16カ国は、アジア太平洋地域に巨大で適正な自由貿易圏をつくる狙いをもって2013年から交渉を重ねています。
 
自動車産業はどうでしょう。タイは、モノづくり事業を行うためのさまざまな仕組みが比較的よく整った国です。社会インフラや原料調達の基盤、労働力などのファンダメンタルが整備されているので、自動車メーカーをはじめ多くの日本企業が進出しています。
その土地でお客さまの生産が行われる限り製造供給するのが私たちの使命です。自動車メーカーや部品メーカーに塗料を供給するためにNBCアジア(株)が工場を建てたのは、2005年。このころのタイでの生産台数は全メーカー合わせて100万台ほどですが、それが私が赴任した2012年には250万台近くになっていました(日本の国内生産台数は2015年で927万台ほど)。300万台も視野に入った。タイはやがて、成長を続けるアジアの(かつての)デトロイトになる。そんなビジョンをもって私は工場の拡大投資に踏み切ったのでした。
資金は内部留保とファイナンスリースです。タイ国内の自動車生産台数は、2015年で191万台ほどで、これはアジア55位(トップは中国の2,450万台、続いて日本の927万台、韓国455万台、インド412万台)です。世界全体で見てもタイは12位の自動車生産国です。一方で国民の自動車保有台数は千人に198台ほど。まだ生産の6割は国外に輸出されていますが、すでに5000ドルを超えている一人あたりのGDPの数字から見ても、国内消費の伸びしろはまだかなりあります。
 
さて、投資へのリターン、評価はどのようなものだったでしょう。生産設備の増設によって減価償却費は2.1倍に膨らみ総資産は1.7倍になりました。
しかしタクシン派と民主党の政争、さらには軍事クーデターが起こり、インラック政権(タクシン派)のポピュリズム政策が破綻してしまいます。当初見込んだマーケットの伸びは望めなくなり、当初の予測と投資決定の前提から大きく外れてしまいました。とはいえ、2012-13年をのぞけば、タイの自動車生産台数は200万台という、2011年以前と比べれば高いレベルを誇っています。総括すれば、不測の事態が起こったけれども、投資と並行して進めた経営施策の効果により損益分岐点を維持できたことと自動車生産台数の下支えにより、なんとか合格点はつけられそうだ、ということが言えると思います。2倍超となった減価償却費を抱えながらの損益分岐点売上の抑制は大きな経営課題ですが、本日のテーマからは外れますのでここでは触れません。

 

リスクに対して

 

カントリーリスクに対して私たちがどう対応したかを整理してみます。
まず軍事クーデターに対して。つくづく実感したのは、タイ国内外のニュースメディアの情報よりも、地域社会の人たちのネットワークから得られる情報が重要であること。戒厳令が布かれて夜間の外出が禁止されたときでも、工場にはどうしても夜間に動かさなければならないラインがありました。夜間外出禁止令下、どのように顧客対応したらよいのか? 人員をどう確保するか。顧客のタイ人マネージャー・従業員と当社タイ人従業員、従業員と私たち経営層、従業員同士のつながりやコミュニケーションが有効であり、とても大切でした。
また、法制・税制の解釈と運用の問題があります。詳しくは省きますが、たとえば課税対象となる取引価格には、技術ライセンス契約をしているライセンサーへのロイヤルティが含まれるのですが、この分への課税に関する認定が問題になります。対応を間違えば刑事罰を受けてしまいますから、日本の商慣習からは考えられないことでも当局に従わなければなりません。
タクシン元首相は警察官僚出身でした。これも日本では考えられませんが、タイの警察は給料が安く、制服も自腹、そして副業が認められています。そのうえ出世するためには、上司への付け届けや接待が欠かせません。だから賄賂や不正は当たり前なのです。慣れない日本人がへたに手を出すとトラブルを起こしかねません。私たちは、この世界には近づかず、触らず、関与せず、をモットーにしています。日本の常識で異文化社会を見てはいけません。
そしてクーデターに代表される政情不安。タイ社会を不安定にさせている要因には、既得権益を維持したい勢力と、これを打ち破るために大衆に迎合していく勢力の激しい摩擦があります。
近年は農民層、低所得者層が政治や消費に目覚めていく傾向も強くなりました。私たち外国人はよそから来てビジネスをさせてもらっているのですから、基本的にはこうした対立には近寄らないほうが良いのです。デモや群集とはできるだけ距離を置くようにします。
 
