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エバーグリーンからのお知らせ

2018.10.17

平成30年度第2回講義:U30「10年後のジブンを描く」

講義概要(10月17日)

 

○講師:
篠村 恭太氏(平成25年社会情報学科卒/合同会社ToGo代表)
織田 開智氏(平成26年経済学科卒/日本マイクロソフト株式会社)
佐々木 葉子氏(平成26年社会情報学科卒/北海道総合研究調査会)

 

○題目:「10年後のジブンを描く」

 

○内容:
学生たちが近未来の自分を投影しやすい20代の先輩が登壇する、「U30」(アンダー・サーティ)企画。今年は起業家、グローバルIT企業、そして北海道に根ざしたシンクタンクと、多彩な3人が母校に戻り、それぞれの学生時代と現在の仕事を語る。10年後の自分をよりリアルに想像しながら、いま小樽で学ぶ意味を考える入り口としたい。私の「これまで」と「これから」

 

 

 

北海道の観光に新しいビジネスの渦を起こしたい

 

 

篠村 恭太氏(平成25年社会情報学科卒/合同会社ToGo代表)

 

 

私は昨年(2017年)の2月に、ゲストハウスを運営する会社を立ち上げました。今日は3つの切り口から自己紹介をします。

商大時代の自分は、英語と経営をしっかり学ぼうと考えていました。しかし4つのサークルを掛け持ちしたり、塾講師のアルバイトに熱中したり、勉強よりも学生生活自体を満喫していたと思います。そして、満喫するあまり就活に失敗しました(笑)。

だから切り口のひとつは「挫折」です。いちばん入りたい会社に入れなかった私は、次の志望企業(旧財閥系の金融企業)に入ったのですが、たったの7カ月でやめてしまいました。企業カルチャーにどうしても溶け込めなかったのです。

東京から札幌に戻り、ニート状態になりました。2カ月くらい友だちの家を点々としました。いちおうお礼として彼らのために炊事や掃除はしたのですが、あるとき、「お前は喰って寝るだけで、まるでう○こ製造機だな」などと言われてしまいました。これはさすがにこたえて、なんとかしなきゃ、と立ち上がりました。そして会社を作ったのです。

 

 

キーワードのふたつめは、「0→1」

 

 

ゼロの状態から新しい何かを作り出す。それが「0→1」です。私は、ゲストハウスを運営するToGoという会社友人とふたりで起業して、まず札幌駅の北口に「Wagayado晴-HaLe-」という宿を作りました。ゲストハウスは、いま日本で1500軒くらいあると言われています。インバウンドのツーリストにとても人気で、旅行者同士が気軽に出会える場づくりを意識した、素泊まりの簡易宿泊所です。今年の3月には函館の湯ノ川で、ライブハウスと組み合わせたユニークなゲストハウス、「TUNE」をオープンさせました。元手にはクラウドファンディングの手法も活用しました。どちらも既存の建物をリノベーションしたもので、函館の宿は楽器の一部やレコードをインテリアに使ったり、自分たちのさまざまなこだわりやアイデアを駆使しています。

 

 

そして三つめのキーワードは、「変化」

 

 

実は函館のゲストハウスは、この9月に建物のオーナー企業に譲渡しました。私たちが立ち上げたビジネスが軌道に乗ったので、先方はこれからは自分たちでやる、となったわけです。札幌のゲストハウスも、手ごたえを感じた上で、来年(2019年)1月に閉める予定です。

じゃあ次はどうするか? ふたつあります。まずひとつは、いま商大の猪口純路先生のゼミと協働で、小樽市緑1丁目にゲストハウスを開業する準備を進めています(2019.3月予定)。そしてふたつ目。私はこれから、ゲストハウスや飲食店を立ち上げる人のサポートをする仕事をしたいのです。そのための会社をもう少しで立ち上げます。コンセプトは、「北海道×観光×IT」。若いエンジニア3人を抱えて、生まれ育った北海道の主要産業である観光の分野で、新しい取り組みをいろいろ起こして行きたいと考えています。

 

 

<篠村恭太さんへの質問>担当教員より

 

Q 起業ということに学生はまだリアルなイメージを持ちづらいと思いますが、起業はどのくらい大変ですか? あるいは大変じゃない? また、投資してくれる人や企業はどのように見つけましたか?

