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エバーグリーンからのお知らせ

2018.01.17

平成29年度第12回講義:「小樽観光を考える—過去・現在・そして未来へ—」

概要

○講師:赤間 元氏(昭和42年商学部経済学科卒/中央バス観光開発株式会社参与)

 

○ 題目:「小樽観光を考える—過去・現在・そして未来へ—」

 

○ 内容:小樽商大を卒業して勤めたのは、北海道の老舗百貨店。労組委員長や本社開発室長なども経験して、社会勉強を重ねた。学生時代から四半世紀以上を経てホテルの総支配人として小樽に帰り、まちとの関わりを深めた。たくさんの人々と力を合わせて商都の衰退と向き合い、小樽観光協会の舵取りも担った。そうした経験をもとに、観光都市小樽の課題と可能性を語りたい。

 

観光をまちづくりから考える時代に小樽は観光都市と呼べるか?

 

 

 

小樽商大を卒業してちょうど50年になります。卒業して百貨店の丸井今井に勤め、1994年からは小樽グランドホテル(現在は小樽掖済会病院のある稲穂1丁目)に出向しました。この時代に仲間と、今年で20回を数える「小樽雪あかりの路」のイベントをはじめました。百貨店を辞めてNTTドコモ北海道で広報宣伝の仕事などをして、2006年から6年ほど小樽観光協会で専務理事などを務めました。現在も小樽の観光の分野に関わっていますので、今日は小樽の基幹産業である観光についてお話しします。

 

 

札幌で生まれ育った私ですが、隣まち小樽との縁はあまりありませんでした。でも1962年に小樽商大に入学すると、小樽のまちが大好きになりました。その気持ちはいまでも変わりません。小樽には海があり山があり、そのあいだの古くて狭い土地に人間の営みがある。人と人のあいだが近いような気がしました。かつて、「このまちは行き倒れが出ないまちなんだよ」、と言われたことがあります。貧しさのあまり路上で倒れてしまっても、誰かが助けてくれる、というわけです。あるとき、授業をさぼって水天宮からボーっと海を眺めていたことがありました。すると近所のおばさんが声をかけてきました。「商大の学生さんかい? 団子でも食べていきなさいよ」。小樽は商大を大事にしてくれるまちなんだなぁ、としみじみ思いました。

 

仕事のキャリアを積むにつれて、小樽には札幌が無くしてしまったものがたくさんあるな、と気づくようになりました。いまの小樽は北海道を代表する観光都市のひとつですが、私の学生時代、小樽観光なんて一般的ではありませんでした。小樽はかつて繁栄を極めた金融・商港都市ですが、日本が樺太を失った戦後は多くの航路も衰退して、1960年の後半に人口が20万人を割ってしまうと、斜陽都市という言葉が人々の口にのぼるようになりました(いまでは約11万9千人になってしまいましたが)。まちを何とかしようと思う人々によって育てられたのが小樽観光です。

1970年代半ばには、運河論争がありました。かつて港と人々の生活を支えた小樽運河を、もはや無用の長物だから埋め立てて道路を広くしようという計画が立てられました。しかし、冗談じゃない、運河こそまちの歴史と精神の拠り所なのだから、目先の損得にとらわれずに次の時代の小樽につなげよう、と大反対の声が起こったのです。単なるノスタルジーではなく、運河の再生でまちを復活させようという主張です。市民を二分した論争は結局妥協の産物として、半分だけを残すことになりました。このとき、まちをどうしようか、と考えて議論を重ねていく市民意識が高まりました。北海道では珍しく行政主導ではない、人々の自主的で主体的な動きです。

 
そもそも小樽観光の始まりは、1965年あたりでした。日本の最北端や国境の街をめぐる秘境ブームが起きて、その中で大きなキスリング(横長ザック)を背負って、バス乗り場や列車の通路を窮屈そうに横歩きしながら旅をする若者たちがやってきました。いわゆるカニ族です。彼らは小樽の美しい街並みや歴史の深さに打たれ、小樽の良さが徐々に口コミで広がったと言われています。

