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エバーグリーンからのお知らせ

2019.12.04

平成31年/令和元年度第8回講義:「北海道の金融業界概論—地域金融の現状と展望」

講義概要(12月4日)

 

○講師:熊尾 憲昭 氏(昭和56年商学部経済学科卒/空知信用金庫 理事長)

 

○題目:「北海道の金融業界概論—地域金融の現状と展望」

 

○内容:

たくぎんに入行して、日本が好況に高揚する時代にキャリアを積み、銀行破綻の時代の渦中も経験した。国際ビジネスの最前線から、地域に根ざした現在の信用金庫の現場まで。私が経験してきたビジネスをもとに、道内金融機関の過去・現在・未来について話したい。

 

 

 

地域は、幅広い視野と知見を持つ若者を求めている

 

 

熊尾 憲昭 氏(昭和56年商学部経済学科卒/空知信用金庫 理事長)

 

 

 

 

 

たくぎんから空知信用金庫へ

 

 

 

今日は、空知信用金庫の本店のある岩見沢から来ました。
皆さん岩見沢というまちに興味をお持ちでしょうか?岩見沢は札幌から40キロほどで、札幌から見れば小樽と同じくらいの距離感です。近年では、例えば北海道開拓の拠点となった三つのエリア、空知・室蘭・小樽を石炭・鉄鋼・港湾・鉄道というテーマで結んだ「炭鉄港」という、観光や地域史探究の取り組みが行われていますが、これが今年の5月に、文化庁の日本遺産の指定を受けました。
また岩見沢を中心にした空知エリアは近年上質なワイナリーの営みが充実していますが、夏から秋にかけて、これらをタクシーで周遊して試飲や試食が楽しめる「ワインタクシー」という取り組みも人気です。

 

私は1958年に函館で生まれました。満61歳です。函館中部高校では考古学部の活動に熱中して、その分野に進もうと考えたこともありました。もしそうしていたら、現在とはまったくちがう人生を歩んでいたと思います。
商大に入ったのは1977年。
ゼミは早見弘先生の財政学のゼミで、所得分配をテーマにした卒論を書きました。
部活はアイセックで、海外留学生の受け入れなどに取り組みました。

卒業した1981年に北海道拓殖銀行に入行しました。名前のとおり北海道の開拓のための資本を供給するために1900年に国策として設立された銀行ですが、この時代には13行ある都市銀行のひとつに位置づけられ、行員は6500名ほどいました。私の同期120名のうち、12名が商大でした。
ご存知だと思いますが、たくぎんは1997年11月に破綻しました。道内の店舗は北洋銀行に営業譲渡され、本州の店舗は中央信託銀行、現在の三井住友信託銀行に譲渡されました。私はそのとき39歳。縁があって空知信用金庫に入庫して、2007年には専務理事、2016年に理事長となりました。

たくぎん時代のことを少しお話します。
初任店は室蘭です。ここで銀行マンの基礎を身につけました。ちなみに室蘭は最初にあげた「炭鉄港」の拠点のひとつですから、私はこれにちなむ3つのまちに深く関わった「ミスター炭鉄港」でもあります(笑)。
つぎに東京の武蔵関支店(練馬区)と蒲田支店(大田区)で働きました。それから、現在の豊田通商さんと合併した輸入商社に出向しました。ここはソ連(当時)や共産圏との貿易に強かった企業で、ソ連や中国、ハンガリーなどに出張したこともあります。2年間海外ビジネスの経験を積んで、たくぎんに戻ると東京の国際部に異動になりました。ここでは後半に大蔵省(当時)の国際金融局担当の仕事もしました。それからオーストラリアのシドニー駐在員事務所に赴任しました。ここでの顧客には雪印乳業(現・メグミルク)や日本ハムといった北海道にもゆかりの企業もあり、現地の企業ともおつき合いさせていただきました。

空知信用金庫でのキャリアは、営業推進部長としてはじまり、やがて常勤理事として営業推進部と事務部の担当役員となりました。2007年に専務理事となると営業推進部、総務部、人事部、事務部の担当役員になり、2016年から理事長になりました。

 

 

 

潰れないから、銀行に就職

 

 

 