 

A 会社を作るだけなら、書類を揃えて手続きするだけですから、とても簡単です(笑)。でも会社をまわしていくことにはたくさんの壁があります。単純に言うとそれは、「お金」と「人」。キャッシュ・フローがショートして、口座の残高が1万円を切ってしまったこともありました。これではみんなに給料が払えない!と青くなりました。また人に関しては、採用と教育はほんとうに難しいです。私は最初の会社を7カ月で辞めましたが、それより短い時間で去って行った人もいました。スタートアップ企業では特に、ビジョンとミッションをしっかり共有していなければならないと痛感します。この会社で自分たちは社会にどんな価値を生み出すのか、自分たちの手でどんな世界を実現させたいのか。そこで経営者は、「人としての自分」が問われます。それは大学で学ぶ知識とは別次元のことですね。

起業の財源のひとつは、クラウドファンディングで集めました。そして、こんなこともありました。ゲストハウスに就活生が泊まってくれてホールでいろいろ話をしていたら、話に加わってきた方がいて、その人とかなり意気投合したのです。私の事業計画を話したところ、じゃあぜひ出資させてくれ、と。話を聞くと、会社を3社経営している31才の事業家でした。

 

 

<篠村恭太さんへの質問>学生より

 

 

Q 影響を受けた人や、尊敬する人を教えてください。

 

A 私には尊敬する人が3人います。ひとりは、プロデューサーのあの秋元康さん。そして、くまモンをプロデュースした放送作家の小山薫堂さん。3人目は、リリー・フランキーさん。リリー・フランキーさんは何が本業なのかよくわからないほど幅広い活動をしていますが、大きくとらえれば物事を実践として再定義していくプロフェッショナルだと思います。そして3人に共通しているのは、独自の世界観をもって、社会に新しい価値を提示したり提供していること。自分も企業人としてそこを目標とします。

 

 

 

進路を決めた、1年生で出会った特別講義

 

 

織田 開智氏(平成26年経済学科卒/日本マイクロソフト株式会社)

 

 

 

私は札幌出身で、中学高校ではサッカーに熱中していました(いまでも東京のチームでプレーしています)。商大時代にいちばん熱く取り組んだのは、ゼミです。学科がちがう近藤公彦先生のゼミで、代表も務めました。1年生のときに東日本大震災が起こりました(2011.03.11)。何かしなければ、という思いに駆られて現地に行って、小樽で支援の団体を立ち上げたりしました。また学内の国際交流サークルでも活動しました。

 

マイクロソフトの日本法人に入ろうと思ったのは、1年生のときにさかのぼります。世界を代表するIT企業の日本のリーダーの方たちが商大に来た特別授業があって(商大百周年記念事業「ITサミット」)、強烈な印象を受けたのでした。

現在外資系IT企業に勤めているといっても、私には留学経験もプログラミングの技術もありませんでした。自分の興味を惹くものがあったなら、とにかく何でもやってみよう。何とかなるさ—。子どものころからそんなことの連続だったので、いまの自分があると思います。英語は、国際交流サークルの場で、自分からどん欲に吸収しました。

 

いまの仕事のことを話します。皆さんGAFA(ガーファ)という言葉を知っていますか?

Google、Apple、Facebook、Amazonの頭文字を取ったもので、いま世界の経済を動かしているといっても過言ではない4つの企業です。4社に共通するのは、単なるモノや情報の生産ややり取りに留まらず、「顧客との接点がとても多い」ということ。彼らは、スマートフォンやのOS、AIスピーカー、SNSなどからビッグデータを集めて、世界経済のエンジンを動かしている、いわゆる「プラットフォーマー」なのです。

マイクロソフト社は、残念ながらこの流れに乗り遅れてしまいました。今となってはそのことがよく分かるビル・ゲイツ(創業者)の言葉があります。創業時の彼のビジョンは、「すべてのデスクとすべての家庭に一台のコンピュータを」、というものでした。1980年代にマイクロソフト社は、WindowsというOSやWordやExcelといったパッケージになったソフトウェアで、ビジネスや人々の暮らしを大きく変えました。これはインターネットで世界が繋がる前のことで、彼らは結果としてその成功に依存しすぎました。GoogleやAmazonといった新興企業は、インターネットを舞台に立ち上がったのですから。

マイクロソフト社の現在のCEOサティア・ナデラはこう言っています。「我々は地球上すべての個人とすべての組織がより多くのことを達成できるようにする」。ひとことで言うと、人々をEmpowerする会社だ、というわけです。私たちは、AIやIoTの分野を軸に、プラットフォーマーの4社と伍していこうとしています。

 

 

私の仕事内容について。

 

 

