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エバーグリーンからのお知らせ

2017.12.06

平成29年度第8回講義:「私の社会人七変化」

概要

 

○講師:村上眞佐子氏(昭和53年商学部商学科卒/元・ノボ生化学工業株式会社、株式会社ビー・ユー・ジー、株式会社データクラフトほか)

 

○題目:「私の社会人七変化」

 

○内容:四年生大学卒の女子の就職先がごく限られていた時代。札幌で総務・経理の世界に飛び込むことができた。そこから外資系企業のカルチャーを体験して、次はITベンチャーの世界へ。それから学校総務を経験して、最後は再びIT分野、しかも事業譲渡という難しい局面の最前線で仕事に明け暮れた。皆さんの学生生活と社会人になるための準備のひとつとして、私の仕事歴を話してみたい。

 

総務のマルチプレイヤーとして“四大卒女子”受難の時代

 

私は7つの会社を経験しました。でも7つとも分野は総務畑だったので、職種としては一貫しています。私は総務の世界で長くキャリアを積んできました。そしてその基盤にあったのは、商大での4年間でした。来年(2018年)3月で、卒業40年になります。
 
まず学生時代のことから話を始めます。部活は、ESA( English Studies Association・英語部)で、ゼミは久野光朗先生のゼミでした。ESAに入ったのは、英語が話せるようになりたい!というシンプルな思いからでした。毎日昼休みに部室に集まって、NHKラジオの英会話テキストで会話練習をします。必ず予習をしてその週のスキットを暗記しておかなければなりません。春と夏には合宿がありました。春は2泊3日で朝里川温泉。夏は3泊4日で積丹の美国の民宿へ。毎回テーマを決めて、最終日にディベートをします。1年生は人間扱いされないようなとにかく厳しい部なので、資料集めからはじまる準備がたいへんでした。しかも夏の合宿では、1年生は3日目のディベートが終わるまで海に入ることも許されません。そのほか北大や藤学園、北星学園大などとの合同のスピーチコンテストやディベートがあったり、英字新聞を発行したり。厳しくも充実した日々でした。
私はESAの活動で3つのものを得ました。それは、「生涯の友」、「外国の人と話す好奇心と勇気」、そして、「『英語』という、社会に出てからのプラスワンの武器」です。ゼミでの勉強と仲間との交遊も大きな財産になりました。
講義のために学生時代の資料を探していたら、ガリ版で刷られた(といっても分からないでしょうが)久野ゼミの募集要項が出てきました。応募条件の一節には、「簿記学の単位を優秀な成績で取得可能な者」とあります。ESAの友人も志望していたこともあり、私はともあれ図々しく申し込んでしまいました。実は前期の簿記学の成績は赤点ギリギリだったのです。当時1学年は270人ほどで女子は1割ほど。ところが久野ゼミには6人もの女子が応募しました(2年生の女子の約2割に当たります)。先輩の中には女子が多すぎる、という声もあったらしいですが、先生は全員受け入れるか全員落とすかだ、とおっしゃったそうで、結局無事女子全員が受け入れられました。男子8名女子6名の構成。女子の割合が高いゼミだったと言えるでしょう。
久野ゼミのモットーは、「良く学びよく遊ぶ」。何ごとにも一生懸命取り組むという精神です。ゼミの発表担当になったときは、徹夜もしました。一方でとても天気が良いときは、みんなでソフトボールをするのが慣例でした。ゼミ旅行も毎年恒例で、礼文島や稚内、道東などに行きました。また春夏冬の休み明けには全員が3分間スピーチをする慣例もありました。そのときどきで自分が考えていることを人前で披露するのですが、これは社会人になっていろんな人の前で論理的に話をする状況のシミュレーション。あとになってその意義がわかりました。
 
先生は1995年に商大を退官されましたが、ゼミは35期まで持たれました。私は真ん中の18期です。ゼミには卒業生による久野会という組織があり会報も作られていました。2011年に先生が瑞宝中綬章を受章されたのを記念して、私の発案で歴代ゼミにちなむ写真集をつくりました。(※授業中に回覧しましたが、商大の図書館にも寄贈しています)。
私が久野ゼミで得たことを整理すると、こうなります。「自分を信じて諦めずにやり通す気持ち」、「課題にしっかり取り組む姿勢」、「努力している姿は人に伝わること」、「ゼミの一員としてその歴史を次に伝える責任と喜び」、そして、「人生を豊かにしてくれる、先生やOB・OGとの繋がり」。
 