どうして金融機関に就職しようと思ったのか—。考え抜いた末の選択というわけでもなかったのですが、理由をいくつか上げてみます。
高校生のころ、ある日祖父がこう言いました。
「銀行は良いよなぁ、寝てても金が入ってくる」—。
これは、銀行が休業している日でも、お客さまに融資した分の利息はしっかりカウントされるという意味です。この言葉がなんだか心に残っていました。
そして、「銀行は倒産しない」という社会的な信用がありました。これはやがて、そんなことはないという現実を厳しく突きつけられることになりますが、就活時代の私はそう思っていました。
さらに、銀行はたくさんの業種のいろんな方と出会い、ビジネスができる。これは実際にその通りでした。

若い時代に記憶に残るお客さまがいました。ふたつ例をあげます。
ひとつは、2億円くらい融資していた輸入商社ですが、あるとき、粉飾決算をしていることがわかりました。担保はフルカバーされていましたが、担当として私は「取引を停止しましょう」、と上司に相談しました。すると上司と支店長から、「何を言うんだ! 社員やその家族のことを考えて見ろ!」、と、びっくりするほど強く叱られました。まだ20代で、企業にとって銀行がどんな存在であるのか、深くは理解できていませんでした。結局融資額は4億円にまで膨らみました。担保不足の状態です。しかしほどなくして、その会社は全額を一括返済したいと言ってきました。ある地銀に肩代わりしてもらったのです。これには頭に来ました。せっかく真剣にサポートしていたのに—。そしてそれから3カ月もたたないうちに、その会社は不渡りを出して倒産してしまいました。金融は企業の生死、ひいては社員とその家族の人生を大きく左右する—。企業社会の厳しい現実を、なんとも苦い気持ちで受けとめました。

もうひとつは、上場企業の役員の奥さま。70代の方でした。毎月第二土曜日の10時半に定期預金の集金に伺うことになっていましたが、あるとき予定通りに訪問すると、まだ寝ていたようで機嫌が悪く、激怒されました。平身低頭あやまると、今度は男のくせにペコペコするな、とまた怒ります。どうしようもなくて支店長を呼んであやまってもらいました。すると全く何ごともなかったかのようにニコニコしだした。訳がわかりません。世の中には自分の想像を超えた人がいるし、そういう方を含めてどんな方にも満足していただかなければならないのがサービス業(金融もそのひとつです)なんだ、と思ったものでした。

 

 

 

北海道の金融機関をとりまく時代環境

 

 

 

さて、私がたくぎんに入った1981年の北海道の金融機関には、都銀のたくぎん、地銀の北海道銀行、さらには相互銀行という種類の銀行が2行ありました。北洋相互銀行と、北海道相互銀行です。そして信用金庫は、全道に33。信用組合は15ありました。
それが現在では、北海道に根ざした銀行は北洋銀行と北海道銀行、そして20の信用金庫と7つの信用組合へと大きく再編されました。
これらの店舗と職員の総数を見ると、1995年に道内にあった金融機関の店舗は1200くらいで、これが2018年では、たくぎんの分がなくなったこともあり約900店になっています。1995年は、バブル経済は終わっていましたが、たくぎんを破綻させた金融危機(1997年)が起こる前です。
信用金庫の店舗を見ると、95年に557店で、2018年には497店に。あまり減っていませんね。
職員数を見ると、95年には全機関で道内約18000人いたのが、2018年には10499人。45%も減りました。拓銀の6000人が減ったのが大きいのですが、全信用金庫の職員も6807人から4503人に減っています。

 

経常収益、いわゆる売上高で見ると、95年には全機関で1兆円近く。これが2018年には70%減の2923億円。95年当時の貸出金利は45%で、2018年には1.5%くらい、つまり三分の一になったので、この数字になるわけです。
一方で当期純利益、税引き後の利益で見れば、全機関で95年の320億円くらいから約380億円と、こちらは増えています。まずまず健闘していると言えるでしょう。