1970年代、アンアンなどのファッション誌が生まれ、メディアでも観光が有力なコンテンツとなっていきました。国鉄(現JR)がディスカバー・ジャパンという旅のキャンペーンをはじめました。知らない日本を見に行こうという呼びかけです。戦後の復興から高度成長によって豊かになった日本は、若い人たちが気軽に旅に出られる社会になっていました。京都や金沢、飛騨高山などが人気の観光目的地になり、やがて小樽もそうした文脈の上で「観光都市化」されていきました。1960年の小樽の観光入込客数は年間約80万人。それが私の学生時代の1966年には200万人を超えました。時代がぐんと進んで80年代後半から、のちにバブルとも呼ばれる好況が日本をうるおします。明治に建てられた石貼の倉庫をリノベーションして北一硝子3号館が開業したのは1983年。景観条例(小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例)の整備がはじまったのもこのころで、ガス灯が灯るいまの運河の散策路が整備されたのは1986年。92年の小樽の観光入込客数は函館を超えて537万人。90年代はやがて拓銀の破綻(1997年)に象徴されるように不況感が社会をおおっていきますが、人々の消費熱が一気に醒めたわけではありませんでした。
小樽への入込客数がピークを数えたのは1999年で、年間973万人です。先にふれた「小樽雪あかりの路」をはじめたのは1998年で、私は小樽グランドホテルの専務でした。これはいまも改善されていない小樽観光の弱点のひとつなのですが、冬場と夜に楽しめるものが少ないので、小樽に宿泊する観光客は限られてしまいます。

 
そこで私たちは、ゴージャスなスケールを売りにする「さっぽろ雪まつり」に対して、まちを素朴なキャンドルの光であたためようと考えました。小樽出身の文学者伊藤整の処女詩集のタイトルをなぞって、雪あかりの路はこうして始まります。作業の主役は市民ボランティア。たくさんの商大生にも手伝ってもらいました。近年では海外から観光でいらした皆さんも、ただ見物するだけではなく楽しそうに参画しています。小樽ならではの魅力的な夜が生まれはじめました。

 
小樽観光の売り物とは何でしょう。以前、商大の佐山公一先生はひとことこうおっしゃいました。それは「レトロ」です、と。80年代後半の未曾有の好況期、札幌など日本の都市圏では歴史の物語をまとった古い建物がどんどん取り壊され、均一なコンクリートで再開発されていきました。ところが幸か不幸か小樽はそんな好況の影響をあまり受けなかったので、古い建物がそれなりに残されていきました(函館の西部地区も同様です)。そして各都市がオリジナルの観光コンテンツを争う時代になって、小樽は一周遅れのトップ走者になったのでした。

私が小樽観光協会の専務理事だった2008年、小樽市議会は観光都市宣言を決議しました。市のWebサイトには、「多くの人に愛されるまち、より質の高い時間消費型観光のまちを目指し、ここに『観光都市・小樽』を宣言します」と掲げられています。しかし私に言わせれば、小樽市は観光の意味を深く理解せずにこんな宣言をしてしまいました。まちが拠って立つ産業のひとつが観光だ、といっているわりには市役所に観光部もなく、観光の施策を動かすのは港湾部の中の観光振興室という小さな部署にすぎません。実はいまでも、観光みたいなちゃらちゃらした水物にまちを託せるわけはない、などと言う市の幹部がいるのです。

 
近年の小樽観光は、道内からのリピーターで成り立っています。海外からの観光入込客調査も満足に行われていないので(これは大きな問題です)国内からの数字になりますが、観光目的で小樽にいらっしゃる方の7割は道内客。残り3割のうち半分くらいは関東圏から。道内からの9割はリピーターで、その7割以上は4回以上来ているというデータがあります。こうしたリピート客には、「小樽ってまだ運河とガス灯だけかい?」などと思っている方が少なくありません。