さて1978年、昭和53年の就職はどのようなものだったでしょう。男女雇用機会均等法ができる(1986年)前のこの時代、男子には求人雑誌が段ボールでドサッと送られてくるのですが、女子には2冊だけ、という具合でした。求人の数がとても少ない中で、久野ゼミに女子の求人票が来た企業のひとつが、日本酪農機械(株)という、乳製品や飲料の製造設備の設計・製造をする会社でした。
ゼミの友人とふたりでここに入りました。配属は総務で、総務・庶務・経理・社長秘書の仕事です。給与計算や社会保険の手続き、経理の仕事としては起票から元帳に伝票を転記して試算表を作るといったこと。もちろんコンピュータはありませんし、書類はすべて手書きです。しかも仕事をちゃんと教えてくれる先輩はいないので、これまでの書類を見て作業するという文字通りのOJT(On the Job Training)で覚えました。
そんなOJTを乗り切ることができたのは、やはり大学でいろんな基礎を身につけていたからでした。簿記会計の知識はもちろんですが、久野会で年上の大先輩たちと接していたことが、年長者とのコミュニケーションに役だったと思います。もちろん、若くて会社組織のことがわかっていなかったので、怒られることもありました(社長に真剣に怒鳴られたこともありました)。
 
仕事をひととおりマスターすると、仕事に限界を感じ次第に新たなステージに進んでみたいと思うようになり、6年目のときに転職を決めました。その後何度か転職しましたが、ステップアップをめざして転職したのはこのときだけでした。入ったのは、ノボ生化学工業(株)という、デンマークの会社の日本法人。産業用酵素で世界の半分くらいのシェアを持っているこの大企業が石狩湾新港工業団地に進出することになり、大きなニュースにもなりました。道庁や北海道東北開発公庫などが誘致に取り組んだ、石狩新港工場誘致の目玉でした。ここでは経理の専門職です。経理課は3人で、女性は私ひとり。デンマークの親会社のシステムを日本に移すことから関わりました。親会社に、週単位、月単位、四半期単位でいろいろな経理レポートを上げます。年次決算では監査報告を添えて60ページくらいの書類をつくり、FAXでデンマークに送りました。ノボ社はコペンハーゲンとニューヨークにも上場していましたから、国際会計に則った親会社との会計基準の違いの確認や輸出入業務、外国為替の知識を得ることができました。そして英語を使う機会がふんだんにあり、学生時代に一生懸命取り組んだ英語が、仕事として役に立ちました。
 
経理担当者のことをBean Counter(経理屋=数字の計算ばかりしている人と皮肉って)と呼ぶことがありますが、私の仕事人生ではこの時代を、「Bean Counter誕生の時代」と位置づけました。ここでも6年目を迎えたころ、大事件が起こります。男性がふたりいたにもかかわらず私が経理責任者(Accounting Manager)になってしまったのです。青天の霹靂(へきれき)でした。総務部長が定年になり、私が引き継ぐかデンマークから人を派遣するか、という状況でした。でもなぜ私が? 親会社から担当役員が来社してノボ社の経営状況や展望などの話をしたときに、平社員では私ひとりだけ英語で質問をしたことがありました。ノボ社の中国進出と日本法人への影響を聞いたのですが、その印象が強かったようでした。マネージャーとしてデンマークの親会社に出張したり、移転価格税制をめぐって国税の調査が入ったときは、税務署にゼミの後輩が居るので慣れていて“税務署員も普通の人”と何ら臆することなく対応したり(笑)、外資企業の経理の第一線で、「Bean Counterの輝ける日々」でした。
しかし輝ける日々は長くはつづきません。そのころ90年代の半ば、急激な円高が進み、1ドルが80円を割る水準にまで達します。親会社はこの流れを深刻に受けとめて、日本からの撤退を決断しました。進出してたった10年でした。北海道拓殖銀行が破綻する1年前(1996年)で、北海道経済に逆風が吹き荒れていました。
 
人材紹介企業の紹介で、私は(株)サテライトという会社に移りました。札幌のITベンチャー(株)ビー・ユー・ジーの子会社で、アニメーションをつくる会社です。立ち上がったばかりで基盤づくりのさなかでした。私はここで、総務の仕事全般に加えて、株式公開の準備や社内規定の整備(人事評価システム他、会社の諸規定など)といったことにも深く関わります。いわば「総務マルチプレイヤーの始まり」です。当然、来る日も来る日も残業。会社は札幌駅北口からすぐだったので、会社から出て5分で終電に飛び乗る、といった調子でした。
2年弱そんな日々を送っていましたが、今度は親会社のビー・ユー・ジーの社長から秘書をやってほしいと呼ばれて移りました。サテライトもそうですが、自由で奔放なITベンチャーのカルチャーには、驚かされることがたくさんありました。デスクのまわりにガンダムのプラモデルやフィギュアがズラッと並んでいたり、ギターがふつうのように置いてあったり。新人研修は豊平川のイカダくだりでした。社長秘書として、スケジュール管理や役員会の設定、議事録作成などの他に、ビー・ユー・ジーほかIT企業数社が中心になって「ITビジネスアイデアコンテスト」という事業を立ち上げることになり、その事務局を任されることになりました。2000年ころの話で、残業生活は一向に改まりません。私の家は手稲でビー・ユー・ジーは厚別(札幌テクノパーク)ですから、毎日札幌の東西を横断していました。
 