入社して2年間は、マイクロソフトのプロダクトを扱ってくれる代理店さんと取引をする部署(パートナーセールス)に配属されました。クライアントは自分よりずっと年上で、パッケージになったソフトウェアを長年扱ってきた企業の方々。そんな皆さんは、Windowsが5、6年に1回メジャー・アップデートされる機会を最大の商機と位置づけてきました。でも近年のマイクロソフトのビジネスは、クラウドによるサブスクリプション・モデル(期間設定の定額制)に替わっています。現場ではその摩擦に苦労しました。現在は、中・大企業向にAIやIotを活用したコンサルティング営業に取り組んでいます。

外資系大手企業の文化として、3つの要素が上げられると思います。「多国籍」「自由」「規律」です。毎年アメリカで社員総会が開かれますが、世界中から3万人くらい集まってワイワイ楽しみながら交流します。働き方も自由で、オフィスに自分の席は決まっていませんし、始業終業の時間も個人任せ。毎日出社する必要もありません。そしてその上でいちばん重要なのは、規律(Discipline)グローバルで自由な空気の中でのびのび働けますが、アウトプットはそれはそれは厳しく求められます。営業成績はほんとに事細かに可視化されて、上司からのプレッシャーも時に尋常ではありません。

 

 

 

<織田開智さんへの質問>担当教員より

 

Q 毎日の仕事内容や働き方について、もう少し教えていただけますか?

 

A 仕事によってまちまちなのですが、朝は、通勤の混雑を避けるために10時スタートがベースです。私は独身でいろいろつきあいも多いので、夜に飲み会があれば16時に上がって自宅でシャワーを浴びておしゃれして出かける、などということもあります。かと思えば12時間びっちりオフィスで仕事をする日もあります。休暇や休日は、旅行したりサッカーを見に行ったり。家で資料を読み込むこともあります。サラリーマンだけれど自己裁量の部分が大きいですね。なんか、ずっと仕事をしてずっと遊んでいるみたいな(笑)。外資系ならではのカルチャーだと思いますが、結果がすべてです。いくらこつこつ努力しても、成果が上がらなければ全く意味はない。1年目のとき上司に、最近どうだ? と聞かれたことがありました。「はい、がんばってます!」と答えたら、「がんばらなくて良いから、結果出せよ」と言われました(笑)。つまりプロセスをアピールしても意味がないんですね。こういうカルチャーに染まると、転職するにしても日本の企業は難しいかもしれません。

 

 

<織田開智さんへの質問>学生より

 

Q 外資系の会社がひとりひとりの社員に求めているのはどんなことだと思いますか?

 

A 私がいまの会社で感じるのはふたつです。ひとつは「自分で考えること」。ふたつめは「柔軟性」。石の上にも3年、といいますが、いまの時代、ビジネスの最前線で3年前の知識や情報で役に立つものがどれほどあるでしょうか。だから物事を100%理解してコツコツと進んで行くのではなく、60%くらいの理解でもとにかく前に大きく進んでいくフットワークが求められます。それがグローバル企業で働く人に必要なマインドだと思います。

 

 

 

国際開発学を学びたくて本場のイギリスへ

 

 

佐々木 葉子氏(平成26年社会情報学科卒/北海道総合研究調査会)

 

 

私はいま、札幌のシンクタンク、北海道総合研究調査会(HIT)に勤めて2年目です。商大時代は、木村泰知先生のゼミが立ち上げた(株)SEA-NAで活動しました。部活は、高校の時から続けた女子ハンドボール部。3年生のときにキャプテンを務めて、全道一になって全日本インカレに出場したことがちょっと自慢です(笑)。札幌ドームでカレーを売ったり、ホテルの宴会場で配膳をしたり、アルバイトでも忙しい学生生活でした。

私の卒業後の針路は、前のおふたりと少しちがっていました。イギリスの大学の大学院で、国際開発学という学問を学びました。イギリスは、国際開発学の発祥の国です。

 

最初から留学をしようと考えていたわけではありません。就活をはじめた3年の冬、私は海外と深く関わる仕事をしたいと思っていました。セミナーなどに出席して情報を集めたのですが、その分野の日本の会社に入社できても、海外に行けるのは7年目くらいにようやく出張で、なんていう話を聞いて、これはダメだ、と思いました。それならば留学しよう! と決めました。日本で就職する前に、海外で暮らして勉強しようと思ったんです。