洪水に対して。雨期に必ずどこかで洪水が起こるのはタイの日常です。2011年のアユタヤ地区につづいて2013年にも、私たちのいるアマタナコン工業団地で被害がありました。2013年、私たちの工場は、スライドで見ていただいたように間一髪で直接の被害を受けずにすみました。 敷地が周辺よりわずかに高かったからです。今後に備え、工場では敷地周囲のフェンスの根元にブロックを積んで防水壁を作りました。また敷地に降り貯まる水を排水するポンプを増強しました。さらに外部の水路から水が逆流して来ないように、水路に閉鎖装置を設けました。さらなる課題として、洪水時の従業員の通勤手段の確保や、原材料の受け入れと出荷体制、手段の整備への取り組みを進めました。
 
最後に、商大時代にはじめた尺八にもどります。タイ国民の敬愛を一身に集めたプミポン国王(1946-2016)は、サックスを吹き作曲もよくするミュージシャンでもありました。ご自身でジャズバンドを編成して、国民に親しまれている曲もたくさん作曲しています。
私はタイにも尺八を持っていき、会社の催しや顧客とのパーティなど機会があればタイの人々に演奏を聴いてもらいました。そのとき国王の作品を吹くとたいへん喜ばれ、そのあとのコミュニケーションがとてもスムーズに進みました。
会計学と同様に、音楽もまた世界のどこでも通じるグローバル言語なんだと実感したものです。さらに言語といえば、英語は文字通りグローバルな共通語です。商大には語学に力を入れてきた伝統の学風がありますが、学生時代の私は英語力をつけることにも力を入れました。
それがつごう12年間いた北米赴任時代に役立ったことは言うまでもありません。タイに赴任するとき、せっかくだからタイ語をしっかり学んで現地の人たちとタイ語でコミュニケーションを取りたいと思いました。しかしどうしても英語によるコミュニケーションの方が便利で手っ取り早いので、残念ながら結局タイ語は身につきませんでした。管理職以上のタイ人はみな英語が話せるのです。公用語だけで28あるというインドの企業と仕事をしたときも、やはり使えるのは英語でした。英米はもとより、シンガポール、ベトナム、インドネシア、台湾、中国、カナダ、メキシコ…。世界中でやはり英語はもっとも有力なコミュニケーション・ツールなのです。
皆さんも学生時代に、会計学はもちろん、英語もしっかりと身につけてください。私からのアドバイスです。

 

 

<賀茂さんとの質疑>

 

Q(担当教員) 講義でも少しふれられていましたが、商大時代に熱心に取り組んだことはどのようなものだったでしょう?

 

A 私が入学した昭和44(1969)年は、全国各地の大学で学生運動が展開されていて、小樽商大もそうした影響下にありました。大学はロックアウトされていたので、入学後半年くらいは、講義は学外の公民館などで行われていたのです。子どものころから音楽が好きでヴァイオリンを習っていた私は、小樽に来て邦楽に興味がわいて、尺八部に入りました。大学の校舎で授業はなくても部室には出入りできたのでした。夏冬には合宿をして、市民会館で毎年演奏会を開きました。また室内楽管弦楽団というクラシック音楽の部活もあったので、ヴァイオリンは中学高校とブランクがあったのですが、そちらにも入りました。2年目から大学も落ち着いてきて本格的な勉強がはじまったのですが、会計学とその関連の分野はしっかり勉強しました。会計主体論をテーマに卒論をまとめましたが、もう少し小樽で勉強したいと思い、大学院に進んだのです。

 

Q(学生) 大学時代に身につけたことが、その後どのように役立ちましたか?

 

A 尺八と会計学と英語は、その後の私のキャリアを拓いてくれる大切なツールになりました。アメリカやアジアを相手に仕事をしてきましたが、海外で仕事をすると特に、会計の仕組みは世界共通で、まさにグローバルな言語なんだと実感できます。そしてタイでNBCアジア(株)のトップを務めたときなど、事業計画の作成、投資必要資金と資金調達方法の組合せによるキャッシュフロー予測等々で自分なりの方針決定や確認のためにシミュレーションを繰り返しましたが、そのベースにあったのは、商大で基礎を身につけた会計学でした。

 

アーカイブ

月別

資料
請求