2001年の夏、社長交代があって私は広報の仕事が軸になりました。ITに関する私の知識はとてもあやふやなものでしたが(社長からは冗談半分にIT難民と言われていました)、展示会などでは大事なポイントを丸暗記して対応しました(笑)。2002年に北海きたえーる(北海道立総合体育センター)でDPI(障害者インターナショナル)という大きな催しがあり、ビー・ユー・ジーのシステムが使われお手伝いをしたことも印象に残っています。そのあとビー・ユー・ジーは事業縮小をして早期退職制度ができたので、私は退職の道を選びました。

 

 

通勤電車の中で日付が変わった日々

 

失業中に社会保険について改めて勉強をしようと思いました。制度も変わってきた時代で、社会保険労務士の講座を受けました。失業を実際に体験しながら受けたので、雇用保険制度については理解も早かったと思います。
再就職活動の中で新聞の求人募集を見て、青山工学・医療専門学校に応募して採用されました。「さすらいのマルチプレイヤー学校へ行く」の巻です。実は募集枠は、35歳くらいまでの人、というものでした。そのとき私は47歳。でも総務と経理の実務を幅広く経験していた私のキャリアをみて、即実務対応ができると判断して採用されたようでした。総務のマルチプレイヤーの面目躍如です(笑)。ここでは学校総務や学校経理が目新しい業務でした。補助金の申請や、理事評議員会の準備といった仕事もあり、職業訓練の学生のクラス担任もしました。担任のほか学生奨学金の担当もしましたから、いろんな学生たちと日常的に関わりました。学生はよく、「奨学金をもらう」という言い方をするのですが、「そうじゃない、『借りる』んだよ。そこをしっかり考えなきゃダメだよ」、などと口を酸っぱくして言っていました。
 
学校には9年弱勤めたのですが、そこからまた転職しました。実はビー・ユー・ジーの時代に担当したITビジネスアイデアコンテストの中心企業のひとつだった(株)データクラフトという会社から、うちに来てほしいと何度も誘われていたのです。学校の仕事の引き継ぎはじっくり進めましたが、データクラフトの経理責任者が急に辞めることになってしまい、データクラフトの引き継ぎは実質2週間でした。
 
2012年の春、経理責任者として(株)データクラフトに入社しました。データクラフトは写真などのイメージコンテンツの企画開発と販売をする会社です。「素材事典」というヒットシリーズを持っていました。多くの写真家さんから写真データを預かって販売をしていたので、そのロイヤリティ管理のため1枚1枚に商品コードがあり、ほかにも製品コード、顧客コード、部門コード、仕入れ先コード、プロジェクトコードなど、コードナンバーだけでもたくさんの種類があって、売上、原価、経費の把握に苦労しました。さらに自社開発したコンテンツやソフトウエアの資産計上など、2週間の引継ぎではとても把握しきれず、Bean Counterも四苦八苦でした。最初の決算は、前年の資料を見てなんとか勢いで終わらせました。
そしてそのころ、リーマンショック(2008年秋)以降の不況で企業の広告費が絞られ(得意先の急減を意味します)、一方で、手軽で高機能のデジタルカメラやスマートホンの普及でデジタル素材のビジネスには厳しい逆風が吹き始めていました。逆風は次第に厳しくなり、やがて借入金の管理と資金繰り、そして銀行対応が社長と私の主な仕事になっていきました。銀行8行と北海道信用保証協会を入れたバンクミーティングで、返済予定の変更のお願いや返済猶予をお願いすることもありました。そのために各行に提出しなければならない書類づくりに追われます。さらに苦しくなると、社長と私で社会保険事務所や税務署に、社会保険や税金の延納のお願いにも行きました。ここに至って社長は、何より従業員の生活を守るために事業の譲渡先を必死に探しました。
事業譲渡に向けては、交渉先とNDA(Non-Disclosure Agreemenr:機密保持契約)を結びます。情報が外部に漏れないように交わす契約です。また、デューデリジェンス(Due diligence)という、譲渡先がリスクリターンを適正に把握するために事前におこなう一連の調査(資産査定)も重要になります。これにはビジネス、ファイナンシャル、リーガルの3つの種類があります。皆さんが覚えておくと良い用語だと思います。
 