日本からの海外留学には、大学間の交換留学とかいくつかの方法があります。そして1年か2年間休学して留学して、もどって復学して、日本の大学を卒業する人が多いようです。でも私は、帰ってきてからまた卒論と格闘したりするのはきついな、と思いました。ですから商大を卒業してけじめをつけてから、国際開発学をイギリスで学ぼうと思ったのです。そのために最適な大学を調べて、3つを選びました。それが4年生の夏くらい。必要な書類(志望理由書・英語の試験・推薦書など)を用意して、4年生の初冬に提出します。でも合否がわかるタイミングが商大の卒業式の直前になって、落ち着かない日々でした。幸い3つの大学とも合格して、その中でレディング大学(University of Reading)に決めました。日本人が比較的少ない大学で、ロンドンから電車で30分弱くらいのまちの、広大な緑の中にある伝統校です。2015年の6月に渡英して、まず10週間の英語プログラムを受けてから、9月に入学。イギリスの大学では1年間で修士が取れます。とてもハードでしたが、充実した1年間をおくることができました。

 

国際開発学という学問は、世界の貧困や格差の是正や、ジェンダー、人権などを総合的に探求するもので、19世紀の欧米の帝国主義が20世紀に至って生み出した、比較的新しい社会科学の一分野です。レディング大学にはいろいろな背景を持っている学生が世界から来ていました。少人数で進められる授業では学生と教授の垣根が低くて、アフリカから来ている学生たちの自己主張の強さに驚いたり、日本ではできない学びを体験できました。日本の大学は入るのは難しいけれど出るのは簡単。対して欧米の大学は…、という言い方がよくされます。これは本当にそうでした(笑)。統計データや論文と格闘しながら英語による読み書きとディスカッションの1年間。毎日が必死でした。

一方で、寮生活の仲間たちとパーティをしたり、休日には旅行もして、貴重な時間を有意義に暮らせたと思います。自炊や節約など、生活力もずいぶん鍛えられました。

 

2016年の9月に帰ってきて、10月から就活に入りました。学んだことを活かしながらさらに成長できる環境を求めた中で、いまの北海道総合研究調査会というシンクタンクに就職しました。皆さんには馴染みが薄いかもしれませんが、シンクタンクとは、社会のいろいろな問題や課題について調査研究を行って、政策への提言などをする公共性の高い機関です。入社して私は例えば、札幌市が取り組む「女性が輝くまちづくり」に関わる調査・検討の仕事をしました。データの整理からはじまり、市民のグループインタビュー、市長と市民との意見交換会の運営や、関連会議の企画・運営、先進事例の視察などをチームの一員として行い、レポートを作りました。ちなみに触れておきますが、札幌は、性比(女性百人に対する男性の数)が政令市の中で最も低い87.4で、小樽はさらに低い82.1。にも関わらず札幌では女性の未婚率が高い。一方で就業時間のデータを見ると、札幌の男性は全国平均よりもかなり多くて、つまり札幌では女性が引く手あまたのはずなのに男性が忙しすぎて結婚するカップルが増えづらいのかな、という状況が見えてきます。

 

私のキャリアが皆さんの参考になるとしたら、就活では「進学」、そして「留学」という選択肢もあるんだ、ということだと思います。選択肢を幅広く見渡して、まわりの動向に影響されすぎないことも大事ではないでしょうか。中学校のとき私は友だちから、「葉子はGoing my way」だよね、と言われたことをよく覚えています。自分がどうしても進みたい針路が見つけられたら、Going my wayでいいんじゃないでしょうか。私はこれからもそうして自分のキャリアを積んでいきたいと思っています。

 

 

<佐々木 葉子さんへの質問>担当教員より

 

 

Q 留学で得たものを、もう少し詳しく教えていただけますか?

 

  • A 少し大げさに言うと、生きて暮らしていくことの原点を考えさせられました。日本でならまわりに親兄弟や友だちがいつもいて、日常生活が大変だなんて考えることはありませんでした。でもイギリスでは何から何までまずは自分でしなければならず、家事や家計の管理の能力がずいぶん鍛えられました。でもそれを苦労とは思いませんでした。日本で暮らすのは楽だけれど、少子高齢化がさらに進むし、私たちが高齢者になるころの年金がどうなっているかなんて考えると、あまり明るいイメージが持てません。イギリスでは、Brexit(EU離脱)などの問題はあるにせよ、未来に向かう勢いが日本よりもあるように感じました。

私は、尊敬する人を意識することが大好きです。影響を受けやすいんですね。留学中にも何人も尊敬できる人と出会うことができました。日本を離れて暮らすプレッシャーの中で、尊敬できる人に近づこうと懸命に努力したのは、とても幸せな時間でした。

 

 

<佐々木 葉子さんへの質問>学生より

 

 

Q 帰国して臨んだ就活に不安はありませんでしたか?