近年の北海道の金融機関をとりまく状況はどのようなものでしょう。理事長の肌感覚として、4つのポイントで俯瞰してみましょう。
一つ目は、北海道と南空知の経済状況。軸は建設土木と農業にありますが、この構造は40年前から変わっていません。建築・土木の分野では、都市部ではインバウンドなどが刺激になってホテルや札幌都心の再開発の動きがあり、農業では、農地の集積・集約化をめざす基盤整備事業が行われています。モノづくりでは、一次産品の高付加価値化の必要が叫ばれて久しいものがありますが(私が学生時代にアイセックで活動していたときにもこのテーマでシンポジウムを行いました)ことはうまく進んでいませんね。
そして二つ目。
現在の最大の問題といえば、やはり日銀のマイナス金利政策です。超低金利は、投資を呼び込みたい不動産業界などにはプラスに働いていますが、年金受給者層の消費を冷やしています。1980年代後半、例えば郵便局には10年ものの定額貯金があり、これの金利はなんと年8%もありました。いまでは想像もできないすごい金利です。これだと10年で元本が倍になります。いまだと何千年かかるでしょうか?(笑)5000万円を預けておけば、税引き後でも年間300万円くらいも利息が付きましたから、高齢者はそれだけで暮らせるほどの金利です。
三つ目は、とくに地方で顕著で大きな問題となっている人口減少があげられます。2014年に日本創成会議が出したいわゆる増田レポートの推計によれば、2010年に12800万人あった日本の人口は2040年には1億700万人、2060年には8674万人となります。
小樽は、2010年に13万1千人で2040年には6万7千人。このレポートが注目しているのは子どもを産む層の中心である20歳〜39歳の女性層で、小樽ではこの層が13千人から4400人と、なんと66%減になります。岩見沢でも、9500人いたこの層が2040年には4200人。54%減です。

四つ目は、経営者が抱く先行きの不透明感。
核心は後継者難です。黒字なのに経営を託す後継者を見いだせない企業がたくさんあります。
全国の中小企業の数は2000年には500万社くらいありましたが、いまは350万社くらいに。この先さらに減っていきます。しっかりとした事業継承のサポートをすることが、地域に根ざす信用金庫の重要な役目になっています。

 

 

 

地域金融の未来は

 

 

 

ここであらためて信用金庫という金融機関について説明します。
皆さんは銀行と信用金庫の違いを理解しているでしょうか。銀行は、株主のために利益を上げることを目的とする株式会社ですが、信用金庫は、会員(出資者)の自治に基づく経営を行う非営利の協同組織です。事業の目的は相互扶助にあり、利益を上げることではありません。議決権は、株式会社である銀行は株式1に対して1票ですが、信用金庫では出資金の多寡とは無関係に会員ひとりが1票です。
かつて城南信用金庫(本店:東京都品川区)の理事長を務めた小原鐵五郎という方が、「貸すも親切、貸さぬも親切」という言葉を残しています。夢を描くばかりで事業の勝算が見込めないお客さまがいれば、貸さない方が絶対に良い。地域に末長く根ざしている信用金庫であればこそ、目先の利益を追っては行けない、という教えです。

では、地域金融とメガバンクはどう違うのでしょうか。
最も大きな違いは、大口の企業を顧客にするか、中小企業や個人を顧客にするか。「ホールセール」と「リテール」の違いですね。信用金庫が顧客にできるのは、従業員300人以下、または資本金9億円以下の企業、と信用金庫法で決められています。しかし金融の基本はリテールにあります。一千億円単位でビジネスをする大都市圏のメガバンクでも、店舗の現場の基本はリテールにあるのです。

地域金融はこの先どうなっていくか。皆さんの興味のあるところだと思います。
2014年にオックスフォード大学の研究者が発表した、「あと10年で消える職業・なくなる仕事」というレポートはご存知だと思います。そこには37の仕事例があげられていました。銀行の融資担当、保険の審査、給与・福利厚生担当者、金融機関のクレジットアナリストなど、商大生が関わりそうな金融の仕事もたくさんあります。このときの「あと10年」はあと5年で来てしまいますが、銀行の融資担当はあと5年でなくならないことは間違いありません。その先のことは断言できませんけれど。

ファイナンスとテクノロジーを合わせた「フィンテック」という言葉もご存知だと思います。AIや電子マネー、ビットコインなどが金融の世界を大きく変えていることは間違いなく、地域金融でもキャッシュレス決済が増えています。みずほ銀行とソフトバンクがはじめたJ.Scoreでは、スマホで必要項目を入力するだけで融資可能額が出て、即日に最大で1000万円の融資を受けることができるのです。
そうした大きな潮流の中で、地域金融の未来はどのように開かれていくでしょうか。実物のマネーの流通は減り、窓口業務や融資の仕事は減るでしょう。RPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)によって、定型的なデスクワークは機械化されていきます。
しかし、世界が貨幣経済でまわっている以上、どんな時代になっても金融機関は社会に不可欠です。キャッシュレスの時代を基盤で支えるのは金融機関の高度な機能なのです。地域金融においてもこれからは、事業継承や資産運用、相続、そしてビジネスマッチングなどの分野でますます出番が増えていきます。利息を基盤にするビジネスモデルから、こうした新分野で手数料を得ていくビジネスへの発展です。地域経済を縁の下で支えるサウンドバンキング(健全銀行主義)。これが信用金庫の針路です。
またこれからは、地域で担い手がなくなっていく金融以外の業態を、信用金庫が支えていくことも考えられます。地域社会にどうしても必要なものを、私たちが維持します。例えばJAさんが小売店やガソリンスタンドを経営しているようなイメージです。