また皆さんも毎日目にする海外からのツーリストですが、一刻も早く状況を正確にデータ化しなければなりません。現場の皮膚感覚では、いま観光全体の3〜4割が外国からのお客さまだろうと言われています。一方で外国からの宿泊客のデータは正確につかめていて、それによれば2016年の数字で、中国からが4万人、香港から2万人、台湾2万人、タイ1.6万人、シンガポール1万人、マレーシア5千人となっています。外国人観光客の91%がアジアです。入込客数のうち小樽で宿泊するのは10.3%。10人にひとりしか泊まりません。くやしいことに旅行エージェントの皆さんは、小樽には泊まる理由がない、と言います。いま市内にはホテルのベッドが4200ほどありますが、4人5人と泊まれる設定の部屋もカウントされているので、正味のキャパシティは3000ベッドくらいと考えられます。これを2016年の入込客数794万人で単純計算すると、たとえ毎日満室でも14%くらいしか泊められないことになります。ですからハイシーズンの夏にはホテルのベッド数が足りません。その上エージェントの方は、小樽は2時間で遊べる。夜のメニューがない、と言います。だから宿泊は札幌や温泉地に行ってしまいます。冬場の落ち込みも問題です。

どうですか、「観光都市宣言」をしているのに、産業としての観光がちゃんと成り立っていないことがわかるでしょう? せっかくたくさんの方が来てくださっているのに、それでまちがちゃんと潤わずに、たくさん取りこぼしてしまっている。

 

 

 

まちにとって観光がもつ可能性とは

 

観光は、実に幅広い裾野をもつ産業です。

まず旅行業、交通、小売業、ホテル、観光施設といった、観光客が直接お金を落とす分野があります(市の経済寄与率3割を超えるという試算もあります)。さらにその裾野には、交通政策や福祉政策(バリアフリーなど)、インフラ整備や生涯教育、児童教育、歴史建築物保護、市民イベントなど幅広いまちの営みがあり、観光は経済や市の政策、そして文化に深く関わっているのです。そして、さまざまな土地から訪れるたくさんの観光客の目にふれることで、市民は市民としての自覚を深め、愛郷心を育みます。市民の暮らしは大きな刺激を受けるでしょう。つまり観光は、ちゃらちゃらした金儲けの手段ではなく、「まちづくりの資源」そのものであり、まちが豊かに成熟していくために極めて有効な方法なのです。

しかし繰り返しますが、小樽ではそうした価値観が広く浸透しているとはいえず、目の前のビジネスにおいても、せっかくいらっしゃる皆さんがもたらすはずの経済効果を、自分たちの売上として取り込めていません。小樽にも大型クルーズ客船がやって来ます。昨年(2017年)は20隻も入港しました。乗っているツーリストは、魅力的な対象があればひとり2〜3万円の消費をすると言われています。でも、小樽ではそんなにお金を使う機会がありません。近年の函館市の観光収入は2600億円ほどと言われています(直接売上に波及率1.49を掛けた数字)。そして小樽はといえば、私の試算では1080億円ほど。統計が不十分というのが小樽観光の大きな問題のひとつですが、こうした経済指標にしても、産業連関表を使った公式なデータは15年前のものしかありません。

私はほんとうに驚いたのですが、ハワイの観光入込数はいま741万人で、実は小樽よりも少ないのです(2016年797万人)。しかし観光収入は小樽の16倍もあります。考えれば考えるほど、「観光都市」を宣言した小樽は観光都市とは呼べなくなります。

 
話を少し広げてみます。日本に来た外国人観光客は、2007年で800万人。これが2016年には2400万人になりました。政府は2020年に4000万人、2030年には6000万人という目標を掲げていますが、これは荒唐無稽な目標でしょうか? 私はそうは思いません。世界の先進国にはだいたい人口の半分くらいの外国人観光客が来ているからです。カナダ46.5%、イギリス48%、ドイツ39%といった人口比の数字があります。さらに上位には、フランス128%、スペイン130%、ギリシャ163%、オーストリア289%という具合です。観光産業の売上は、世界各国のGDPの総和の10%を超えています。これは世界の自動車産業よりも大きな数字なのです。