 

A 9月に帰ってきて10月から始めたわけですが、そのタイミングだとほとんどの会社の新規採用は終わっていました。でもそんなに不安ではありませんでした。私の場合は自分が学んできた分野にできるだけ近い仕事、という明確な進路がありましたし、いろんな分野の企業がたくさんあって悩むよりも、絞られた中で探す方がやりやすかったのです。みんなと違うことをするのに躊躇しない、「Going my way」の私ですから(笑)。

海外に出たいと思う学生にとっていまは、私の時代よりもさらに便利で有利な制度が揃っていると聞きました。うらやましいです。皆さんどんどんチャレンジしてみてください。

<3人への質問>学生より

 

 

Q 学生時代に特にがんばったことは?

 

篠村

A 学習塾の講師のアルバイトです。後半は高校生を担当したのですが、生徒の人生の重要な局面に関わることの責任や喜びを感じていました。合格に導くことができたら、僕自身の名誉でもある。単に報酬が目的のアルバイトとは思っていませんでした。

 

織田

A ゼミの活動です。近藤ゼミの(株)i-vacsの代表を務めました。会社は4年目の時期で、やや停滞期でした。いろんな議論をして、夢中だったのでずいぶんキツイ言葉で仲間を責めてしまったこともあり、反省も込めて思い出深いです。3学年がいっしょで、先輩たちも入れると6年にわたるメンバーがいます。卒業してもメンバー同士の交流があって、関東で飲み会を開いたり、仕事に役立つ情報ネットワークにもなっています。

 

 

佐々木

A 部活のハンドボールです。全道優勝もしましたが、練習は週2、3回で、メンバーはそれぞれ、勉強のほかにバイトや趣味もちゃんと楽しんでいました。旅行にも行ったり。仲間とはいまも連絡を取り合っていて、ハンドボールがもたらしてくれたたくさんのことが、私の大切な財産です。

 

 

Q 就活での失敗や、今の仕事を選んだいきさつは?

 

佐々木

A 高校の地理の先生の影響で、商大に入る前から国際開発学のことを学びはじめていました。先ほど述べたように、留学も就活も、その延長にありました。

 

篠村

A 就活のあと、私は企業に入ってから見事に失敗しました。東京での暮らしは刺激があってとても楽しかったのですが、財閥系の金融企業のカルチャーにどうしてもなじめなかった。さっきの織田さんの話にあったのとは真逆で、その会社はプロセスをとても重視しました。目標はひとつでも、やり方は人の数だけあるはず。そんな自分の考えは完全に否定されてしまいました。

 

織田

A 1年生のときの特別授業で刺激を受けたという話をしましたが、その影響で私も卒業後の進路はITの分野、と早くから決めていました。その上でマーケティングのゼミで学んだわけです。大学で得た知識などビジネスの現場では役に立たない、なんていう考えもあるでしょう。でもベースがしっかりしていなければどんな高度なことも始められません。いまの仕事の基盤は、ゼミで作ることができたと思っています。

 

 

<3人への質問>教員より

 

 

Q では最後に、今回のテーマですが、「10年後のジブン」をどのように描いていますか? 加えて、後輩たちにメッセージをひと言ずつお願いします。

 

篠村

A 2028年には、北海道の若手企業家としていろんな方に認められる存在になっていたいです。「北海道」と「観光」というテーマで「0→1」をやりつづけて、北海道の経済に貢献していきたい。後輩たちには、失敗してもかまわないから、とにかく立ち上がって進もう、と伝えたいと思います。できないことの言い訳を考える前に、まずやってみる。そんな挑戦が、絶対に価値のある自分の糧になります。

 

織田

A 転職をしてもとにかく仕事を楽しんでいたいです。よく、「最近の若者は安定を求める」、ということが言われます。でも安定って何でしょう?役所や大会社に入って大過なく何十年も勤め上げることでしょうか?私はちがうと思うのです。どんな環境にあってもしなやかに自立して生きていられること。そんな力を持つことが「安定」だと思います。

メッセージとして、「点と点はあとで線になる」という一節を上げたいです。スティーブ・ジョブズが言った大好きな言葉です。いま目の前のことに全力で取り組めば、それがやがて大きな展開を生むんだ、という信念ですね。

 

佐々木

A 10年後は36才。私はヨーロッパで働いていたいと思います。自分の未来を自分でどのように拓いていけば良いのか—。皆さんは、漠然とした夢を遠くに据えるよりも、自分はこうなりたいという具体的なビジョンを近くに据えて、一歩ずつ進んでいけば良いと思います。そして繰り返しになりますが、卒業後の進路には、就職のほかに進学や留学もあるんだ、と選択肢を広く持つことをおすすめします。

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