地域のために何ができるか。私たちは本業に加えて、少年野球大会を主催したり(空知信用金庫杯)、モノづくり教室、星空観察会、親子金融教室といったさまざまな活動を展開しています。
ですから信用金庫に必要な、あるいは向いている人材は、好奇心が強くて人との関わりを楽しみたい人、そして地域のために働きたいと考える人です。私は、外部からの目線や手法をもって地域に貢献できる若い力に期待しています。

 

 

 

若い後輩たちへ

 

 

 

緑丘の後輩の皆さんに伝えたいことを最後にまとめましょう。
まず、「世の中なにが起こるかわからない」こと。
卒業してたくぎんに就職したとき、銀行が破綻するとは誰も思いませんでした。しかし現実はちがいました。有名で規模の大きな会社に就職すれば安心、という考えはもはや通用しません。ダーウィンが進化論で論じたように、強い生物が生き残るのではなく、環境変化に対応できるものが生き残るのです。
いまの学生諸君は、将来のことをよく考え、よく勉強していると感じます。しかし自分が考えたようには進まないのが人生です。当たり前です。そんなとき、将来を固定的なルートで考えていると、挫折感は大きいでしょう。計画外のことが起こっていちいち落ち込んでいては、前に進めません。挫折は人生につきものです。そんなときでも前を向いてください。
昔の人は、「人生万事塞翁が馬」、「禍福はあざなえる縄のごとし」、と言いました。また、「やまない雨はない」、「あさが来ない夜はない」、とも言います。将来やってみたいことが決まっている人は、その道をまっすぐ進んでください。決まってない人は、なにか少しでも興味のあることがあれば、まずはとにかくやってみましょう。そして、一度やりはじめたら3年くらいは続けましょう。何かに取り組んだと人に言えるためには、そのくらいの時間が必要です。
私は、商大生は北海道経済を支えていく人材だと思っています。自分の進路設計に、「北海道のため、地域のため」という気持ちを意識してください。そのためには学問の基礎を身につけ、その上で道外や海外で視野を広げる経験が大切です。地域を変えるのは「若者」、「よそ者」、「ばか者」、などと言われますが、地域は、地域の外でいろいろ経験を積んだ人材を求めています。
そして最後にひとつ。
ビジネスの世界では、さまざまな摩擦や衝突があります。これも当然のことでしょう。しかしたとえぶつかっても、それが長く怨みを残すような事態は避けてください。摩擦や衝突はやがて成長力の糧になりますが、怨みは人生を傷つけます。これからの皆さんの人生が充実したものになることを、先輩として祈念します。

 

 

 

 

 

 

<熊尾 憲昭 さんへの質問>担当教員より

 

 

Q 1995年と2018年のデータで北海道の金融業界の変化をご説明いただきました。具体的な仕事の中味はどのように変わったといえるのでしょうか?

 

 

A 現場の仕事の中味は大きくは変わっていません。ただ私たちは、地域に根を張る姿勢がさらに強くなりました。講義で言ったように、信用金庫は営利を目的としない協同組織です。つまりステイクホルダーは株主だけではありません。地域経済の盛衰がそのまま業績に反映されるので、地域との関わりをより密接にして、地域のために何ができるか、という発想が強化されてきたと思います。

 

 

 

Q この質問は何度も受けていると思いますが、拓銀破綻当時をあらためて振り返って、熊尾さんのお考えを聞かせていただけますか?