 
魅力的な観光地には4つの条件があります。「多様な生きものがいる美しい自然」、「おだやかな気候」、「固有の歴史文化」、「おいしい食べ物」です。日本はこの4つをとても高いレベルで持ち合わせています。ちなみに「おもてなし」というのが日本文化のエッセンスのように語られることがありますが、「おもてなし」がすばらしいから日本に行ってみようと思う外国人はほとんどいないと思います(笑)。

世界経済フォーラム(WEF)が、「観光競争力」という指標をまとめています。2017年版では日本が過去最高の4位となりました(スペイン、フランス、ドイツにつづく)。2年前の9位からぐんと伸びたのです。これは交通などの社会インフラや自然・文化資源、治安、保健衛生、ビジネスやITの環境、国際的な開放度、労働市場、環境のサスティナビリティ、観光政策などいくつもの項目から総合的に産出されたもので、このランク上昇と実際の入込数のギャップから、日本の観光がもっているポテンシャルはまだまだ眠っていることがわかります。

 
さて小樽の観光はこれからどうなっていくべきかを考えてみましょう。来樽する外国人のほとんどはアジアから、という話をしました。これからはそのベースの上に、ヨーロッパと北米からの観光客を誘致したいところです。長期の休暇を楽しむ彼らは、アジアの人たちよりたくさんお金を落としてくれるでしょう。そこで考えたいのが、世界的なクオリティをもつスキーリゾート、ニセコとの連携です。ニセコに2週間いれば、そのうち何日かは小樽に来てもらう。パウダースノーのニセコのバックカントリースキーやエクストリームスキーから「雪あかりの路」や日本海の味覚まで、日本ならではの冬をたっぷりと楽しんでもらえます。例えばこういうふうに、「どこの国の人にどのくらい来てもらって、どんなことを楽しんでもらうか」。そのために「受け入れ側の誰が何をするか」—。そこを科学的にちゃんと考えなければなりません。

 
繰り返しますが、そのためには詳細なデータを正確に取らなければなりません。小樽観光のキーワードは「レトロ」だと言いましたが、しっかりしたコンセプトのもとに小樽のブランディングをていねいに磨いていかなければなりません(現状では小樽はレトロを大切にしているとは言えませんね)。そのために、小樽商大をひとつの軸にした産官学の協働体制をさらに充実させたいところです。ニセコと小樽のあいだの二次交通も、中央バスがある小樽ならいろいろな展開が図れます。

また、先日中国の人と話をしていて、いまの中国では現金を見たことのない子どもがいる、という話に驚きました。ITの進展によって消費の現場や商習慣は劇的に変わっています。その流れを積極的に取り入れなければならないでしょう。誰でも外国人とふつうにコミュニケーションがとれるアプリの登場も時間の問題です。また、小樽での宿泊を増やすために空き家の活用や、上質なテントを使ったテントリゾート民宿といった方法もある。ステークホルダーが多岐にわたるこれらのことは、産官学の連携でこそ実現していきます。

アメリカ西海岸のサンフランシスコは、全米の中で行ってみたいまち・暮らしてみたいまちの両部門で第一位です。そこに暮らしている人々が、まちに誇りをもって豊かに暮らしている(物質的な豊さに限りません)。人はそんなまちにこそ、旅してみたいと思うのです。「観光をまちづくりとして考える」ということは、つまりそういうこと。小樽と毎日深く関わる皆さんは、小樽のことをぜひ自分の言葉で話せるようになってください。最後に70代の先輩から若い皆さんにメッセージを。人間の原動力は好奇心だと思います。私は、人生の最後に「ああ面白かったなぁ」と思いながら死んでいきたいと思います(笑)。