デューデリ資料作成のため、電車の中で日付が変わっていく怒濤のような日々が続いて、2015年4月、(株)データクラフトは日本テレネット(株)に事業譲渡しました。会社の事業は日本テレネットが受け皿として新たに設立したイメージナビ(株)に引き継がれました。私は新会社の設立開始手続きとして、税務署、社会保険事務所、健康保険協会、労働基準監督署や職業安定所への届け出や、銀行口座開設、公共料金などの契約変更の手続きを行いました。すべては親会社の方針に基づいて行われますが、コミュニケーション不足からスムーズに進まない局面もいろいろありました。
一方で、データクラフトを清算するための手続きも、データクラフトからイメージナビに委託され、弁護士の力を借りながら進めました。同時に2社の経理処理や決算をしていた時期もありました。そんな日々を経て、イメージナビには昨年(2016)年秋まで在職しました。データクラフトからイメージナビへ移行するまで、私は「総務マルチプレイヤー」としていままで蓄えてきた知識や経験のすべてを、毎日必死に動員したのでした。
 
さて、総務・経理の世界をさまざまな環境や状況の中で経験してきた私の仕事人生を聞いていただきました。商大を出て最初に勤めた日本酪農機械(株)では、はじめての社会人生活で仕事の知識と経験の広がりがとても楽しい日々でした。次のノボ生化学工業という外資企業では、英語と会計という、商大で学んだことが活かせました。サテライトやビー・ユー・ジーでは、自由な雰囲気の中で、若い人たちが情熱的に動かすITベンチャーという新しい世界を体験して、そのあとの7カ月の休み(失業期間)では社会保険を学び直し新たな知識を得ました。最後の2社では、それらすべての経験が活かせたと思います。融資を受ける側として、銀行が持っているもうひとつの顔もしっかり見ることができました(笑)。
 
最後に皆さんに3つのことを提言したいと思います。一つは、「学業にプラスワンを見つけて自分のものにすること(私の場合は英語でした)」。二つ目は、「何事にも一生懸命に取り組んで、経験を生かしてステップアップを目指すこと」。そして三つめは、「大学での出会いを大切に。同期ばかりでなく先輩・後輩とのつながりを継続していただきたいこと」。最初の方で触れたように、私が自分の意思でステップアップをめざして転職したのは一度しかありませんでした。でもいまは、そのほかの転職で得た経験も、私の人生を豊かにしてくれたかけがえのないものだったと自信をもって言えます。
学生時代、私はゼミと部活でしっかり鍛えられました。一生懸命努力している姿は、必ず誰かが見てくれていました。それは社会でも同じです。そしてまた、手を抜いていると、それを見ている人がいることも事実です。皆さん、学生生活をどうぞ楽しんで、何ごとにも一生懸命取り組んでください。

 

 

<村上眞佐子さんへの質問>担当教員より

 

Q 総務畑の仕事は地味な裏方、というイメージをもつ学生もいると思います。総務・経理系の仕事のやりがい、面白さとはどんなところにあるでしょう?

 

A 会社の事業や業務のすべてが見えることだと思います。そしてこれは私の仕事の流儀なのですが、たとえ書類一枚、メール一本ですむことでも、ときにはちゃんと顔を見て対話することが大切だと考えています。そうしたコミュニケーションを通せば、総務としては会社の全体がさらにいきいきとわかってきて、面白さも倍増します。皆さんは就職すると、営業や企画やいろんな部署に配属されると思います。でもどんな部署でも、総務の人との接点が必ずあります。その意味で今日の私の話を、総務の人はこういうことを考えているのか、と受けとめてくれるとうれしく思います。

 

<村上眞佐子さんへの質問>学生より

 

Q 女子学生の就職が難しかったというお話が印象的でした。昭和50年代に、女性だから苦労したこと、あるいはその逆ではどんなことがありましたか?

 

A 商大では完全に男女平等でした。でも就職してみると、まず給料からしてちがう。また、自分ではふつうに同僚と仕事の問題点を話しているのに上司から、「村上さん、女性が男性に対してそういうものの言い方をするものではないよ」、などと注意されたこともあります。でも2社目は外資ですから、逆にレディファーストでした。日本法人の社長と東京の銀行のトップを訪ねたことがあるのですが、応接室に通されて社長はいつものようにお先にどうぞと私を先に入室させてくれたので、何のためらいも無く奥の席に座りました。部屋に銀行の頭取が入ってきて私が上座に座っているのを見て驚いた様子でした(笑)。そしてITベンチャーでは、男女差はまったくありませんし、年齢的にも上になっていたので私は若い社員にお母さんのような気持ちで接していました。

 

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