 

 

A 1997年11月17日の月曜日、北海道拓殖銀行は破綻しました。私は国際部のシドニーの事務所から帰って大蔵省担当の仕事をしていました。その年の4月から、北海道銀行との合併の手続きが進んでいましたが、これが9月に白紙撤回となります。そのニュースが広がると、全店で一日数億円、多い日には百億円もの預金が引き出されていきました。お客さまがどんどん離れていったのです。親しい友人がその現場にいこともあり、事態の深刻度は分かりました。しかしながら、その流れがまさか破綻にまで至るとは思っていませんでした。全く甘い話ですが、国が都市銀行をつぶすわけがないとどこかで信じていたのです。いまとなっては、そこに至るまでになぜしかるべき手を打つことができなかったのか、と思うばかりです。残念でたまりませんでした。

 

 

 

Q 講義を総括する意味で後輩たちにメッセージをいただけますか?

 

 

A まず、何はともあれ勉強しましょう。どんな分野で仕事をしていくにしても、学生時代にぶ厚い基礎力をつけてください。それがあれば、長きにわたって応用ができます。そして商大生には、金融に限らず、北海道経済を支えていく役割があります。皆さんはそういう人材なのです。ぜひとも、その自負を持ってください。

 

 

 

 

<熊尾 憲昭 さんへの質問>学生より

 

 

Q 金融志望なのですが、大学時代にどんな学びをすれば良いのでしょうか?

 

 

A いま言ったように、学生時代には基礎をしっかり学んでほしい。それにつきると思います。少しちがう角度から加えましょう。うちの金庫から内定をもらった学生諸君がよく、入庫までのあいだにどんな勉強をすれば良いでしょうか、と聞いてきます。私は、「金融の勉強は特別しなくて良い」、と言います。入ってから、実践を通して嫌でもすることになるのですから。そのかわり、この時間は生涯を通して二度とないほどの貴重な時間だから、時間をかけて取り組むことを何か見つけてほしい。例えば、ヨーロッパを1週間旅行することはこの先あるかもしれませんが、ひと月旅することは考えにくいでしょう。アルバイトでお金を貯めてそういうことをしてはどうでしょうか。また、営業職ではつきものになるゴルフをはじめてみるとか。とにかくこの時間を活用して自分の引き出しを増やしてほしいのです。

 

 

 

Q バブル経済の時代の金融業界はものすごく忙しくてキツかったと聞きます。働き方は変わったのでしょうか?

 

 

A 1980年代の後半から90年代はじめにかけて、私はたくぎんで東京勤務でしたが、終電ギリギリまで仕事をすることがしょっちゅうありました。しかしいまは全くちがいます。空知信用金庫では、テラー(窓口業務)の職員では18時、営業でも19時までにはだいたい帰ります。そして毎週水曜日はノー残業デーです。遅くまで電気が消えない支店があると、私は支店長に、「何やってるんだ!」と電話をかけます(笑)。その分、日中の仕事の密度は高まっています。また、営業のノルマが厳しい時代もありましたが、この分野もずいぶん変わりました。昔のように無茶な目標設定はありません。

 

 

 

Q オススメの本はありますか?

 

 

A 今回の推薦図書で稲盛和夫さんの本をあげておきましたが、乱読でも良いのでとにかく読書の習慣をつけてください。読書からは、知識や考え方を鍛えることに加えて、文章力も身につきます。稲森和夫さんは、「足るを知る」ということを強調しています。人間の欲望にはきりがありません。これを制御することができなければ、社会は崩壊してしまうでしょう。1980年代後半のバブル経済はまさに、人間の欲望が行き着いた先だったのです。そして、ぜひ新聞を読んでほしいと思います。スマホで見出しを拾い読みするだけではなく、できれば紙で継続的に読み続ける習慣をつけてほしい。そこから、深くて広い見識が身についていきます。

 

 

 

Q 金融業界の中で、信用金庫だからこそできることは何でしょうか?

 

 

A 営業エリアが狭いので、地域と深く長いおつき合いができることです。うちでは岩見沢を中心に、札幌の8店も含めて21の店を展開していますが、キャリアをはじめた店に、中堅になって再赴任することもあります。互いに歳を取り成長したお客さまとの深い関わりがそこからまた始まります。ですから、人に役立つ仕事、地域に貢献できる仕事をしたい、と考える人には向いている仕事だと思います。一方で、信用金庫の業務は、地域の中だけで狭く完結した仕事ではありません。全国の250以上の信用金庫のネットワークにも繋がっていますから、地銀さんなどとも十分に対抗したビジネスを展開することができます。

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