 
そのためには、学生のうちにとにかくいろんな本を読みましょう。いまのうちに人間としての土台をしっかり作ってください。独りよがりの狭い思い込みでは困りますが、好きなこと、興味を引くことに熱中するのはすばらしいと思います。人生は「ハウツー」をマスターすればうまくいく、というものではありません。だから真面目にコツコツやるだけではつまらない。私はいままでたくさんの商売人と仕事をしてきましたが、商売がうまい人はみんな頭の良い「悪(わる)」です。誤解されると困りますが、優秀なビジネスマンは真面目なだけの人ではないという意味です。付き合う人にいろんな良い影響を与えていく、実に魅力的な人格をもっています。

 
皆さんはこれから進路で迷うことがたくさんあるでしょう。大事なのは、今自分が本当にやりたいことは何なのか。自分の好奇心に問いかけることだと思います。

 

 

 

 

<赤間 元さんへの質問>

 

 

担当教員より

 

 

Q 小樽観光の課題をいろいろ指摘していただきました。「まずここから手をつけなければ」ということは何でしょう?

 

 

A まず、外国人の入込客数の分析に代表される、ベースとなる統計データの収集と分析ですね。現場のベテランが勘で動かしているのではなく、観光を科学としてロジカルに分析・探求して、中長期的な戦略を練ることが必要です。そのためには、やはり行政が大局的に深く関わらなければなりません。観光はとても幅広い分野にまたがるものなので、縦割りの行政組織では対応しきれません。ながく持論として訴えているのですが、観光部を作って横断的な施策を動かしたり、副市長が観光をしっかり担当するといった大胆なことを、多くの人に真剣に考えてほしいのです。

 

 

Q 最後に「悪(わる)」というキーワードが出てきました。もう少し説明していただけますか?

 

 

A 私は「まじめ」という言葉を悪口として使います(笑)。「『非まじめ』のすすめ」という本がありましたが(森政弘)、まじめ一本だとそこで思考停止になってしまう危険がある。同じように、「善」にもつねに疑う余地を残しておく必要があると思います。世の中に「たったひとつの正解」なんてないわけですからね。その意味で「悪」には、硬直しちゃわない自由があります。私はいま74歳ですが、いまでも毎日のようにいろんな気づきや学びがあります。一方で長く生きてきたので、これだけは間違っていないぞ、ということもある。疑ったり確信したり、そのバランスを取りながら生きていくことが、時代の変化に対応していくことではないでしょうか。

 

 

<赤間 元さんへの質問>学生より

 

 

Q 観光業界に進むのが向いている人とはどんな人でしょうか?

 

 

A まず好奇心が豊かで、いろんな土地のことを経験として知っている人。観光は幅広く奥深い世界ですから、基礎教養の高い人が、面白がって夢中に取り組むのがいちばん良いと思います。ウィスラー(カナダ)のスキーリゾートで働く日本の青年と話したとき、彼は次はニセコで働きたいと言っていました。そういう人が北海道観光の現場にどんどん来てくれると良いですね。また、日本語をしゃべれない外国人を受け入れる日本語学校が、観光地にちゃんとあれば良い。理想的には小樽商大に観光学科があって、そこで外国人に日本語を教えるクラスがあってほしい。産官学の連携がいろんな分野で志向されていますが、小樽市と小樽の企業と商大が、小樽とニセコを舞台にそんなスケールの大きな連携ができれば良いと思います。

 

 

Q 学生時代で思い出深いことは何ですか?

 

 

A 勉強の方ではあまりありません。いまはそんなことあり得ないでしょうが、結局先生の顔も知らずに試験を受けた、なんてこともありましたから(笑)。熱中したのはやはり部活の軟式テニスですね。ただ、私が学んだ1960年代後半は、全国で学生運動が盛んで、商大も例外ではありませんでした。でも私は典型的なノンポリ(nonpolitical)でした。学生のデモ隊がキャンパスを出てまちにおりていくとき、コートで練習している私たちをなじるんです。「恥を知れ、いまそんなことやってる場合か?!」などと。悔しかったですね。しかし彼らの言い分もわかるので、彼らが読んでいるような左翼系の本をこっそり読み込んだりしていました。

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